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苦笑しながら、肩の上で暴れようとする神崎さんを宥めつつ、一階に降りたところで一度階段脇に身を隠す。ここで先生に見つかりでもしたら、面倒なことこの上無い。
「先生に見つかるとやっかいだから、静かにしといてな」
声を潜めて担いだ神崎さんに告げると、俺の背中をバシバシ叩いてくる。
「な、なに?」
「静かにしますからっ! とりあえず下ろしてください! 恥ずかしすぎます!!」
必死に嫌だと訴えるくせに、ちゃんと言いつけを守って小声になるとか、ほんと笑える。
「はは、そんな嫌? 逃げないなら下ろすけど」
「逃げませんからっ!」
「じゃあ、」
要望通り担いでいた身体を下ろすと、不機嫌極まりない顔で神崎さんが口を歪めた。
「何を企んでるんですかっ」
「何も企んでいません。いいから、ちょっと来て」
再び握った神崎さんの手は、熱を持ったように熱くて、小さくて、弱々しい。
きっと抱えきれないほどの苦しみを、この小さな手で受け止めてきたのかと思うと。
本当にやりきれない。
「あの、ここ……」
目的の場所に到着し、その扉に手をかける。
カラリと開いた扉の先では、懐かしい小麦粉の匂い。
「家庭科準備室」
「どう、して……」
窓から差し込む陽光は、穏やかで秋の色を微かに含んでいた。
「好きな匂いだから。あと、ここで神崎さんと会えなかったら、俺はこうして自分の人生を歩こうとすら思えなかったから」
朝の家庭科準備室は、すこし肌寒くて、空気も凛と澄んでいて。それはどこか神崎さんの心の温度と似ている気がした。
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