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プロローグ
いつごろからだろう。当たり前のように見えていたものが、まったく見えなくなってしまったのは。時計の針は戻ることを知らない。おれは、少しずつ世界が色あせ、音のない世界になっていくのを感じていた。
『もし、私がたどり着けなかったら、ナツが行ってきて、どんな世界だったか私に教えて』
いつも兄貴のバイクの後ろに、精いっぱいしがみついていたあの人は、少し淋しそうに笑いながらそう言った。兄貴じゃなく、このおれに。
あの人は、十四歳で逝ってしまった。殺意をはらんだ真夏の太陽のもと、ルシアン・ヒルに続くこのコーナーで。最後まで兄貴の背中にしがみついたままだった。伝えるすべは、もうなくなってしまった。しかし、約束したという事実は、未来永劫消えやしない。だからおれは守る、あの日の約束を。あの人のために。おれ自身のために。
海から引き上げた廃車同然のバイクは、知り合いの工場で修理してもらった。あの人が、兄貴の背中にしがみついていたころとまったく同じように。
ブルーカラーのカスタムSTEED。
一人だけ生き残った兄貴は『人殺し』と呼ばれ、罪を償うために、どんなに苦しんだことだろう。二度と触れることさえなかったバイク。おれは、そのバイクに乗る。すべてを背負って。あの日の約束を守るために。いつになればたどり着けるかなんて、誰にも分かりはしない。けど、おれは、その日まで走り続けなければいけない。空の青、海の青、どちらにも染まることなく、一枚の風景画を切り裂いていく蒼いSTEED。おれは、アクセルを開ける。毎日、狂ったように走り続ける。そうすることで、あの人が見たがっていた世界に近づけると信じているから。おれは、アクセルを開ける。毎日、風になって走り抜ける。あの人がいなくなってしまったこのコーナーを。
あの人が見たがっていた世界。
あの人が見ることのできなかった世界。
いつのころからか、見えなくなってしまった世界。
誰もが、忘れたフリをしている世界。
青き清浄なる世界に寄生する虫けらどもが、自らの欲望のために壊してしまった世界。
自らを正当化するために、最初からなかったことにしてしまっている世界。
その世界の名は……。
『シャングリラ』
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