ベビーシッター

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ベビーシッター

 日上は一度プランを決めると、やることが早かった。早速、ベビーシッターの知り合いに電話をかけ、三十分後に面談の予約を取り付けた。 「じゃあ俺ら、ちょっと出かけてくるから。店番よろしくね」  日上がレジに立っているアルバイトに声をかけたあと、肩越しに早く来いよと一瞥してくる。真人は急いでおんぶ紐で智を負ぶり、スタッフルームから接客フロアに出た。  バイトの男が「いってらっしゃい」と真人に声をかけてくれた。行ってきます、と返して、日上の背中を追う。  日上に連れられて、真人は竹下通りの裏道を、地下鉄表参道方面に五分ほど歩いた。その間に、背中にいる智はまた眠ってしまった。 すぐに目的の場所に辿り着く。マンションが立ち並ぶ一帯の中に、『原宿レジデンス』はあった。レンガ色のタイルを敷き詰めた綺麗な、七階建てのマンションだ。エントランスフロアは無駄に広く、ガラス張りのドアの前にはオートロックが設置されている。  日上が慣れた手つきでボタンを押した。ややあってから、「どうぞ」と女性の声が流れ、自動ドアが開く。 「オートロックのマンションって、初めて入ります」  きょろきょろと周りを見ながら、真人は日上に続いてドアを通り抜ける。 「だいぶオートロックのマンションが増えてきてるぞ。俺の家もそうだし」 「そうなんですか」  ――良い家に住んでるんだろうな。  少し羨ましくなった。  真人たちが住んでいる部屋は、二階建てのアパートだ。築二十年以上で、洗濯機が玄関の外にある。引っ越したい気持ちはあるが、当分無理だろう。真人の収入が安定するまでは。 「そういやお前、どこに住んでるんだ?」  エレベーターを待ちながら、日上が思い出したように聞いてくる。 「三軒茶屋です」 「良いところに住んでるな」  日上が意外そうに眉を上げた。 「まあ、場所は良いですけど」  渋谷まで電車で五分、歩いて三十八分だ。なぜそんな良い立地に住んでいるのかといえば、今日子の都合だった。彼女の勤め先が渋谷の駅近くにある美容院なのだ。  エレベーターが一階に下りてきたので二人は乗り込んだ。四階を押して、日上が不意に真人の隣に立った。また、背中にいる智の頭を撫でてくれた。 「子供が好きなんですか」  聞かなくても分かるが、話題がなくて聞いた。 「好きだな。とくにこれぐらいの年齢だと無条件で可愛い。生意気なことも言わないし」  目を細めて智を見た後、日上は口元を歪ませた、気がした。 「日上さんのお子さんって何歳なんですか」 「十歳だ。女の子」  ということは小学生の高学年だ。真人が予想していたよりずっと、日上の子供は大きい。彼は真人より二つ上の三十二歳だ。だいぶ若いうちに結婚し、子供を設けたことになる。 「それぐらいの年齢だと、手もかからなくて良いですね」 「まあな」  若干、日上の声のトーンが低くなった。  エレベーターが四階に着き、話は途切れた。  廊下に出て、四〇二号室のドアの前で日上が立ち止まった。表札には『元木』と書かれている。インターホンを鳴らすと、すぐに応答があり、ドアが開いた。 「ああ日上さん、久しぶりね」  玄関に立つ女性は、六十代ぐらいの中肉中背の女性だった。年相応に皺があるものの、薄化粧を施し、小奇麗にしている。白髪はない。ストライプのエプロンを身に着け、ロングTシャツを腕まくりしている。快活なイメージだ。   玄関に招き入れられ三和土に立ったところで、真人は彼女と挨拶を交わした。 「日上さんから少し話は聞いているわよ。将来有望なイラストレーターだって」  彼女がいたずらっぽく笑った。日上が不機嫌そうな顔をして、「そこまで褒めてねえよ」とぼやいた。  ――将来有望、か。  嬉しくないわけじゃないが、焦燥の方が強くなる。自分はもう三十路なのだ。なのにまだ、仕事で成果を上げていないし、収入も安定していない。  部屋に上がったとたん、自宅とは違う間取りに少し驚いた。リビングに向かうまでの廊下がないのだ。ふつうの間取りとは違う。 「変わった間取りですね」  日上に耳打ちすると、彼は「ああ」とつまらなそうに答えた。 「センターイン型ってやつだ。玄関が住戸の真ん中に設置されてるんだ」 「へえ」 「こういう間取り、人気があるんだよ。俺の部屋もそうだし」 「へえ」 「へえ、しか言えないのかよ」  やっぱりバカだな、と付け加えて、日上が真人の頭を乱暴に撫でてくる。案外日上は、スキンシップが好きなようだ。  玄関入って左側には、広いリビングがある。ワックスがかかったようなピカピカのフローリングだ。角のある家具も置いていないし、物自体がない。清潔感があって良い。システムキッチンも綺麗で衛生的だ。 「ここで智くんのお世話をするわね。もちろん智くんがいるときは、ここにジョイントマットを敷くから」  元木がフローリングの床を指さした。転んでも痛くないように、という配慮だろう。 「あ、智くんのオムツ、パンパンになってるわよ」  元木に指摘され、真人はハッとした。オムツ替えをしたのは自宅を出る直前だった。それ以来一度もしていない。というか、色々忘れすぎている。ミルクも離乳食も与えていない。正午をとっくに過ぎているのに。 「智、ごめん」  おんぶ紐を慌てて外そうとすると、日上が呆れ顔で手伝ってくれた。こういうとき、子育てに慣れている人がいると助かる。  元木が急いでバスタオルを持ってきてくれる。床に敷いたそれの上に、智を仰向けに寝させる。デイバッグの中からお尻拭きとオムツを取り出すと、「私がやるわよ」と元木が言った。真人よりもテキパキと智のオムツ替えをしてくれる。そのあと、粉ミルクを適温のお湯で溶かして、哺乳瓶で智に飲ませてくれた。更に、冷蔵庫にあるもので、離乳食まで作ってくれた。その際、ちゃんとアレルギーがないか聞いてくれた。何から何まで、元木は完璧で文句の付け所がなかった。  智が座布団の上で午睡している間、三人は智の保育ついて話し合った。金銭的なことも。 「保育料は一時間五百円でいいわよ。一度引退した身だしね」 「え、五百円て」  あまりにも破格で、ちょっと心配になるぐらいだ。 「元木さんは、保母さんの資格は持ってるんですか」 「もちろん持ってるわよ。五十半ばまでは保育所で働いてたの。ここに引っ越すタイミングで辞めて、ベビーシッターになったのよ」 「なんで一度引退したんですか」 「去年私の娘が子供を産んだのよ。孫の面倒を見に、娘夫婦の家に泊りで出かけることが多くなって、物理的に仕事を続けるのが無理になったの。あのままあっちに住んじゃおうかとも思ったんだけど、さすがにお婿さんが嫌がったし、娘も子育てに慣れて私の手を必要としなくなってきたから、またシッター業を再開しようかな、と思っていたところ」  ちょうどいいタイミングで、真人が仕事を依頼してきた、ということだ。 「オムツと粉ミルクは毎日持ってきても良いし、まとまった量をここに置いて行ってもいいわよ。もし忘れたら実費でもらうから。明日の朝、智くんのお気に入りのおもちゃとか、タオルとかも持ってきてくれる?」 「あ、はい、持ってきます」  一時間弱話しただけで、元木が信用できる人間だと確信できた。年齢の割に頭の回転も、動作も早い。  彼女から渡された連絡帳と、保育申込のプリントをデイバッグに入れ、真人は日上と共にお暇した。  元木の部屋から出てすぐに、真人は日上に向かって頭を下げていた。 「日上さん、色々とありがとうございました」  真人の声に重なるように、ふえっ、と背後でひしゃげた声がした。  勢いよく腰を曲げたせいで、負ぶっていた智の顔が、真人の首にぶつかったようだ。 「あーごめん! 智」  愛息の頭をよしよしと撫でたあと、日上の顔を見る。彼はやはり呆れた表情を浮かべていた。 「おまえはほんとバカだな……」 「そんな、しみじみと言わないでください」  自分でも分かっている。年齢の割に行動が幼いとか、ボケをかますとか。自分が情けなくなることも数えきれないほどある。 「でも、子供のことは可愛がってるな」  日上が珍しく口元を緩めた。眼差しまで優しかった。そんな顔を真人に晒したのは初めてだ。 「――僕、今までぬるま湯に浸かってました。智の面倒を見てるってことを言い訳にして、仕事に打ち込めないのも仕方ないって自分を甘やかしてた」  自分にも日上のような行動力があったら、こんな状況にはなっていなかった。  日上の目をしっかりと見た。彼も真顔で真人の顔を見ている。 「日上さんの期待に応えられるように、明日から頑張ります」  日上にここまでお膳立てしてもらったのだ。頑張るしかない。がむしゃらに。 「は? 今日から頑張れよ。まだ時間あるだろ」 「え?」 「俺の店に戻るんだよ。とりあえず店で着る服を選んでやるよ」  有無を言わさぬ口調で言い、日上が真人の額にデコピンしてくる。容赦のない力の入れようで、ふつうに痛い。 「ちゃんと金は払う。時給千円。定休日はないけど、休みたいときに電話してくれればそれでいい」  励ますように肩を叩かれて、真人はよけいやる気が出た。  ――日上さんって思っていたよりもいい人なのかも。  初めて会ったときとは、全然印象が違う。  うまくやっていけるかもしれない。仕事も、子育ても。  自然と笑みが浮かぶ。背中にいる智を軽く揺すってやると、弾むような喃語が聞こえてくる。
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