冬也4

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冬也4

 おれは、いつも昼食を、食堂で売っているパンを買い、校舎の屋上で食べることにしている。今日は、少し出遅れた。だから、普段買っているカツサンドが売り切れていて、コロッケパンしか買えなかった。ついてないな。おれ以外にも、昼食を屋上で食べてるやつはたくさんいる。おれみたいにパンを買ってくるやつもいれば、弁当を広げてる女子生徒もいた。不思議と指定席は決まっていくものだ。保守的なのか、安心するのか、理由は分からないけど、みんなだいたい同じ場所で食べるようになる。  これは、通学にも言えることだ。おれは、電車で通学していたが、座る場所をいつも同じところに決めていた。三両目の最後尾の席。毎日乗ってると、毎日同じメンバーが乗車してくる。突然、街で会ったときなんかは、会釈程度だが、思わず条件反射であいさつをしてしまう。みんな同じだろう。 「冬也」  おれを呼んだのは、亜郎だった。 「よう」  おれは、簡単な返事とともに、すでにパンをほお張ってる亜郎のほうへ行った。  灰原亜郎――。  おれの小学生時代からの友人だ。ロン毛を後ろで束ね、別に病気でもないのに、眼帯で左目を隠している男。おれは、もう何年も亜郎の左目を見たことがない。亜郎は、北校の至宝だった。学年成績はいつもトップ。それどころか全国模試も、いつもトップだった。おれたちの通っている北高は、進学校だったから、教師も、こいつにだけは何も言わなかった。  入学当初、おれたちの担任が『成績がいいからって、お前を特別扱いするわけにはいかない。明日までにその長髪をどうにかしてこい』と言った話は有名だ。亜郎は、担任に英語で返答したそうだ。一応担任は英語教師だったから、亜郎が何を言ったのか、分からなきゃいけない。だが、担任は、亜郎の言ったことが分からなかった。教師の面目は丸つぶれだ。生徒指導係りの保健体育の教師が言ったときも、同様に答えたと聞いてる。ただし、そのときはフランス語だったらしいが。おれは、あとから、亜郎に何て言ったのか訊いてみた。その答えは単純なものだった。『僕は、学校には興味がありません。退学になさるなら、どうぞご自由に』だそうだ。  それ以来、亜郎は北校において、永久不可侵の存在となった。まあ、触らぬ神に祟りなしってところだ。勉強ができて、素行が悪い。一番たちの悪い生徒だな。それにしても天才という言葉は、こいつのためにあるんじゃないかと思うほど、完璧なやつだった。 「遅かったな」 「ああ、おかげでカツサンドが売り切れてたよ」 「それってこれのこと?」  亜郎は、そう言ってカツサンドをおれに見せた。 「ああっ、おまえが買ったから、おれが買えなかったじゃないか」 「むちゃくちゃ言うなよ。僕が買わなくても、他の誰かが買ってたさ、きっと」 「おれのコロッケパンと交換しないか」 「するわけないだろ」  亜朗は、ホットドッグを食べながら言った。 「神北高校の天然記念物は、とても人に冷たいんだな。もっと人に優しくなれよ」 「何だよ、天然記念物って。人をオオサンショウウオみたいに言うな。せめて人間国宝くらい言えよ」 「すいませんねえ。おれは、お前と違ってピアノしか取りえのない生徒ですから」  おれは、亜郎の隣に座った。ちょうど日陰になっていて、そんなに暑くない。ポカポカとしていて気持ちいいくらいだ。午後からの授業がなかったら、このまま眠ってしまうだろうな。亜郎が譲らないので、おれは、仕方なくコロッケパンを口にした。亜郎は、紙パックのフルーツジュースを飲んでいる。 「コンクールの曲、決めたのか?」 「一応な」 「何?」 「『月光』にしようと思ってる」 「『月光』か。いいんじゃないの」 「天然記念物が言うんだから、おれの選曲は当たりだな」 「まだ言うか、このピアノバカめ」  亜郎は、おどけた調子でそう言った。フルーツジュースを飲み干したみたいで、紙パックをギュッと握り締めていた。 「そういえば、ナツに『月光』のCDをあげたんだって?」 「ああ、おれにはもう必要ないからな」  本当に、おれにはあのCDはもう必要なかった。おれの『月光』に欠けてるものが、あのCDにあるとは思えなかった。 「雨宮冬也の『月光』を弾くつもりなんだな」 「どこまでできるかは、分かんないけどな」  本心だった。今の演奏でも、金賞を取る自信は十分にあった。だが、たとえ金賞を取ったとしても、欠けている何かが見つからなければ、それはおれにとっての金賞じゃない。 「おまえ、金賞取れる自信ある?」 「もちろんあるさ」 「当然、彼女も出るんだろうな」 「菊池シキか?」 「ああ」 「出るだろうな」 「じゃあ、なめてかからないほうがいいと思うぞ」 「どうして?」 「僕は、去年の今ごろ彼女に会ってる」 「会ってるって、どういう意味だ?」  おれは袋の中から、アンパンを取り出した。口の中のコロッケパンを、缶コーヒーで流し込む。 「あ、ちょっと待て。アンパンと交換じゃ駄目か?」 「残念だったな、コロッケパンだったら考えてもよかったんだがな」  亜郎は、意地悪そうに笑いながら言った。 「おまえ、性格悪いな」 「今に始まったことじゃないだろ」 「まあな」  少し憤慨しながら、おれはさっきの話の続きを促した。 「で?」 「どこまで話したっけ?」 「彼女に会ったところまで」  こいつ忘れてなんかいないのに、忘れたフリしてやがる。まったく。 「去年の今ごろ彼女に会ってるんだ。電車の中で」 「それで?」 「そのとき彼女は、譜面を見ながら弾いてたんだ。とても繊細な指の動きだったよ」 「その譜面が『月光』だったのか?」 「ああ」 「どうして、そんなことが分かるんだ?」  亜朗は、コンクリートの上に寝転んだ。おれも、アンパンを口にくわえたまま、同じように寝転んだ。初夏の日差しと、ちょうど心地よい風が、とても気持ちいい。見上げた空には、きれいな青と白のコントラストが出来上がっていた。 「彼女は、降りる瞬間、その譜面を僕に渡したんだ」 「譜面を? 何で?」 「何でなのかは、こっちが訊きたいな。栞の代わりに押し花がはさんであったよ」 「そのページが『月光』だったってわけだ」 「ご名答」  相手は『月光』が得意なのか。そういえば彼女は、去年もベートーヴェンのピアノ・ソナタでエントリーしてたな。確か、第八番 ハ短調『悲愴』。 「ま、油断大敵ってことだな」 「油断なんかしないさ」  そう、油断なんかはしない。敵は自分の中に巣くってる父さんへの憎しみ、そしておれの演奏に欠けている何かの二つだ。ん? 何か外が騒がしい。何だ? おれと亜郎は、同時に起き上がってフェンスのところまで行った。 「何だ、あれ?」  亜郎が言った。校門のところで、何やら柄の悪そうなやつらが、十人くらい集まっている。中にはバイクを吹かすやつ、明らかに敵意を持って木刀とか金属バットを振り回しているやつなんかがいた。 「あいつら……」 「知り合いか?」 「ああ、おれの客人だ。ちょっと行ってくるわ」 「何なんだ、あいつら。東仙の制服着てるやつとかいるぞ」 「『麗蛇』とか言うらしいぞ」 「『麗蛇』? やばいチームじゃないか。何でそんなのに、おまえが関わってるんだ」 「ちょっといろいろあってね」  おれは、そう言って階下に向かおうとした。階下への扉付近まで行ったとき、亜郎の言葉がおれを呼び止めた。 「待て、冬也。誰か出ていった」 「教師か?」 「違う。生徒だ」  誰だ? あんな連中の中に出ていくなんて。普通の神経じゃないぞ。よほどのばかか、あるいは……。 「三年の菊川さんだ」  おれの予想は、後者だったようだ。  神北高校三年、菊川レイ。この辺りの最大チーム『カラミティ』の総長。進学校であるはずの北校に、何でそんな不良たちの親玉みたいなのがいるのかは、入学当初からの謎だった。おれは、亜郎の言葉を聞いて、もう一度フェンスまで戻った。菊川さんは、しばらくやつらの中で何かを話してるみたいだった。ここからじゃ何を話してるのか聞こえるはずもない。数分後、やつらは去っていった。 「おい、行くぞ」 「ああ」  おれたちは、一気に校舎を駆けおり、エントランスを抜けて、帰ってくる人影に近づいていった。もちろん、その人影は、菊川さんだった。 「菊川さん」  おれは、初対面にもかかわらず、訊いていた。 「何だったんですか?」 「おまえ、誰?」 「一年の雨宮っていいます。こっちは灰原」 「お前たちか、ナツが言ってたのは」  落ち着き払った感じで、菊川さんは言った。 「しきりに『雨宮ってやつを出せ』って言ってたけどな。そうか、おまえが雨宮か」 「はい」 「おまえがどうとかじゃなくて、人んちの玄関で騒ぐな。『うちとやるってんなら、容赦はしないぞって一条に言っとけ』っつったら、帰ってったよ」 「一条?」 「ああ、『麗蛇』の頭はってるやつだ。おまえ、ほんとに何も知らないんだな」 「すいません」 「別に謝れとは言ってないさ。それに、おまえのためにやったわけじゃないから気にするな。おれらは、おれらの筋を通してこいってだけの話だ」  そう言うと、菊川さんは校舎の中へ入っていった。堂々とした後ろ姿だった。一つのチームを、まとめるだけのオーラを感じた。今の話からすると、ナツは、知り合いみたいだな。しかも、ナツのことを気安くナツと呼んでいた。かなり親しくなきゃそんなふうに呼ばないと思うんだが。いったいどういう関係なんだ。ナツの交友関係は計り知れない。
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