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冬也2
その日、帰宅すると、涼子さんが来ていた。おれのピアノの家庭教師でありいとこ。彼女も業界では、そこそこ有名なピアニストだった。ときどきやってきては、ピアノの指導をしてくれてる。おれは、基本的に、この無意味に広いだけの家に一人で暮らしてる。父さんはオーストリア、母さんは死んでしまったからだ。食事は適当にすます。涼子さんが来た日は、作ってくれるときもあるが、ほとんどコンビニ弁当か、外食だ。
「ただいま」
「おかえり。はいこれ、伯父さんからよ」
涼子さんが、そう言って封筒を差し出す。おれは、その封筒を手にすると、二階にある自分の部屋へ向かった。
「たまには返事くらい書いてあげたら。伯父さんも、そのほうが楽なんじゃない」
階段を上がるおれの背中越しに、涼子さんが言った。
「気が向いたらね」
自室に入ると、おれは、制服を脱ぎ、部屋着に着替えた。チョーカーは付けたままだ。そしてさっき預かった封筒を開けもせずにゴミ箱に捨てる。封筒の中身は分かっていた。父さんがいるオーストリアに来いっていう内容だ。今は、ウイーンにいる。父さんは、向こうでも有名なピアニストとして認知されているようだ。皮肉なことに、父さんは、おれの才能を最初に認めてくれた人間だった。だから、今のうちにピアノ留学をさせたがっていた。しきりに封筒が届く。それを無視し続けるおれに、父さんが取った行動は、いたってシンプルだった。
涼子さんを、おれの家庭教師につけること。
おれは、胸もとのチョーカーを握り締めた。
「母さん……」
おれは、心の中でつぶやいた。
※
父さんは、母さんが病気で危険な状態のときに、オーストリアの楽団への切符を手に入れた。それは父さんの夢でもあったし、最初で最後のチャンスかもしれなかった。考えあぐねた末に、父さんは、音楽をとった。母さんの命よりも自分の夢をとったんだ。おれには、それがどうしても許せなかった。母さんは、死ぬ間際に言った。
「冬也、父さんを許してあげてね。ピアノを弾く人間には、四種類の人間がいるの。ピアノと闘う人、ピアノと一体化する人、ピアノを支配する人、そしてピアノに選ばれた人」
そこで母さんは一呼吸おいた。話すのは、病気の母さんにはすごく負担になるんだ。
「もういいよ、しゃべらないで」
母さんは、おれの言葉を無視して話し続けた。
「父さんは、ピアノと闘う人なのよ。それをわかってあげて。そして冬也、お前はピアノに選ばれた人なの。そのときが来ればきっと分かるわ。だから父さんを許してあげてね」
母さんは、おれのほうを向いて、優しくそう言った。
「そこの引き出しを開けて」
「ここの?」
「そう」
引き出しの中には、音叉で作られたチョーカーが入っていた。
「音叉があるでしょ。父さんが私にくれた、唯一のかたちあるもの。それを冬也にあげるわ」
「何だよ、急に。こんな形見分けみたいなことしないでよ。大丈夫、必ず治るから」
「母さんが持ってても、もう使えないから。冬也に預けておくわ。何かに迷ったら、音叉の音を聴きなさい。答えのきっかけがそこにあるから。コホッ、コホッ。母さん、少ししゃべりすぎたわ。疲れたから、しばらく眠るわね」
それが母さんとした最後の会話だった。
※
コンコンッ。
「冬也、入ってもいい?」
「ああ、開いてるよ」
涼子さんは、ゴミ箱を確認してから言った。
「また読まずにポイなわけ」
「それを確認しにきたの?」
「まあそれは、ついでだけどね。本題はそっちじゃないし」
涼子さんは、淡々と言った。
「コンクールの曲目、決まった?」
「まだだけど。でもぼんやりとなら決めてる」
「何?」
「『月光』にしようかなと思ってる」
おれは、いすに座りながら、迷いがちにそう言った。
「『月光』かぁ、悪くはないわね。でもどうして?」
「友達のバイクに乗ったとき、何となくこのテンポっていいなって思って」
「バイク?」
「うん、バイクにもリズムがあるんだ。あいつのバイクのリズムは、とても心地いいんだ」
「それってナツくんのこと?」
「そう。アダージョから始まって、アレグレット。そしてプレストへ。まったく同じリズムだったよ、『月光』と」
おれは、ナツのバイクに乗ったときの感じを、思い出し、確認しながら話した。
「でも、冬也に弾けるの、『月光』」
「涼子さんは、どう思う?」
「愚問だったわ。中学のピアノコンクールを、総なめにした人間に訊く質問じゃなかったわね」
涼子さんは、そう言ってベッドの端に座った。おれは、中学三年間で、多くのピアノコンクールの金賞を取った。盾も賞状もトロフィーも、部屋いっぱいに飾ってある。おれは、嫌だったんだけど、涼子さんがそうした。戦利品を眺めることで、また頑張ろうって気持ちになれるからと言って。
「一人いたわよねえ、あなたと張り合えるレベルの娘が」
「菊池シキ」
「そうそう、その菊池さん。シキって名前珍しいのに、度忘れしてたわ。当然出てくるわよねえ」
「たぶんね」
「足元をすくわれないようにしなきゃね。どこの高校行ってるのか知らないけど。彼女くらいでしょ、冬也の相手になるのは」
「相手になんてならないよ」
「たいした自信ね」
そう言って、涼子さんはベッドに仰向けになった。天井の一点を見つめている。
「ねえ、冬也」
「何?」
「どうしてヨーロッパに行かないの? あなたには、もう日本は狭いんじゃないの? 伯父さんがそんなに嫌い?」
「その話はついでじゃなかったの?」
「そう、ついでに訊いてるのよ」
涼子さんは、瞳を閉じていた。
「答えなきゃだめ?」
「答えたくないなら、別にいいんだけど。私なら、絶対に行くだろうなと思って」
「母さんよりも、自分の夢のほうが大切だと思ってるやつなんて、おれは許せない」
「やっぱり、冬也は子どもね」
涼子さんは、仰向けに寝転がったままで言った。
「どういう意味だよ?」
「そんな伯父さんだからこそ、伯母さんは結婚したのよ。もし、伯父さんが、あのまま日本に残ってたら、伯母さんはすごく苦しむと思わない? 自分のせいで、伯父さんの夢を取っちゃうことになるんだから」
「そんなの、きれいごとだよ」
「きれいごと? じゃあ、冬也だったらどうしたの?」
おれは、しばらく考えた。おれが父さんと同じ立場だったら。
「おれなら、行かない」
「そう。私は、そんな男とは結婚したくないなぁ。一生、自分のせいで、夢を取り上げてしまったって思っちゃうし、この人の夢は、この程度なのかとも思うしね」
「母さんは、そばにいてほしかったんだ」
「伯母さん、一言でもそんなこと言った?」
「言わないよ。言えないじゃないか、そんなこと」
「言おうと思ったら、言えたはずよ。でも、行ってほしかったのよ。たとえ自分の最後が近づいてるのがわかってても、伯父さんに夢を叶えてほしかったのよ。それが一番の特効薬なんだから」
「そんなの……」
言い返せなかった。おれが、母さんと同じ立場だったらって考えたんだ。
『最後までそばにいてほしい、たとえ自分の夢を捨ててでも』
そんなこと言えない。涼子さんは、そこまで分かってたんだろうか。親戚中の人間が、父さんを非難した。非難しなかったのは、涼子さんと母さんだけだった。
「冬也、あなた、私がピアノを教えに来てるの、伯父さんの差し金だと思ってるでしょ」
おれは、何も言わなかった。
「この際だから、教えといてあげるわ。私がここへ来てるのは、伯母さんの最後の言葉だったからよ。『あの人がいなくなって、私にもしものことがあったら、冬也をお願いね、涼ちゃん』て言われたの。じゃなきゃ、私があなたみたいな、何も知らないお坊っちゃんのところに来ると思う?」
「母さんが?」
涼子さんは、おれの問いには何も答えず、ガバッとベッドから起き上がって言った。
「今日は疲れたから、もう帰るわ」
そしておれの部屋を出ていった。遠くで玄関のドアが閉まる音がする。続けてフェラーリのエンジン音。おれは、一人、部屋に置き去りにされた子供のように、急激に淋しさが心を支配していくのを感じた。さっきまで、涼子さんが寝転がっていたベッドに死んだように倒れこむ。
誰が正しくて誰が正しくない。
何が正しくて何が正しくない。
おれは、一生懸命、自分の居場所を探していた。
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