4人が本棚に入れています
本棚に追加
冬也1
「冬也」
最後の一蹴りが相手をうずくまらせたとき、おれを呼ぶ声がした。聞きなれた声だ。振り返ると、バイクにまたがったままの男がいた。金髪に黒いバンダナ、そしてフラットバーの蒼いSTEED。ナツだ。
「何やってんだ、こんな所で。北校は、まだずいぶん先の駅のはずだろ。入学早々サボりか?」
「正当防衛」
おれの返答を聞くと、ナツはバイクを降り、狭苦しい路地裏へと入ってきた。奥のほうには少しだけ開けた空間がある。そこで黒いつなぎを着た男が二人、寝転んでいる。たった今、おれがやった。ナツは、目を覚ます気配のない二人の男に近づき、しゃがみこんで見ている。しばらくして言った。
「おまえ、こういうの、何て言うか知ってる?」
「正当防衛だよ」
「ばーか、過剰防衛って言うんだよ」
ナツは、そう言って少し笑った。
「原因は?」
「チョーカーに触ったのさ」
「なら、しょうがないな」
即答だった。おれのチョーカーは、母の形見の音叉で作ってある。おれと母を繋ぐ唯一のものだ。その音叉を汚すやつは誰であっても許さない。ナツは立ち上がると、おれに近づいてきた。
「でも、ピアニストがケンカなんてしていいのかよ」
「そんな法律ないだろ。それに手は使ってねーよ。何かのマンガのにあったじゃん。料理人の手は神聖なものだ、だから足しか使わねえって。あれと同じだ」
「じゃあ、蹴りだけで、こんなにしちゃったのか?」
「ああ」
「恐いなあ、最近の高校生は」
「おまえに言われたかねーよ」
ナツは、この辺りでは有名人だった。おれたちの街には、ちょっと名のとおった観光スポットが二つある。どちらも港から街まですべてが見下ろせる人気のある公園だった。一つは南地区のサザンクロスパーク・ヒル。そしてもう一つが、おれの通っている高校からほど近い場所にあるルシアン・ヒルだ。毎日、ルシアン・ヒルに続く湾岸線を、ありえない速度で走っている蒼いバイク。空の青、海の青を切り裂いていく蒼いカスタムSTEED。それがナツだった。いつからか、畏怖の念を込めて、みんなこう呼んでいた。
ブルー――。
「しかしラッキーだな、こんな所でおまえに会えるとは」
「何でラッキーなんだよ」
「頼むわ、北校まで」
「おれは、タクシーじゃねえぞ。……まあ、いいか。どうせ暇してたとこだしな」
交渉成立。これで遅刻せずにすみそうだ。おれたちは、二人の男が寝転がっている路地裏をあとにした。バイクに乗る前にナツが言った。
「ところでさぁ、おまえがやったのって『麗蛇』のやつらだぞ」
「レイダ?」
「ああ、つなぎの左腕に、蛇の刺繍がしてあったろ」
確かに二人とも、つなぎの左腕に、自らの尾をくわえた蛇の刺繍がしてあった。ウロボロスとか言うんだっけ。
「この辺じゃ、かなり有名な武闘派のチームだ。キレまくってるやつらばっかだぞ。気を付けろ。おまえ、間違いなく的にされるから」
「そしたら、また蹴っとばしてやるさ。この世の果てまでな」
「それ、面白そうだな。おれも混ぜろよ」
ナツは、楽しそうに笑いながら言った。
「おまえが来るまでに、おれの演奏は終わってるさ」
「あー、やっぱり恐い、恐い。闘うピアニストなんて聞いたことねーや」
おれは、バイクの後ろにまたがった。ナツがエンジンをかける。この響き、このエグゾースト、久しぶりだ、ナツの後ろに乗るのは。
「全速で頼む」
「いいのか、振り落とされんなよ」
そしておれたちは、北校に向かった。狭い路地裏の向こうで、血まみれで寝転がっている二人の男を残して。
※
おれが、初めてナツを見たのは、去年の夏だった。ピアノの家庭教師をしてくれている、いとこの涼子さんが運転するフェラーリで、ルシアン・ヒルに向かう途中。景色が一番綺麗に見えるコーナーで、ナツは、右手に花束を持って海を見ていた。となりには蒼いSTEED。そういや何年か前に、このコーナーでバイク事故があったな。確か一人は死んだはずだ。関係者か。そのときは、それくらいにしか思っていなかった。友人にそのことを話すと、「そいつは『ブルー』って呼ばれてるやつだ。バイクの色が蒼だっただろ。普通じゃないやつだ。近づかないほうがいいぞ」と忠告された。
それからも幾度となく、おれは、あのコーナーでナツを見かけた。花束を右手に持っていた日もあったし、ただ海を見てるだけの日もあった。ある日、『ブルー』は、花束を海に投げ込んでいた。その光景が瞳に映った瞬間だった。突然、おれの目の前に広がっている世界が、すべての音をなくしたのは。
「涼子さん、ちょっと車停めて!」
おれは無意識のうちに叫んでいた。
「何、こんな所で」
「いいから停めてよ」
涼子さんは、おれの言ったとおり車を停めた。おれは、急停止した車を降り、『ブルー』に近づく。
「おれに何か用か?」
『ブルー』は、海から視線をそらさずに言った。
「いや……」
目の前にいる『ブルー』は、車越しに見ていたよりも、ずっと背の高い男だった。金髪に黒のバンダナ。いつもと同じ格好だ。『ブルー』は、猛禽類のように鋭い目とは裏腹に、とても優しい口調で言った。
「おれは、おまえを知ってたぜ。ルシアン・ヒルに行くフェラーリなんて、そうはいないからな」
確かに、こいつの言うとおりだった。人気のある公園、ルシアン・ヒルに行く者は多い。子供連れの親子だの、カップルだの、いろいろだ。しかし、フェラーリで通ってたのは、おれくらいなもんだろう。こいつの言うことは、すべて正しい。
「おまえは、おれを知ってたのか?」
「『ブルー』ってやつだと聞いてる」
「それだけか?」
「……近づくなとも」
「だろうな」
『ブルー』は、おれの言葉に怒ったふうでもなくそう言った。
「怒らないのか?」
「怒ってほしいのか? 今、おまえが言ったことは、全部本当のことだ。だから怒る理由なんてどこにもない」
友人の忠告では「普通じゃないやつ」だったはずだ。だが、目の前にいる、おれと歳もかわらないだろうこの男は、いたって普通だった。
「ひょっとして、花束を投げ込むのを見て停まったのか?」
「いや、そうじゃない」
「じゃあ、何だ?」
おれは、本当のことを言おうかどうか迷った。信じるだろうか、通り過ぎる瞬間に、世界の音が消えたなんてこと。
「……消えたんだ」
「消えた?」
「ああ、おまえの横を通り過ぎる瞬間、世界中の音がなくなった。信じないかもしれないが、おれには、そう思えた。……すまない。別に興味本位なんかじゃ」
おれの言葉は、『ブルー』の言葉にさえぎられた。
「じゃあ、ルカさんが呼んだんだな」
「ルカさん?」
「花束の受け取り主だ」
やはりあの事故の関係者だったのか。おれは、次に言うべき言葉を見失った。何も言えなかった。『ブルー』からも視線をはずし、ただアスファルトだけを見ていた。何て言えばいいのか、分からなかった。
「ナツだ」
「え?」
「おれの名前だ。まさか『ブルー』が名前だと思ってたのか?」
さすがに、それはなかった。当たり前の話だが。
「そんなわけないだろ。おれは冬也だ」
「トウヤ?」
「冬に也って書く」
「冬か。おれと正反対の名前だな」
そのときフェラーリのドアが開き、いとこが路上に出てきた。
「冬也、何してるの。行くわよ」
そうだった。いとこのことなんて、すっかり忘れていた。
「おまえ、今、暇か?」
不意にナツが言った。
「特に予定はないけど」
「じゃあ、ルシアン・ヒルに行かないか」
「今、行ってきたとこなんだけどな」
「送ってやるよ」
おれは、どうしたもんか考えた。たった今、初めて話した目の前のこの男に、付いていってもいいのか。普段のおれなら、付いていったりはしないだろう。こいつのうわさを聞けばなおさらだ。おれは、友人に忠告までされている。「近づくな」と。だが不思議と安心感があった。それに、どことなく自分に似ている雰囲気。もっとこいつと話していたい。おれの心がそう呼びかけていた。
「先に帰ってて」
「どうやって帰ってくんのよ」
驚いた表情でいとこが言った。
「こいつに送ってもらう」
おれは、そう言って後ろにいるナツを指した。
「一日練習サボると、三日遅れるんだからね」
「分かってるよ」
いとこは、おれの返事が不満だったらしく、自動車のドアを乱暴に閉めると、アクセルを強く踏み込み、湾岸線を下っていった。
「いいのか?」
「おまえが誘ったんだろ」
おれは、バイクの後ろにまたがりながら言った。
「何の練習だ?」
「ピアノだ」
「ピアノか……」
ナツは、何かを思い出している様子だった。
「ルシアン・ヒルに何があるんだ」
「約束さ」
「約束?」
「そう、置き去りにされた約束がな」
「置き去りにされた約束?」
おれには意味が分からなかった。ルシアン・ヒルに行けば分かるのか? ナツは、わけの分からない様子のおれに言った。
「おれには探してるものがある」
「何だ?」
「シャングリラ」
そう言うと彼はエンジンに火を入れた。体中に振動が伝わる。
「おまえは、どうしてルシアン・ヒルに行く?」
「あそこが世界中で、一番無音に近い場所だからだ」
「無音?」
「おれは、無音こそが最高の旋律だと思っている」
「音がないのが、最高の音って言ってるのか?」
「そうだ」
「おれには分からないな、そういう難しいことは」
ナツは、アクセルを開け、エンジンを吹かした。蒼いカスタムSTEED。体に響く振動。エグゾースト。ゆっくりと走り出してから、徐々に上がっていくスピード。アダージョ・ソステヌートからアレグレット、そしてプレストへ。空の青、海の青を切り裂きながら走るバイク。おれは、静かに目を閉じた。恐いからじゃない。耳を澄ますためだ。やがてナツは、おれを音のない世界へ連れていった。至純の音、無音の世界へ。それがナツのバイクに乗った、最初の瞬間だった。
※
「冬也、着いたぜ」
ナツは、高校の正門にバイクをつけて言った。他の学生は、おれたちと目を合わせようとしない。ナツのせいだ。しかし、派手な登校になってしまったな。
「すまないな、遅刻せずにすんだよ」
「これは貸しにしておくからな。今度、またピアノ聴かせろよ」
「ああ」
「亜郎にも、よろしく言っといてくれ」
「わかった」
「じゃあな」
そう言い残してナツは、その場で華麗にターンを決めると、やってきたのとは違う、街のほうへ消えていった。美しい音色を奏でるエンジン音とともに。ナツが、おれの視界から完全に消えてしまうまで、それほど時間はかからなかった。
最初のコメントを投稿しよう!