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冬也5
おれは、いつものように部屋でピアノの練習をしていた。曲目は、もちろん『月光』だ。やはり、何度弾いても欠けているものがある。それが何なのか分からない。コンクールまであと数日。おれは焦りを覚えていた。
『お前、何のためにピアノ弾いてるんだ?』
ナツの言葉が、頭から離れない。外で、聞き慣れたエンジン音がした。涼子さんだ。はたして、しばらくすると涼子さんが現れた。
「どう、練習はかどってる?」
「うん、まあね」
おれは、適当にごまかした。
「浮かない顔ね、うまくいってない証拠だわ」
「そんなことないよ」
「じゃあ、弾いてみてよ」
「今?」
「そう、今」
「少し休憩しようと思ってたんだけど」
「じゃあ、あと一回弾いたら休憩にしましょ」
そう言って、涼子さんは、後ろのソファに座った。涼子さんは、プロのピアニストだ。気付くに決まってる。おれは、覚悟を決めてピアノを弾き始めた。後ろのソファで、目を閉じて、黙って聴いている涼子さんが頭に浮かぶ。涼子さんが、おれのピアノを聴くときの、いつものスタイルだ。最後まで弾き終えても、涼子さんは、何も言わなかった。目を閉じたまま数分が経った。これも涼子さんのいつものスタイルだ。
「うん、いいんじゃない」
「え?」
「『え?』じゃないわよ。いいんじゃないって言ったのよ」
「本当に?」
「くどいわね。何か、気に入らないところがあるの?」
涼子さんは、気付かなかったんだろうか? ピアノを弾いたおれ自身が、こんなに明白に何かが足りないと思っているのに。あの素人のナツでさえ気付いてたのに。
「気に入らないところっていうか、全体的に、何か足りないような気がして」
「そんなことないわよ、うまく表現できてると思うんだけどなぁ」
「ほんとにそう思ってるの?」
「ほんとにくどいわねえ。どうしたの? それだけ弾ければ金賞は間違いないわよ」
どうして気付かないんだろう。こんなにも何かが欠落した演奏なのに。
「さてと、今日は、私が夕飯作って帰るから。準備してる間、適当にしててね」
涼子さんは、そう言い残して、キッチンへ向かった。おれは、ピアノに向き直って、ぼんやりとしてた。やっぱり何か足りない。
「あ、そうそう。この前、ナツくんに送ってもらったでしょ。本当に『月光』のリズムなのね。びっくりしちゃたわ」
「涼子さんも、そう思ったんだ」
「まさかとは思ってたけどね。やってみないと、分からないこともあるもんね」
「だから言ったじゃん。『月光』のリズムだって」
おれは、リビングのソファに座って、リモコンのスイッチを押した。テレビがつき、ニュース番組のアナウンサーの無機質な声が、部屋に満ちていく。それが嫌で、チャンネルを変えてみたけど、今の時間帯は、どのチャンネルもニュース番組しかしていないようだ。結局、最初のチャンネルに戻した。
「涼子さん、……亜郎がさぁ」
おれは、一年前にあったという亜郎の話をした。涼子さんは、手を止めずにずっと聞いていた。ときどき「へぇ」とか「ふーん」とか言いながら。
「それって宣戦布告ってことなのかなぁ? 菊池さんは、灰原くんが、冬也の友達って知ってるわけじゃない。だから、来年は、この曲で勝負しましょうっていう」
「それなら直接おれに言えばいいじゃん。それに亜郎が、必ずしもそういうことがあったって言うかどうかも分かんないのに。可能性が低すぎるよ」
「じゃあ、灰原くんのことが、好きなんじゃないの?」
「それはないよ。だって彼女と亜郎は、一度も話したことなんてないんだよ」
「人を好きになるのって、話してからじゃないと駄目なの?」
「そうじゃなきゃ、どんな人か、分かんないじゃん」
菊池シキが一年前にやったことの意味を、真剣に考えたことが一度もなかったから、あらためて考えてみたけど、亜郎に分からないことが、おれに分かるわけないんだ。時間の無駄だな。
「菊池さんといえばね」
「うん」
「今度のコンクールで、金賞取らなきゃ、ピアノ辞めさせられるみたいよ」
「え?」
どういうことだ。あんなに才能があるのに。
「両親には、ずっと反対されてたみたい。ピアノなんかで生きていけないってね」
「生きていけないとか、そういう問題じゃないじゃん」
「そうでもないわよ。ピアノ弾いてる人間が、みんな自分たちと同じだなんて思っちゃ駄目よ」
「それは分かってるけど」
「いいえ、分かってないわ、冬也は」
涼子さんは、はっきりとした口調でそう言った。
「でも、菊池さんも気の毒よね。彼女だって、すごく才能はあるのに。同世代に化け物がいたんじゃ不幸としか言いようがないわ」
「化け物っておれのこと?」
「他に誰がいるのよ」
「化け物って」
「化け物よ、冬也は」
「それって、あんまりいい意味に取れないんだけど」
化け物っていう呼ばれ方は嫌だな。甲子園に出る学校とか、春高バレーに出る学校とかには、そういう呼び方を勝手にメディアに付けられてしまう選手もいるけど、あいつらは、気に入ってるんだろうか? ピアノは文科系だ。体育会系を馬鹿にしてるわけじゃないけど、おれは、そういう呼ばれ方をされたくない。涼子さんだって、もう少し呼び方を考えてくれてもいいのに。
「冬也、今の話を聞いたからって、手を抜いたりしちゃ駄目よ。そんなんで金賞もらったって、そのほうがかえって惨めになるんだから」
「手を抜いたりなんかしないよ」
「そうね、冬也は、そんなに器用じゃないもんね。はい、できたわよ。運ぶの手伝って」
「分かった」
おれは、ソファから起き上がって、料理を運ぶことにした。涼子さんにしては珍しく、とても豪華なメニューだった。今までに何度も涼子さんの料理は口にしている。見掛けも上品な上に、味も言うことはなかった。でも、今日のは、いつものと違った。なぜだか見掛けが必要以上に豪華だった。たぶん、今までで一番豪華だろう。ピアノ留学していた国、フランスの料理に、自分のアレンジを加えたみたいだ。
「どうしたの、これ」
「何が?」
「何か、すごく豪華な感じがするんだけど」
「そう?」
「うん、とても」
「じゃあ豪華かも」
涼子さんは、笑いながら、おれに席につくよう促した。席についたおれは、まだ目の前の料理に見とれていた。
「見てるだけじゃ、おなかはいっぱいにならないわよ。さあ、食べて」
「うん」
おれは、まずスープを口に運んだ。
「おいしい」
「そりゃ当たり前でしょ、私が作ってるんだから」
「うん、ほんとにおいしいよ」
おいしい、でも、何で急にこんなに豪華な料理を作る気になったんだろう。必勝祈願かな。
「涼子さん」
「何?」
おれは、前から一度訊いてみたかったことを、この機会に訊いてみることにした。
「涼子さんは、何のためにピアノを弾いてるの?」
以前、ナツに問いかけられた言葉だ。おれは、答えることができなかった。涼子さんは、何て答えるだろう。
「どうしたの、急に難しいこと考えちゃって。似合わないわよ」
「そんなこと、分かってるよ」
しばらく何も話さないまま、食事が続いた。
「私はね……」
涼子さんが、急に話しだした。
「私はね、冬也みたいに『何のためにピアノを弾いてるか』なんて一度も考えたことがないの。強いて言うなら、雨宮の人間だったから。それくらいしか答えは浮かばないんだけど、それで許してもらえるかな?」
「許すも何も、ちょっと訊いてみたかっただけだよ。おれが、同じ質問をナツにされたから」
「ナツくんに?」
「うん」
「それで冬也は、何て答えたの?」
「……答えられなかった」
「……そう」
涼子さんは、何だか哀しそうだった。
「それが、たぶんおれのピアノに欠けてる部分だと思うんだ」
「そうかもしれないわね」
何だか気のない返事だった。
「ナツに言われたんだ。『自分でも分かってるんだろ。何かが足りない』って。そして『その答えは父さんから贈られてくる封筒の中にあるんじゃないのか』って。おれは否定したんだけど、頭から離れないんだ」
「そう、ナツくんがそんなことを。あの子は不思議な子ね」
「不思議?」
「冬也も、何かが足りないって思ってたんでしょ?」
「うん」
「ナツくんに分かるのに、私には分からないわ」
「あいつは、感覚だけで生きてるやつだから」
「それが不思議って言ってるのよ」
何だか湿っぽい夕飯になってしまった。一人でいるときより、二人でいるときのほうが、孤独を感じることってあるんだな。たとえその相手が、身内の涼子さんでも。
「オ・ルヴォアール」
「何それ?」
「この料理の名前」
「名前なんてあるの?」
「私が、今、付けたの」
「それって英語じゃないよね」
「もちろん」
「どういう意味なの?」
「冬也には、教えてあげない」
「何だよ、それ」
「そんなことより、ちゃんと残さず食べてね」
「分かってるよ」
おれは、どんどんお皿を平らげていった。涼子さんは、どことなく淋しげな表情で、そんなおれを見ていた。『残さず食べてね』と言ったわりには、自分の料理には、ほとんど口をつけてない。
「冬也」
「今度は何?」
「私がここへ来るの、今日でおしまいだから」
涼子さんは、唐突にそう言った。
「え? 何で?」
「私には、もう冬也に教えられるものがないのよ。さっき自分のピアノには、何かが足りないって言ったでしょ。私には、どうしても分からないの。ナツくんのバイクのリズムが『月光』だってことも、本当は分からなかった。もうずっと前から、私には、冬也に教えてあげられるものがなかったのよ」
「そんなことないよ。何だよ、急に」
おれは、涼子さんが、もう来ないなんて言いだしたことに、淋しさと、焦りを隠しきれずにいた。本当に一人になるのが恐かったんだ。
「冬也は、もう私の手に負えないのよ。私の知らない場所まで行ってしまったの。そして私には、そこへ行く方法が分からないの。いや、私には、最初から、そこへ行く権利なんて与えられてなかったのね、きっと」
「そんなことないよ」
「気休めは言わないこと、似合わないから。冬也のピアノを聴いていると、何だか自分が惨めになるの」
涼子さんは、両手で顔を覆った。おれは、もうそれ以上何も言えなかった。ただ、必死に泣き声をあげまいと我慢している涼子さんを見てるのが、おれにできる精いっぱいのことだった。
涼子さんが帰った後、おれは亜郎に電話をした。
「どうした?」
聞き慣れた声が、携帯の向こう側でする。
「教えてくれないか」
「何を?」
「オ・ルヴォアールってどういう意味なんだ?」
「フランス語で『元気でね』みたいなニュアンスかな」
「そうか」
「何かあったか?」
「いや、至って順調。サンキュ」
おれは携帯を切った。
『何かに迷ったら、音叉の音を聴きなさい』
母さんの遺言だ。おれは、チョーカーを外し、肩に当ててみて音叉の音を聞いてみた。音が消えると、再び同じことを繰り返す。いつまで繰り返せば、答えが見つかるんだろう。おれは、いつまでも繰り返し音叉の音を聴いていた。
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