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「黒木順です。よろしくお願いします」  僕は、初対面のクラスメートの前で、模範的な転校初日の挨拶をしていた。父親の仕事の都合で、片手じゃ足りないほど転校を繰り返してきた僕が、何度も言ったセリフ。すっかり慣れきってしまって、今では円熟味が出てきたと自分では思っている。そのぶん嘘っぽさも増してきたけど。  転校を繰り返すと、どうしても気付いてしまうことがある。どんなにクラスメートと仲良くなったって、それはいつか終わる夢だってことだ。最初のうちは気付かなかった。きっと今よりも、もっともっと純粋だった頃、世界が透明に見えていた頃は、楽しい瞬間が永遠に続くんだって思ってた。けれど、人間なんて薄情なもので、離れてしまえば記憶の片隅でしか生きていられない。いや、記憶の片隅からも少しずつ消えていく。学校を変わるたびに、彼らの記憶の一部、過去の人となって、僕は生きていかなくてはならなくなる。  そして僕には何も残らない。  集団から、そのコミューンから離れていく僕には、淋しさ以外の何も残らない。一生懸命積み上げた積木は、いつか崩れ去ってしまうんだ。高く積み上げるほど、崩れ去るときの痛みは大きい。だから僕は、自分を守るために、必要以上に誰かと仲良くなったりしない生き方を覚えた。  担任の女性教師が僕を紹介しているとき、僕は、窓の外をぼんやりと眺めていた。桜が綺麗に咲いていた。  四月――。  ただでさえクラス換えで、どことなく淋しい雰囲気が漂っているこの季節に、僕は、この学校へやってきた。 「じゃあ、そうね。黒木くんは、九能さんの隣の席に座ってください。ほら、あの空いているところ」  そう言って教室の後方、窓際の席を指す。指された先には、並んで空いている二つの席があった。 「今日はお休みだけど、隣の席は、九能さんていう子の席だから。あなたは窓側の席ね」 「はい」  僕は、言われたとおりに席についた。 「じゃあ、ホームルーム始めます」  こうして、僕の転校初日は始まった。  昔なら、席に座った途端に、隣の生徒が話しかけてくることもあった。だが、高校三年ともなると、そんな子供じみたことをする奴はいない。それはそれで願ったり叶ったりだ。幸運なことに隣の九能って生徒は、今日は休みみたいだし。  教室を見渡すと、みんな、面白くもなさそうな雰囲気で担任の話を聞いていた。彼らは、クラス換えこそあれ、三年生になる今日まで同じ高校で過ごしてきたんだろう。当たり前だ。でも、当たり前のことが当たり前じゃないことだってある。その感覚がこいつらにわかるのか? こいつらも、いつか僕を記憶の片隅でしか生きられないようにしてしまうんだ。  僕は、また窓の外の桜に目をやった。一年のうちで、今の時期にしか咲くことのない桜。僕は、日本を代表するこの樹木が大好きだった。  花を咲かせている季節以外は、誰からも忘れ去られている桜。何だか僕に似ている。盛りを過ぎれば、誰にも相手にされなくなる哀しい木。 「……ということで来週、進路相談しますからね。みなさん志望校をちゃんと決めておくように。もちろん自分の学力を把握したうえで決めてくださいね」  クラス中に、かすかな笑い声が響く。そうそう、こういうのだった。こういうたいして面白くもないことで笑うのが、クラスというコミューンだった。くだらない。一体何が面白いっていうんだ。 「じゃあ、ホームルーム終わります」  担任の一言で、嘘っぽいその時間は終わりを告げた。 「九能の隣だってさ、気の毒に」  クラスの誰かが、どこかでそう言ったのが聞こえた。どういう意味だ?  その日の放課後、引っ越してきたばかりの新居に帰ろうとしたとき、僕は校門の所で担任に呼び止められた。担任の女性教師は、パンプスで僕を追いかけてきたらしく、息を切らせていた。 「黒木くん、……」  後が続かない。僕は、彼女の呼吸が整うのを待った。いったいどうしたんだろう。転校の手続きに何か問題があったんだろうか。 「黒木くん、転校早々申しわけないんだけど、用事頼まれてくれないかなあ」  僕は、予想外の言葉に戸惑いを隠せなかった。 「用事……ですか?」 「そう、用事。あなたの引っ越してきた家って、丘の上の一軒家でしょ」 「そうですけど」 「帰る途中に、マンションがあるの知らない?」  僕の頭の中には、丘の中腹あたりにある五、六階建ての淡いブルー基調の建物が浮かんだ。 「ああ」 「良かった、知ってるのね。そこにこれを届けてほしいんだけど」  彼女は、手にしていたA4サイズの封筒を僕に見せた。 「四階に、今日休んでた九能さんの家があるんだけど、今日中にこの書類を届けたいの。私が行ければいいんだけど、どうしても抜けられない会議があるのよ。悪いんだけど、頼まれてね」 「え、でも」 「大丈夫、彼女いい娘だから」 「いや、そうじゃなくて」 「じゃあ、お願いね」  そう言って担任は校舎の中に駆けて行った。そして僕は、校門に一人残された。いつかまた転校するのがわかっているから、誰かとあまり深く付き合いたくはない。なのに転校初日から、どうしてこんな目にあう。職員室まで行って、封筒を返すことも考えた。けれど、それも大人気ない。  届けるだけ、届けるだけだから。  僕は、自分にそう言い聞かせて、頼まれた用事をクリアすることにした。こんなことで動揺するなんて、転校続きの生活のせいで、人と触れ合うことに少し臆病になっていたのかもしれない。しかし、転校初日の生徒に届け物を頼む教師も教師だと思う。だって、そうだろう。僕は、九能っていうクラスメートの顔すら知らない。どうやって本人に届けろっていうんだ。僕は、少し憂鬱な気分で帰路についた。  丘の中腹にさしかかる頃、担任の言っていたマンションは、ようやく僕の視界に入ってきた。他にそれほど大きな建物がなかったから、たぶんそうだと思う。振り返ると、眼下には、夕焼けでオレンジ色に染まったヨットハーバーが広がっていた。何度も引越しを経験してきたけど、こんなに景色のいい場所に引っ越したのは初めてだった。今回は、しばらくいられるといいんだけどな。  僕は、マンションの入り口まで来ると、まだ見ぬクラスメートの部屋を探した。 『四〇二号室 九能』  そう書かれた郵便受けには、何通かのチラシや封筒が入れられているふうだった。他に『九能』という郵便受けがなかったから、ここに間違いないだろう。この郵便受けに、頼まれた封筒を入れて帰れば、ミッション・コンプリートだ。けれど性格が邪魔をする。直接手渡して、本人であることを確認しないと、気になって今晩眠れそうにない。僕は、そういう面倒くさい性格だった。  階段を上がって四〇二号室の前に立つ。何度かインターホンを押したが反応がない。留守だろうか。そのとき背後から声がした。 「何してるの」  驚いて振り返ると、制服姿の少女が僕を見ていた。一瞬、その透明な瞳に吸い込まれそうになる。 「あ、いや、学校で届け物を頼まれて」 「そう」 「君が……、九能さん?」 「そうだけど、あなたは?」 「あ、ごめん。僕は黒木。今日、転校してきたばかりなんだ」 「そう、よろしくね」  彼女は、抑揚のない声でそう言った。僕の言ったことを、全く疑ってない様子だった。 「こちらこそ、よろしく」 「ちょうだい」  彼女は、手を差し出した。 「え?」 「頼まれてきたんでしょ、届け物」 「あ、そうだ」  僕は、例の封筒を彼女に手渡した。これで本当にミッション・コンプリートだ。彼女は、封筒を手に取ると小脇に抱え、スカートのポケットから取り出した鍵をドアに差し込んだ。重たそうなドアを開き中に入る。彼女は、玄関脇のスイッチを押し、部屋の明かりを点けると、振り向いて言った。 「どうぞ」 「え?」 「コーヒーくらい出すわ」 「あ、いや、気にしないで、帰り道だったから。僕の家、この上の一軒家なんだ」  まさか部屋に上がれって言われるなんて思ってなかった。今、初めて会った転校生の僕に、どうしてそんなことが言えるんだろう。担任は、彼女のことを『いい娘だから』と言っていた。人を疑わないのはいいことかもしれないけど、疑わないにも程がある。 「そう」  しばらく不自然な、居心地の悪い沈黙があった。彼女は何も言わなかった。僕も何も言わなかった。 「じゃあ、また学校で。僕、君の隣の席みたいだから」 「そう、ありがとう」  僕は、そこから逃げ出したかった。一刻も早く立ち去りたかった。すごくその空間は息が詰まりそうだったんだ。 「あら、アユミにお客さん? 珍しいわね」  背後から声がした。驚いて振り返ると、紺色のスーツをかっこよく着こなしたOLふうの女性が立っていた。 「姉さん」  九能アユミは、閉めかけたドアをまた開いた。 「君は、アユミの同級生?」  姉さんと呼ばれたその女性は、僕にそう言って微笑みかけた。 「はい、黒木です。はじめまして。今日、転校してきたばかりなんです」 「へえ、転校生なんだ。私はアユミの姉、よろしくね。で、その転校生くんが転校初日にどうしてうちにいるの?」 「先生から頼まれた書類を届けてくれたの」  九能アユミが、僕の代わりに答えた。その途端、姉の顔が少し険しくなった。 「アユミ、また学校休んだの?」 「ごめん、姉さん。明日はちゃんと行くから」  姉は、まだ何か言いたそうにしていたが、他人の僕がいたからだろうか、それ以上何も言わなかった。どうやら彼女は、学校を休む常習犯らしい。 「まあ、黒木くんだっけ? とりあえず入ってよ。ビールくらい出すから」 「ビールって」  僕は、愛想笑いをした。九能アユミと同じことを言ってる。飲み物の種類が変わっただけだ。 「いや、ホントに、おかまいなく。帰り道ですから」 「そんなこと言わずにさあ、上がってってよ。狭い部屋だけど、この子にお客さんが来るなんて、滅多にあることじゃないから」  そう言って彼女の姉は、躊躇する僕の背中を押して、部屋の中へ入れた。 「さあさあ、どうぞ。初めての家で落ち着かないだろうけど、気なんて遣わなくていいからね」  玄関を抜けると、綺麗に掃除された空間が広がっていた。フローリング、ガラス張りのテーブル、小さなテレビ、CDプレイヤー、ノートパソコン、意識して揃えたのかどうかはわからないけど、部屋の中にあるものすべてが、不思議とバランスよく調和を保っていた。どこかしらに住人のセンスの良さが表れているのかもしれない。  僕は、リビングに通され、そこで座って待つように言われた。九能アユミは右側の部屋へ、姉は左側の部屋へ入っていった。それが彼女たちの部屋らしい。  先に出てきたのは、姉のほうだった。トレーナーにジーンズという出で立ちに変わっていた。 「ごめんね、お客さん待たせちゃって。スーツだと窮屈だから。あれ、アユミ、まだ?」 「はい」 「何やってんだろ? ちょっと待っててね、すぐ来ると思うから」  そう言って彼女はキッチンの方へ向かいかけて立ち止まった。振り返って言う。 「黒木くんて、名前、何て言うの?」 「ああ、順です」 「順くん、へえ、いい名前ね」  何だか適当な感じだ。 「私は、リア」 「え?」 「リ、ア」 「リア、さんですか。珍しい名前ですね」 「そうね、だいたい名乗っても聞き返されるわ、今の順くんみたくね」 「すいません」 「いいの、いいの、慣れてるから。父親が付けてくれたのよ。夏に生まれたから夏の花の名前を付けるって譲らなかったらしいわ」  リアなんて花、あったっけ?  僕が不思議そうな顔をしていると、彼女―リアさん―は言った。 「ダリアよ」 「ダリア?」  でも、それじゃあ「ダ」が抜けてるじゃないか。「ダ」はどこへ行ったんだ?  僕が、再び不思議そうな顔をしていると、リアさんが付け加えた。 「濁点を付けるのは、母親が反対して譲らなかったみたいよ。理由までは知らないけど。で、結局「リア」。どっちにしろ滅多にない名前よね。まあ、私は気に入ってるんだけど」  リアさんは、そう言うと笑いながらキッチンの方へ歩いて行った。それと入れ替わりに、九能アユミが、これまたトレーナーにジーンズという同じ格好で現れた。 「制服、しわになると嫌だから」 「うん」  僕は、どっちともつかない返事をした。また、居心地の悪い沈黙があった。さっき初めて会った同級生だから当たり前だ。話す言葉も見つからない。 「体の調子、悪かったの?」  居心地の悪さに負けて、思ってもないことを訊いていた。 「何で?」 「今日、休んでたから」 「別に」  彼女は、興味なさそうにそう言った。この部屋に入ってから、彼女は一度も僕を見ていない。何だか世の中のこと全部に興味がなさそうな雰囲気だった。僕の感じたその感覚が本当なら、彼女は僕と同じタイプの人間だろう。僕も、彼女を深く知る必要はない。次に転校するときまで、それなりにやればいいだけの関係だ。 「ずる休みよ」  リアさんが、お盆に飲み物を載せてキッチンから現れた。 「たまにね、するのよ、ずる休み。ちゃんと行きなさいって言うんだけどね。はい」  そう言って、そっとグラスを差し出した。驚いたことに、彼女は、本当にビールを持ってきていた。 「ちょっと姉さん」 「あら、高校生だってビールくらい飲むわよ、ねえ、順くん」  ビール? 順くん?  僕は、本当にビールを持ってきて、当たり前のように「順くん」と言ったリアさんに戸惑っていた。 「え、いや……」 「ほら、違うものがいいって」  彼女は、責めるような視線でリアさんを見ていた。 「はいはい。順くん、コーヒーでいい?」 「あ……、はい。何でも結構です」  僕は、順くんて呼ばれることに違和感を感じながら、そう答えた。  何だか変な展開になってきた。やはり僕は、この場所から早く逃げ出したい心境になっていた。他人の家で家族がもめているのを見るのは、気分のいいものじゃない。 「ごめんなさい。驚いたでしょ」 「いや、別に」  本当はすごく驚いていた。冷静さをを装うのに必死だった。 「そう、ならいいけど」  彼女の感じが少し変わった。変な表現だけど、最初に感じたときより、幾分人間ぽくなっていた。でも、その感じは、僕に警鐘を鳴らしていた。近付き過ぎるなと。どうせいつの日か、会わなくなってしまう人なのだからと。 「はい、コーヒー」  しばらくして、リアさんが、コーヒーを持って戻ってきた。 「じゃあ、後はお二人で……」  彼女は、一瞬、意味深な笑みを浮かべて僕を見た。そして一人頷きながら自分の部屋へ入っていった。  何だろう? 「ねえ」 「ん?」  九能アユミに話しかけられて、僕は我に返った。 「珍しいよね、こんな時期に転校してくるなんて」 「うん、親の仕事の都合だから」 「そう」  またあの居心地の悪い沈黙がやってくる。僕は、コーヒーを口に運んだ。早く飲んで、早くこの場所から逃げるために。口の中が熱い。 「ねえ」 「何?」 「あなた、水の中から見た太陽がどんなだか知ってる?」 「え?」  彼女は、真っ直ぐに僕を見ていた。 「知ってる?」 「……知らない」 「そう」  彼女は、僕がそう答えても、それほどがっかりしたふうでもなかった。同じように、気持ちのこもっていない声で答えただけだった。 「九能さんて……」 「さんは付けなくてもいいよ。みんなそう呼ぶから」 「……わかった。でも、不思議なこと考えるんだね」 「不思議?」 「そんなの初めて聞いたから」  僕は、今まで、水の中から見た太陽が、どんなふうに見えるのかなんて思ったこともなかった。そういう発想すら起こらない。たいていの人間は、そんなこと考えないと思う。 「……そう」  彼女は、また同じように抑揚のない声でそう言った。そのとき左側の部屋のドアが開いて、リアさんが出てきた。 「アユミ、ちょっと出かけてくるから」 「あ、僕もそろそろ」 「いいのよ、まだいてくれても」 「いえ、もうコーヒーもご馳走になりましたし、転校初日から帰るのが遅いと、親が心配しますから」 「そう、別に私たちはいいんだけど」  僕のほうがよくなかった。早くこの場所から離れたいんだ、僕は。だから帰る意志を伝えるために、はっきりとした口調で言った。 「本当にご馳走様でした」 「どういたしまして。また遊びに来てね」  リアさんの屈託のない笑顔は、心なしか僕を少し楽な気分にした。 「ありがとう、書類」  九能アユミは、相変わらず無感情な雰囲気だ。 「いや、本当に帰り道だから。じゃあ、明日学校で」 「うん」  そうして僕は、九能アユミの家を出た。  これが、僕と彼女との運命的な出逢いだった。
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