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冬也3
「相変わらずすげーなぁ。このCDの山は。前に来たときより増えてないか?」
ナツは、CDラックに収まりきらずに、山積みにされているCDを見て言った。
「好きなのがあったら、持って帰っていいぞ。ほとんどクラシックだけどな」
「ほんとかよ」
「ああ」
「ラッキー」
ナツは、本当に嬉しそうだった。
「お前、これ全部弾けるの?」
「たぶん」
「前々から思ってたんだけど、お前ってピアノの天才なんだな」
「ピアニストなら、当たり前のことさ。譜面がなきゃ弾けない曲もあるけどな」
ナツは、CDを手にとって、見ては置いていくという作業を、ひたすら繰り返していた。どう見ても、金髪の不良少年がクラシックのCDを見てるのには、違和感を覚えずにはいられない。いくらそういう趣味があったとしてもだ。それにしても、本当に似合わないもんだな。
「そんなの表紙だけ見ても分かんないだろ」
「ああ、自慢じゃないが、全然分かんねえや」
「何か弾いてやろうか?」
「弾かせていただきましょうか? の間違いだろ。この前のタクシー代、まだもらってないからな」
「あれ、覚えてたの?」
「忘れてるとでも思ったか?」
「記憶力だけはいいんだな」
「ああ、『だけは』は余計だけどな」
コンコンッ。そのとき、ドアをノックする音がした。
「開いてる」
涼子さんが、コーヒーとケーキを持って入ってきた。
「いらっしゃい、ナツくん。久しぶりね」
「お邪魔してます」
ナツがぺこりと頭を下げる。
「表に蒼いバイクがあったから、ナツくんが来てるんだと思ったわ」
「涼子さん、今、来たの?」
おれは、自動車の音が聞こえなかったことを、不思議に思って訊いていた。このピアノが置いてある部屋は、ある程度の防音設備が施されている。そのせいだろうか。
「車の音、しなかったけど」
「車検中なのよ」
「じゃあ、どうやってここまで」
「兄さんに送ってもらったの。いつもフェラーリの音を聞いてるから、気付かなかったんじゃないの。兄さんの車は、エンジン音がすごく静かだから」
涼子さんの兄さんは、プロのバイオリニストだ。今では、ほとんど会うこともなくなったけど、小さいころは、よく遊んでもらった。
「じゃあ、帰りは?」
「送ってもらうわ」
「誰に?」
「そこにいるじゃない、一人」
そう言って、ナツのほうを見る。
「本気?」
「ええ、本気よ。送ってくれるわよね、ナツくん」
涼子さんは、ガラステーブルの上に、コーヒーとケーキを並べながら言った。
「おれは、構いませんけど、スカートで乗るのは無理じゃないですか?」
「そうねぇ、帰るまでにジーンズでも買ってくるから、それでどう?」
「分かりました」
「まだしばらくいるんでしょ?」
「はい。涼子さんが帰ってくるまではいます」
「ナツくんは優等生ね」
金髪の優等生なんて聞いたことがない。
「じゃあ、私は買い物に行ってくるから」
「うん、分かった」
涼子さんが部屋を出ていった後で、おれは訊いてみた。
「ナツ、本当に涼子さんを送っていくのか?」
「ああ、今、約束しちゃったからな。これで涼子さんのピアノも聴くことができるな」
おれたちに対するタクシー代は、ピアノに決めてるようだ。
「遠慮なくもらうぞ」
「遠慮なくどうぞ」
ナツは、ケーキをあっという間に平らげると、コーヒーを飲みながら、CDの物色に戻った。タイトルだけを見ても、クラシックと縁のないナツには、それがどんな曲なのかは、分からないと思うんだけど。そんなナツを横目に、おれは、ピアノの練習に戻った。しばらくして、ナツが言った。
「冬也、これってどんな曲なんだ?」
ナツの手には、モーリス・ラヴェルの『亡き王女のためのパヴァーヌ』があった。
「弾いてやろうか」
「ああ」
おれは、ナツのリクエストに応え、ピアノを弾き始めた。その間、ナツはずっと目を閉じて聴いていた。ナツがピアノを聴くときは、必ず目を閉じる。いつものことだ。約六分後に曲は終わった。
「どうだ?」
「んー、なかなかいい曲だな」
「ほんとに分かって言ってんのかよ」
そんなおれの言葉には耳も傾けずに、もう次の曲を探している。不思議なことに、ナツが何も知らずにタイトルだけ見て選んだ曲と、おれの好きな曲は、ほとんど同じだった。好みが似てるんだな、きっと。おれは、また、ピアノの練習に戻った。今度のコンクールで弾こうと思っている曲『月光』を弾き始めた。そのとき、コーヒーを飲み干したナツの手が止まった。
「冬也、ちょっと待て」
「何だよ」
おれは、演奏していたピアノの手を止めた。
「今、おまえが弾いていた曲のCD、この山の中にあるのか?」
「ああ、それならラックのほうにあるんだ」
そう言って、おれはCDの山じゃなく、ラックのほうから一枚のCDを取り出した。
「コンポ借りてもいいか?」
「ああ、でもその曲なら、おれが、今、練習してる曲だから、すぐに弾けるぜ」
「おまえに弾いてもらう前に、CDを聴いておきたいんだ」
「……分かった」
「少しボリューム大きくしても大丈夫か?」
「ああ、防音設備は整ってるからな」
「じゃあ、少し大きめで聴いてもいいな」
「構わないぜ」
おれは、そう言うと、CDをコンポにセットしてやった。ボリュームを少し大きめにして。しばらくして演奏が始まる。
第一楽章アダージョ・ソステヌート。月夜の砂浜に、穏やかな波が打ち寄せるような優しさを持った旋律。そして第二楽章アレグレットから、第三楽章プレストになるにつれて、次第に旋律は激しくなっていく。曲が終わりをむかえたとき、この部屋は静寂に包まれた。
音のない世界――。
おれが、一番美しい旋律だと思っている音。無音だから音とは言えないだろうけど、他に適切な言葉が見つからない。静寂を破ったのは、ナツだった。
「おれ、この曲、何だか好きだな。バイクのリズムに似てる。何ていう曲なんだ?」
「ピアノ・ソナタ第十四番、嬰ハ短調『月光』だ」
「誰の曲?」
「ベートーヴェン」
「お、そいつは知ってるよ。『運命』とかいう曲を作ったやつだろ?」
「そうだ」
ナツは、ときどき鋭いことを言う。
「バイクに似てたか?」
「ああ、どこがって言われると困るんだけどな」
「おれも、初めてお前のバイクに乗ったときに、同じことを思ったんだ」
「そうなのか? 冬也がそう思ったんなら、おれにも音楽的センスがあるのかもな」
「そうだな、そのCDはお前にやるよ」
「いいのか」
「ああ」
ナツの顔が、とても嬉しそうだ。正直なやつだ。本当にとても気に入ったらしい。
「じゃあ、次は、お前の『月光』を聴かせてもらおうか」
「いいぜ、腰を抜かすなよ」
「おまえの演奏で、腰が抜けるかよ」
「言いやがったな」
おれは、『月光』を弾き始めた。今、聴いたのと同じ旋律。優しく始まり、次第に加速していく感じ。ナツのSTEEDと同じリズムの旋律。曲は激しさを増し、そして終わった。ナツは、しばらく何も言わなかった。
「どうだ、腰が抜けたか?」
返ってきたのは予想外の答えだった。
「おまえ、何のためにピアノ弾いてるんだ?」
「何だよ、それ」
「自分でも分かってるんだろ。何かが足りないって」
ナツの言うとおりだった。何度弾いても、何かが足りないんだ。でも、その何かが今のおれには分からない。おそらく何度弾いたところで、この妙な不足感は消えやしないだろう。技術的な問題じゃないのかもしれない。
昔、中学のピアノコンクールで優勝したとき、ちょうど父さんが帰国していて、おれの演奏を見に来たことがあった。おれは、そのコンクールで優勝した。父さんの鼻をあかせてやったと思った。廊下ですれ違ったとき、おれは勝ち誇っていた。見たかと言わんばかりに。
「父さん、これでおれは三年連続日本一だ」
「ああ、らしいな。完璧な演奏だった」
「だろ」
「だからだめなんだよ、おまえは」
「え? 何、言ってんだよ。日本一だぜ。世界を知らないおれのことを、井の中の蛙みたいに思ってるのか?」
「そんなんじゃない。それが分からないうちは、おまえはただのピアニストだ」
「意味が分かんねーよ。どういうことだよ」
「冬也、おまえは何のためにピアノを弾いているんだ?」
そう言い残して、父さんは去っていった。あのときの記憶がよみがえる。
何のために――。
おれは、何のためにピアノを弾いてるんだろう。母さんは言った。『おまえは、ピアノに選ばれた人』だと。『ピアノに選ばれた人』って何だ?
ナツが、急に立ち上がり、ゴミ箱の中から封も切っていない封筒を取り出した。ナツは、おれと父さんの事情を知ってる。昔、ルシアン・ヒルで話した。
「その答えが、この中にあるんじゃないのか?」
「ばか言え」
「封も切らずに、そんなことが分かるのか?」
そう言って、ナツは封筒を開け始めた。
「やめろって」
ナツは、構わず続ける。
「やめろって言ってるだろ」
おれは、ナツから封筒を取り上げ、またゴミ箱の奥のほうへ押し込んだ。
「おれに、ヨーロッパに行けって言うのか?」
「そうだ」
淡々とナツは言った。
「おまえは、人が死ぬってことを分かっちゃいない。死んでいった人たちの最も望むものが何なのか、少しも分かっちゃいない」
「何だと! おまえに何が分かる」
そのとき、ドアをノックする音がした。涼子さんが帰ってきたんだ。ちっ。おれは、心の中で舌打ちをした。
「入るわよ」
涼子さんは、そう言って部屋の中に入ってきた。何だか少し哀しげな表情をしてるように見えた。今のおれたちの話を聞いてたんだろうか。防音設備がしっかりしてるとはいっても、それは壁だけの話だ。ドア越しには聞こえてただろう。
「どう、ジーンズなんて久しぶりだけど、モデルがいいから決まってるでしょ」
「バッチシです」
ナツは、さっきまでの会話なんて、気にもしてないように言った。
「ナツくん、私、そろそろ帰らなきゃいけないんだけど、お願いできるかなぁ?」
「分かりました」
何だか気まずい雰囲気を残したまま、ナツと涼子さんは部屋を出ていった。玄関口まで来ると、涼子さんは、ナツの肩を借りて、靴を履いていた。
「冬也、また来るよ」
「ああ」
おれは、二人を見送った後、街に出た。ナツに何が分かるっていうんだ。おれは、父さんを絶対に許さないからな。それなのに、あの封筒の中に答えがあるだと? あるわけないだろ。あんな人でなしの送ってくる封筒なんかに。
「冬也」
名前を呼ばれて声のしたほうを見ると、JOYがコンビニの駐車場で、座り込んで缶コーヒーを飲んでいた。JOYは、おれや亜郎と違って、入学した生徒の卒業率が、半分をきってるという、悪名高い東仙高校に通ってるやつだ。ナツ繋がりで知り合った。本名は皆月譲って言うんだが、ナツが付けたニックネーム『JOY』で通ってる。
「何やってんだ? こんな所で。しかも恐い顔して」
「恐い顔?」
「ああ、すっごく恐い顔してたぜ、今」
制服のまま、茶髪でタバコを吸ってる不良に言われたかないけどな。
「JOY、バイクか?」
「もち」
「ルシアン・ヒルに行かないか?」
「素直じゃないな、おまえ。乗っけてってくれってことだろ、それ」
「ああ」
「別にいいぜ。ただしコーヒー飲み終わるまで待ってろよ」
「分かった」
「やっぱコーヒーは無糖ブラックだな」
JOYは、数分後にコーヒーを飲み終えると、約束どおり、おれをルシアン・ヒルに乗せていってくれた。JOYの愛車、漆黒のSRで。ナツのSTEEDと違って、JOYのSRはシングルシリンダーだから、美しい旋律を奏でるにはほど遠かった。しかし、怒りが収まらない今のおれには、ちょうどいいビートだった。
ルシアン・ヒルに着くと、おれは、心を落ち着かせるために缶コーヒーを買った。おごるって言ったけど、JOYは「さっき飲んだからいい」と言って、タバコを吸っていた。
「冬也」
「何だ?」
「おまえ、蛇に狙われてんのか?」
「蛇?」
「ああ、何か蛇が数匹いるんですけど」
JOYが丁寧な言葉使いをするときは、ろくなことが起こらない。振り返ってみると、五、六人の柄の悪そうなやつらが集まってきていた。左腕に蛇の刺繍。ナツの言ってた『麗蛇』だ。
「皆月、おまえに用はねえ。後ろのお坊っちゃんに用があるんだ」
やつらの中でも、リーダー格の男がそう言った。
「って言ってるけど、どうする、冬也」
「やめておけ、おれは、今、ものすごく機嫌が悪いんだ」
「はいはいって素直に帰るとでも思ってんのか?」
リーダー格の男は、すごみをきかせた声で言った。
「手伝おうか」
「いらねーよ」
おれは、感情の赴くまま暴れてやった。まずリーダー格の男の顔に、三回蹴りを入れた。すると、そいつは動かなくなった。残りのやつらは、その時点で半分以上戦意を失っていたようだが、向かってくるやつに容赦はしない。気が付くと三人ばかし倒れこんでいて、あとのやつは逃げたらしい。
「だから言っただろ。おれは、今、ものすごく機嫌が悪いって」
「恐いねえ、最近の高校生は」
JOYが全然恐くないように言う。おれのいら立ちは、どれほども収まっていなかった。もっともっと暴れていたかった。行き場を失ったいら立ちは、おれの中で消化不良を起こしていたんだ。
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