178人が本棚に入れています
本棚に追加
今日子の不機嫌
十八時過ぎに自宅に帰り着いた。まだ今日子は帰ってきていない。
真人は智にミルクを飲ませ、レトルトの離乳食を食べさせて、一緒にお風呂に入った。入浴後、智が何度も目を擦るので、すぐに布団に寝かせてやると秒速で眠ってしまった。智も今日は、一日外出していて疲れたのだろう。真人も睡魔に襲われたが、無理やり布団から体を起こし、キッチンに向かった。自分と今日子の分の焼きうどんを作って、テーブルに着いて先に食べることにする。
手抜き料理だったが、空腹だったためいつもより美味しく感じた。あっという間に完食する。
二十時を数分過ぎたころ、今日子がようやく帰って来た。
ただいまあ、と間延びした声が玄関から聞こえてくる。けっこう疲れているようだ。
おかえりーと返して、真人はラップを張っていた焼きうどんの皿を、電子レンジのターンテーブルに置いた。一分温めている間に、今日子が洗面所で手洗いうがいを済ませ、居間を通り過ぎて寝室に入った。智の様子を見てすぐにテーブルに戻って来た。
「今日は智、熟睡してるみたいだね。くすぐっても全然反応しなかった」
今日子が前髪をかき上げながら、テーブルの椅子に座った。
「うん。一日出かけたからね、疲れたみたい」
レンジから焼きうどんを取り出し、今日子の前に置いた。とたん、彼女が少しがっかりした顔になる。
「ああ、原宿に行ったんだっけ? デザイナーのお店に」
「そう。デザインのサンプルを見せたら、気に入ってくれた」
焼きうどんを食す今日子の向かい側に座り、今日あったことを圧縮して話す。最初は笑みを浮かべて興味深そうに聞いてくれていたが、明日から日上の店に勤める、と言ったとたん、彼女の眉間に皺が寄った。
「智はどうするの?」
「明日からベビーシッターに預けようと思ってて。今日のうちにその人と面談した」
元木の人となりを説明した後、あらかじめ用意していた書類を今日子の手元に滑らせた。
眉を寄せたまま、今日子が黙って保育申し込みのプリントに目を通している。
「原宿で預けるの?」
「うん、僕が原宿まで連れて行く。日上さんの店から近いから、仕事中もちょくちょく見に行ける」
「そう――でも急な話だよね。智を預けるなら、私もその元木さんって人に会いたかったし」
「あ――そっか」
真人は瞬時に、自分の行動を省みた。智を他人に預けるとう大事なことを、一人で勝手に決めてしまった。あの時は慌ただしくて、今日子の勤めている店に電話しようと考え付かなかった。やっぱり自分は抜けている。
「ごめん、勝手に決めて。でも、元木さんは落ち着いてて、智の世話もテキパキやってくれてたから大丈夫だと思う」
「でも、その人とはちょっと会っただけでしょ?」
今日子がプリントをテーブルに置いて、真人の顔を見た。
「他人に世話を頼むっていうのは――智の命を預けるってことなんだから。二人でちゃんと決めたかった」
彼女の表情も口調も、不機嫌全開だった。真人は焦って、妻の納得がいく返しを考える。
「あ、それじゃあさ、明日の朝、一緒に元木さんの家に行こうよ」
我ながら良い案だと思った。食後は割かし、頭が働くのだ。
今日子が真人を見つめながら、ぱちぱちと瞬きした。
「そうだね――うん、そうしようかな」
気の抜けた声を出して、今日子がまた、焼きうどんを頬張り始めた。
「明日、九時半に預けるから」
ホッとしながら真人が言うと、今日子が咀嚼をやめて、また眉を寄せた。
「その時間だと、仕事に間に合わないよ」
「そうだけど、明日ぐらい遅刻できない?」
今日子の勤める店は渋谷にあるし、オープンが朝の十時からだ。三十分程度の遅刻で済むはず。
「明日は土曜日だから九時から始まるのよ。予約のお客さんが入っているし」
そうだった。土日は店が九時からだった。
曜日の感覚も失っている自分が情けなくなった。ちゃんとした勤め人じゃないからだ。
「もういいよ。元木さんって人、ベテランの保母さんだったんでしょ? 信じるしかない」
ため息を吐きながら、今日子が席を立ち、流しに歩いて行く。食べ残しのある皿を持って。大した量は盛っていなかったのに。
こちらまでため息が出そうになった。辛うじてそれを飲み込み、顔を上げる。
「お風呂湧いてるよ」
今日子の背中に声をかけた。返事はない。
真人は寝室に行き、ぐっすり眠っている智の頭をゆっくりと撫でた。
最初のコメントを投稿しよう!