冬也1

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冬也1

「冬也」  最後の一蹴りが相手をうずくまらせたとき、おれを呼ぶ声がした。聞きなれた声だ。振り返ると、バイクにまたがったままの男がいた。金髪に黒いバンダナ、そしてフラットバーの蒼いSTEED。ナツだ。 「何やってんだ、こんな所で。北校は、まだずいぶん先の駅のはずだろ。入学早々サボりか?」 「正当防衛」  おれの返答を聞くと、ナツはバイクを降り、狭苦しい路地裏へと入ってきた。奥のほうには少しだけ開けた空間がある。そこで黒いつなぎを着た男が二人、寝転んでいる。たった今、おれがやった。ナツは、目を覚ます気配のない二人の男に近づき、しゃがみこんで見ている。しばらくして言った。 「おまえ、こういうの、何て言うか知ってる?」 「正当防衛だよ」 「ばーか、過剰防衛って言うんだよ」  ナツは、そう言って少し笑った。 「原因は?」 「チョーカーに触ったのさ」 「なら、しょうがないな」  即答だった。おれのチョーカーは、母の形見の音叉で作ってある。おれと母を繋ぐ唯一のものだ。その音叉を(けが)すやつは誰であっても許さない。ナツは立ち上がると、おれに近づいてきた。 「でも、ピアニストがケンカなんてしていいのかよ」 「そんな法律ないだろ。それに手は使ってねーよ。何かのマンガのにあったじゃん。料理人の手は神聖なものだ、だから足しか使わねえって。あれと同じだ」 「じゃあ、蹴りだけで、こんなにしちゃったのか?」 「ああ」 「恐いなあ、最近の高校生は」 「おまえに言われたかねーよ」  ナツは、この辺りでは有名人だった。おれたちの街には、ちょっと名のとおった観光スポットが二つある。どちらも港から街まですべてが見下ろせる人気のある公園だった。一つは南地区のサザンクロスパーク・ヒル。そしてもう一つが、おれの通っている高校からほど近い場所にあるルシアン・ヒルだ。毎日、ルシアン・ヒルに続く湾岸線を、ありえない速度で走っている蒼いバイク。空の青、海の青を切り裂いていく蒼いカスタムSTEED。それがナツだった。いつからか、畏怖の念を込めて、みんなこう呼んでいた。  ブルー――。 「しかしラッキーだな、こんな所でおまえに会えるとは」 「何でラッキーなんだよ」 「頼むわ、北校まで」 「おれは、タクシーじゃねえぞ。……まあ、いいか。どうせ暇してたとこだしな」  交渉成立。これで遅刻せずにすみそうだ。おれたちは、二人の男が寝転がっている路地裏をあとにした。バイクに乗る前にナツが言った。 「ところでさぁ、おまえがやったのって『麗蛇(れいだ)』のやつらだぞ」 「レイダ?」 「ああ、つなぎの左腕に、蛇の刺繍がしてあったろ」  確かに二人とも、つなぎの左腕に、自らの尾をくわえた蛇の刺繍がしてあった。ウロボロスとか言うんだっけ。 「この辺じゃ、かなり有名な武闘派のチームだ。キレまくってるやつらばっかだぞ。気を付けろ。おまえ、間違いなく的にされるから」 「そしたら、また蹴っとばしてやるさ。この世の果てまでな」 「それ、面白そうだな。おれも混ぜろよ」  ナツは、楽しそうに笑いながら言った。 「おまえが来るまでに、おれの演奏は終わってるさ」 「あー、やっぱり恐い、恐い。闘うピアニストなんて聞いたことねーや」  おれは、バイクの後ろにまたがった。ナツがエンジンをかける。この響き、このエグゾースト、久しぶりだ、ナツの後ろに乗るのは。 「全速で頼む」 「いいのか、振り落とされんなよ」  そしておれたちは、北校に向かった。狭い路地裏の向こうで、血まみれで寝転がっている二人の男を残して。 ※  おれが、初めてナツを見たのは、去年の夏だった。ピアノの家庭教師をしてくれている、いとこの涼子さんが運転するフェラーリで、ルシアン・ヒルに向かう途中。景色が一番綺麗に見えるコーナーで、ナツは、右手に花束を持って海を見ていた。となりには蒼いSTEED。そういや何年か前に、このコーナーでバイク事故があったな。確か一人は死んだはずだ。関係者か。そのときは、それくらいにしか思っていなかった。友人にそのことを話すと、「そいつは『ブルー』って呼ばれてるやつだ。バイクの色が蒼だっただろ。普通じゃないやつだ。近づかないほうがいいぞ」と忠告された。  それからも幾度となく、おれは、あのコーナーでナツを見かけた。花束を右手に持っていた日もあったし、ただ海を見てるだけの日もあった。ある日、『ブルー』は、花束を海に投げ込んでいた。その光景が瞳に映った瞬間だった。突然、おれの目の前に広がっている世界が、すべての音をなくしたのは。 「涼子さん、ちょっと車停めて!」  おれは無意識のうちに叫んでいた。 「何、こんな所で」 「いいから停めてよ」  涼子さんは、おれの言ったとおり車を停めた。おれは、急停止した車を降り、『ブルー』に近づく。 「おれに何か用か?」  『ブルー』は、海から視線をそらさずに言った。 「いや……」  目の前にいる『ブルー』は、車越しに見ていたよりも、ずっと背の高い男だった。金髪に黒のバンダナ。いつもと同じ格好だ。『ブルー』は、猛禽類のように鋭い目とは裏腹に、とても優しい口調で言った。 「おれは、おまえを知ってたぜ。ルシアン・ヒルに行くフェラーリなんて、そうはいないからな」  確かに、こいつの言うとおりだった。人気のある公園、ルシアン・ヒルに行く者は多い。子供連れの親子だの、カップルだの、いろいろだ。しかし、フェラーリで通ってたのは、おれくらいなもんだろう。こいつの言うことは、すべて正しい。 「おまえは、おれを知ってたのか?」 「『ブルー』ってやつだと聞いてる」 「それだけか?」 「……近づくなとも」 「だろうな」  『ブルー』は、おれの言葉に怒ったふうでもなくそう言った。 「怒らないのか?」 「怒ってほしいのか? 今、おまえが言ったことは、全部本当のことだ。だから怒る理由なんてどこにもない」  友人の忠告では「普通じゃないやつ」だったはずだ。だが、目の前にいる、おれと歳もかわらないだろうこの男は、いたって普通だった。 「ひょっとして、花束を投げ込むのを見て停まったのか?」 「いや、そうじゃない」 「じゃあ、何だ?」  おれは、本当のことを言おうかどうか迷った。信じるだろうか、通り過ぎる瞬間に、世界の音が消えたなんてこと。 「……消えたんだ」 「消えた?」 「ああ、おまえの横を通り過ぎる瞬間、世界中の音がなくなった。信じないかもしれないが、おれには、そう思えた。……すまない。別に興味本位なんかじゃ」  おれの言葉は、『ブルー』の言葉にさえぎられた。 「じゃあ、ルカさんが呼んだんだな」 「ルカさん?」 「花束の受け取り主だ」  やはりあの事故の関係者だったのか。おれは、次に言うべき言葉を見失った。何も言えなかった。『ブルー』からも視線をはずし、ただアスファルトだけを見ていた。何て言えばいいのか、分からなかった。 「ナツだ」 「え?」 「おれの名前だ。まさか『ブルー』が名前だと思ってたのか?」  さすがに、それはなかった。当たり前の話だが。 「そんなわけないだろ。おれは冬也だ」 「トウヤ?」 「冬に也って書く」 「冬か。おれと正反対の名前だな」  そのときフェラーリのドアが開き、いとこが路上に出てきた。 「冬也、何してるの。行くわよ」  そうだった。いとこのことなんて、すっかり忘れていた。 「おまえ、今、暇か?」  不意にナツが言った。 「特に予定はないけど」 「じゃあ、ルシアン・ヒルに行かないか」 「今、行ってきたとこなんだけどな」 「送ってやるよ」  おれは、どうしたもんか考えた。たった今、初めて話した目の前のこの男に、付いていってもいいのか。普段のおれなら、付いていったりはしないだろう。こいつのうわさを聞けばなおさらだ。おれは、友人に忠告までされている。「近づくな」と。だが不思議と安心感があった。それに、どことなく自分に似ている雰囲気。もっとこいつと話していたい。おれの心がそう呼びかけていた。 「先に帰ってて」 「どうやって帰ってくんのよ」  驚いた表情でいとこが言った。 「こいつに送ってもらう」  おれは、そう言って後ろにいるナツを指した。 「一日練習サボると、三日遅れるんだからね」 「分かってるよ」  いとこは、おれの返事が不満だったらしく、自動車のドアを乱暴に閉めると、アクセルを強く踏み込み、湾岸線を下っていった。 「いいのか?」 「おまえが誘ったんだろ」  おれは、バイクの後ろにまたがりながら言った。 「何の練習だ?」 「ピアノだ」 「ピアノか……」  ナツは、何かを思い出している様子だった。 「ルシアン・ヒルに何があるんだ」 「約束さ」 「約束?」 「そう、置き去りにされた約束がな」 「置き去りにされた約束?」  おれには意味が分からなかった。ルシアン・ヒルに行けば分かるのか? ナツは、わけの分からない様子のおれに言った。 「おれには探してるものがある」 「何だ?」 「シャングリラ」  そう言うと彼はエンジンに火を入れた。体中に振動が伝わる。 「おまえは、どうしてルシアン・ヒルに行く?」 「あそこが世界中で、一番無音に近い場所だからだ」 「無音?」 「おれは、無音こそが最高の旋律だと思っている」 「音がないのが、最高の音って言ってるのか?」 「そうだ」 「おれには分からないな、そういう難しいことは」  ナツは、アクセルを開け、エンジンを吹かした。蒼いカスタムSTEED。体に響く振動。エグゾースト。ゆっくりと走り出してから、徐々に上がっていくスピード。アダージョ・ソステヌートからアレグレット、そしてプレストへ。空の青、海の青を切り裂きながら走るバイク。おれは、静かに目を閉じた。恐いからじゃない。耳を澄ますためだ。やがてナツは、おれを音のない世界へ連れていった。至純の音、無音の世界へ。それがナツのバイクに乗った、最初の瞬間だった。 ※ 「冬也、着いたぜ」  ナツは、高校の正門にバイクをつけて言った。他の学生は、おれたちと目を合わせようとしない。ナツのせいだ。しかし、派手な登校になってしまったな。 「すまないな、遅刻せずにすんだよ」 「これは貸しにしておくからな。今度、またピアノ聴かせろよ」 「ああ」 「亜郎にも、よろしく言っといてくれ」 「わかった」 「じゃあな」  そう言い残してナツは、その場で華麗にターンを決めると、やってきたのとは違う、街のほうへ消えていった。美しい音色を奏でるエンジン音とともに。ナツが、おれの視界から完全に消えてしまうまで、それほど時間はかからなかった。
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