冬也6

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冬也6

 コンクール当日。おれは、いつものように衣装ケースを持って電車に揺られていた。最寄りの駅で降り、会場を目指す。意外と距離があった。タクシーで行こうかとも思ったが、歩いていくほうを選んだ。アンダンテだ。  天候快晴――。  川べりにある公園の、葉桜の下を通っていく。見上げると木漏れ日がまぶしかった。もうすぐ夏だな。公園の出口に差し掛かったとき、数人がおれを取り囲んだ。全員の左腕には、蛇の刺繍がしてあった。『麗蛇』だ。やつらは、おれを取り囲み、退路を断った。こんな日に。やれやれだ。 「ほんとにしつこいな、おまえら」 「はっ、菊川とどういう繋がりがあるのか知らないがな、一条さんが手を出すなと言っても、おれたちは収まりがつかねーんだよ。おまえが地面に這いつくばる姿を見ないとな」  右前の男が、おれを殴ろうと木刀を振り上げる。その瞬間、後頭部に激痛が走った。右手で触るとぬるっとした感覚がした。血だ。直後にさっきの男が、木刀を振り下ろす。とっさに腕を上げてガードした。バキッ。乾いた木が折れるような音がした。急激に右手の先の感覚がなくなっていく。 「おらおら、こんなもんじゃすまねーぞ。まだ寝るなよ。我慢して立ってろ、ひゃはは」  木刀と鉄パイプが、おれを痛めつけていく。右前の男、路地裏で俺がやったやつの内の一人だ。左目の下に傷がある。とりあえずそいつ目掛けて右足を蹴り上げる。そいつは、蹴りが当たった瞬間、後方に吹っ飛び、公園のベンチで頭を打つと動かなくなった。ヒュッ。左足に痛みが走る。支点となっていた足を鉄パイプでさらわれたんだ。おれは、一瞬、空中に浮き、腰から地面に落ちた。グッ。地面に転がったおれに、容赦なく降り注ぐ鉄パイプと木刀の雨。やばいな、このままじゃ。そのとき聞き慣れたエンジン音がした。STEED。ナツだ。 「おまえら、おれの仲間に何やってんの?」 「『ブルー』!」  やつらの間に緊張感が走る。 「おまえには関係ないだろうが! それともおまえも一緒に遊んでやろうか?」  路地裏でおれがやった、もう一人の男だ。 「嬉しいねえ、退屈しない程度はもってくれよ」  ナツはバイクを降りて、一番身近なやつから相手をしていった。ナツの右腕が鞭のようにしなる。拳がとどいたと思った瞬間、そいつは、地面から浮き上がり、そして頭から地面に落ちていった。それっきり動かない。 「ちっ、一発で寝ちまったら、おれが退屈するじゃねーかよ。おれと遊んでくれるんじゃなかったのかよ。冬也、おまえは会場に行け。ここの後始末はおれがやっておく」 「言ってくれるねえ、たった一人で、この人数を相手にするつもりか?」 「あんまり調子こいてん……」  そいつが最後まで言い終わる前に、ナツの左拳が顔面をとらえていた。そいつもまた、そのまま倒れて動かなくなった。おれは、衣装ケースを左手で拾い上げ、会場に向かった。ひどいなりになっちまったな。土まみれで、おまけに顔面は血で染まっていた。そのとき、後ろから恫喝が聞こえた。 「待てっ、おまえだけ、どっか行ってん、ぐぶっ」  男は、最後まで言葉を発することを許されなかった。振り返ると、ナツの右足が、そいつのみぞおちにめり込んでいた。 「たった今からこの道は通行止めだ。冬也、早く行け!」 「ああ」  おれは、タクシーで行くことを選択しなかった自分を呪った。だが、今さらそんなことを言っても始まらない。おれが、今、すべきことは、会場にたどり着き、ピアノを弾くことなんだ。それが、おれの代わりにやつらの相手をしてくれてる、ナツのために最低限しなきゃいけないことだ。結構な距離があることは、駅で確認済みだったが、会場はこんなに遠かったか? 「チッ」  おれは、自分の右手を見て、思わず舌打ちをした。木刀をガードしたときに、感覚がなくなった右手。どす黒く腫れてきている。薬指と小指は折れてるな。おれは時計を見た。おれのエントリー番号は、最後から二番目だ。ギリギリってところだ。おれは、コンクールの時間も気になったが、それ以上に置いてきたナツも気になっていた。ナツが強いのは知ってる。でも、相手の人数が人数だし、向こうは凶器も持ってる。ナツは大丈夫だろうか。おれは、初めにもらった木刀で、いまだ止まらない頭の止血をしながら会場へ向かった。いっそ持っている黒いハンカチでバンダナみたいにしてみようか、ナツみたいに。おれは、再度時計を見た。間に合うのか? 少し歩く速度を上げた。世界がゆがんで見える。血を少し流しすぎたんだ。通行人たちが驚いて、みんなおれの横を通り過ぎる。大丈夫、おれは間に合う。そう何度も自分に言いきかせた。会場が見えはじめたとき、おれは走りだしていた。あちこち痛かったけど、そんなことは言ってられない。  会場に入り、受付の女性に控え室を訊く。適当に転んだとか何とか言ってごまかしたが、明らかに驚かせちまったな。このシャツ、血まみれだから。控え室で着替え終わったとき、おれの名前が呼ばれた。何事もなかったようにタキシードで出ていく。相変わらず、世界はゆがんで見えていた。 「エントリーナンバー二十八番、神北高校一年生、雨宮冬也くん」  アナウンスがおれを呼ぶ。おれは壇上に出ていって礼をした。この中に涼子さんも亜郎もいるだろう。JOYは、こういう趣味はなかったな。おれは、ピアノに着座すると、ゆがんだ世界を消し去るために、目を閉じた。まだ演奏は始められない。二、三度深呼吸をする。まだだ。まだ世界が元に戻らない。会場がざわつき始めた。おれは、胸のチョーカーを握り締めていた。 『母さん、おれは、ここまでの男か』  おれは、ナツと初めて逢った日のことを思い出していた。世界中の音がなくなった、あの瞬間を。 「雨宮さん、これ以上そのままだと失格になりますよ」  誰かがおれにそう告げた。大会運営委員の一人だろう。おれは、その言葉には耳を貸さずに、ただピアノと向き合っていた。 『あなたは、ピアノに選ばれた人なのよ』  母さんが、そう言った瞬間、世界が静止した。 「雨宮さん」  おれは、静止した世界の中で、演奏を始めた。  ピアノ・ソナタ第十四番、嬰ハ短調『月光』  第一楽章アダージョ・ソステヌート。問題はない。このくらいのテンポは、痛んでいるおれの指でも、たいして演奏に影響を与えない。おれは、ナツのバイクのリズムを思い出していた。第二楽章アレグレット。右手の指が思うように動かない。痛みよりも、ままならない指が悔しい。そしておれは、ついに右手の薬指と小指を使うことを放棄した。残りの三本の指で、『月光』を弾きはじめた。大胆なアレンジになってしまった。だがそれは、間違いなくおれだけの『月光』だった。他の誰にも弾けない『月光』。第三楽章プレスト。右手の三本の指は、自らの意思を持ったかのごとく『月光』ならざる『月光』を奏でていく。もうおれの体の一部なんかじゃなくなっていた。指先が、おれの体のすべてなんだ。聴衆が、大胆なアレンジに気付き、ざわついている。だが、不思議とおれの心の中には充足感があった。このまま、いつまでも弾き続けていたい。そう、いつまでも。おれは、十何年間ピアノを弾いてきて初めてそう思った。もっと、もっとピアノを弾かせてくれ。いつまでも、おれの気がすむまで弾かせてくれ。そう強く願った。  数分後、おれの演奏は終わった。人は言うだろう。「何てぶざまな『月光』だ」と。おれのピアノに欠けているものがあるだとか、そういうレベルの問題じゃないな。おれは、ステージで深々と礼をした。その瞬間、客席からは、割れんばかりの拍手が起こった。それはこの会場を揺るがすほどのものだった。  何で?  どうして?  今の演奏は、ぶざまなものじゃなかったのか?  遠くで母さんの声がした。 『あなたは、ピアノに選ばれた人なのよ』  控え室へ戻る途中、袖口にいた菊池シキと、ほんの一瞬目が合った。次は、彼女の番らしい。アナウンスが聞こえる。 「エントリーナンバー二十九番、南陽高校一年生、菊池シキさん」  控え室に向かうおれの背中越しに、彼女の美しい旋律が聞こえてくる。やはり『月光』だった。おれの『月光』の後じゃ、さぞかし上手に聴こえるだろうな。おれは、更衣室で元の服に着替えようかどうか迷っていた。元の服は血まみれだ。ジャケットだけ脱いで、スーツケースに入れておくか。あとネクタイもな。金賞なんてほど遠い演奏だったから、表彰式も欠席でいいだろう。おれは、運営委員に嘘っぱちの事情を説明し、先に帰っていいということになった。更衣室をあとにする。ピアノは散々だったけど、不思議と悪い気はしなかった。むしろ充足感が、おれの心を満たしていた。エントランスにあるベンチに腰掛ける。少し疲れたな。ああ、このまま眠ってしまいたい。 「あれが、雨宮冬也の『月光』か?」  二階正面のドアが開き、亜郎が階段を下りて来ながら言った。 「よう、天然記念物。やっぱり来てたのか」 「いい演奏だったな」 「同情なんてしなくていいぞ」 「おまえに同情なんてしないよ。僕は、思ったままを言ったまでだ。演奏後の歓声と拍手が何よりの証拠だろ」  確かに亜郎の言うとおりだった。おれの演奏は、観客に認められたらしい。使えなかった二本の指が、おれに大胆なアレンジをさせ、その結果、観客を魅了するほどの演奏ができあがった。皮肉な話だな。『麗蛇』のやつらに感謝しなきゃいけないか? おれは、心の中で少し笑った。亜郎が、出てきたドアから、涼子さんが出てきた。 「冬也、大胆なアレンジの『月光』だったわね。アレンジがすごすぎて、賞はもらえないだろうけど。私、ピアノを聴いて鳥肌が立ったのって久しぶりだわ」  今度は、涼子さんか。ここにいると、ゆっくりさせてもらえそうにないな。 「でも、どうしてオーソドックスに弾かなかったの? 賞をもらえたのに」 「弾けなかったんだ。それに賞なんてどうでもいいよ、観客が喜んでくれるなら。だって音楽って音を楽しむんだろ? あ、それから、おれ、手抜きは一切してないから」 「分かってる」  涼子さんは微笑んだ。おれは、会場の外へ出ることにした。表彰式が終わると、どっと観客が出てくるだろう。人ごみは疲れるからな。外に出て、木陰になってる場所を探す。あった。ちょうどいい具合にベンチもある。あそこで一休みだ。  しばらくすると、表彰式が終わったらしく、辺りは、思ったとおりエントランスから会場の外へ向かう観客で埋めつくされた。やはり早めに出ておいて正解だった。指のけがのこともあったし、本当に人ごみは疲れるんだ。人の波にまぎれて、菊池シキが出てきた。彼女の手には、優勝の証であるトロフィーがあった。ま、当然の結果だな。彼女は、きょろきょろしながら誰かを探しているようだった。そして、おれと目が合うと、真っすぐにこちらへ向かって歩いてきた。彼女が探していたのは、どうやらおれらしい。おれは、とっさに右手を隠した。 「どうしてわざと負けたの?」 「実力だ」 「うそよ。じゃあ、どうして普通に『月光』を弾かなかったの? とてもすばらしい演奏だったけど、あんなアレンジした『月光』じゃ賞が取れないのは、あなたも分かってたはずよ」 「でも、観客は喜んでくれたよ」 「賞を捨てて、自分の演奏を優先させたってわけ?」 「そんなつもりはなかったんだけど、結果的にそうなった」 「何それ。私のことなんて、最初から眼中になかったのね。優勝するかどうかなんてどうでもいい。でも、演奏では負けたくないから、誰にも弾けない『月光』を弾いた。これじゃ、私はいい咬ませ犬だわ。私の事情を知ってたんでしょ? それでそういう方法を選んだってわけ? 同情されて優勝しても、私は全然嬉しくないわ。このトロフィー、あなたに返すわ」  菊池シキは、持っていたトロフィーを差し出した。 「あ、待って、待って。ったく、ほんとにしょうがないなあ」  おれは、そっと右手を彼女の目の前に出した。 「!」  彼女は、驚いて声も出ないようだった。 「おまえ!」 「冬也!」  亜郎と涼子さんが、同時に声を上げた。おれは、また指を隠した。 「これで、説明がついたかなぁ? ねらって弾いたんじゃなくて、ああいうふうにしか弾けなかったんだよ。これがほんとの『けがの功名』ってやつ」 「冬也、指を見せなさい」  涼子さんが、半分怒りながら大きな声で言った。おれは、仕方なく、もう一度右手を出した。薬指と小指の腫れはひどくなっている。 「すぐに病院行かなきゃ。私、車取ってくるから」  涼子さんは、気が動転してるようだ。 「涼子さん、ヨーロッパには、あんなふうにピアノを弾くやつがたくさんいるのかなあ?」 「何言ってるの、こんなときに。落ち着き払って」 「賞とかのためじゃなく、観客を喜ばすためだけに、ピアノを弾くやつがさぁ」 「そんなのたくさんいるに決まってるじゃない」 「そうか、……たくさんいるんだ。……涼子さん、病院は、もう少し待ってくれないかなあ。どうせここは、自動車進入禁止だしさ」 「治療は、早ければ早いほどいいのよ。冬也、あなた、ピアノを弾けなくなってもいいの?」 「大丈夫だよ、おれは。ピアノに選ばれた人間だから」  菊池シキは、しばらく言葉も出ない様子だったが、おれの指を見ながら言った。 「こんな指で、どうして、そこまでピアノにこだわるの?」 「約束したからさ」  彼女は、不思議な顔をして言った。 「約束?」 「もう、これ以上、あいつに約束を置き去りにさせたくないんだ」  そのとき、聞き慣れたエンジン音が、遠くのほうから、だんだんボリュームを大きくするように聞こえてきた。おれは、立ち上がって、近づいてくるバイクの方を見た。ブルーカラーのカスタムSTEED。金髪に黒いバンダナ。ナツだ。 「冬也、ピアノ弾けたか?」 「ああ、おかげさまでな。そっちは?」 「おかげさまで、冬也のピアノ聴き逃がしちゃったよ。いつかおれのためだけにピアノ弾くんだぞ、おまえ。約束な」 「わかった。約束だ」  おれは、ゆっくりと立ち上がると、ナツの後部シートにまたがった。 「ちょっと、どこ行くのよ、冬也」  おれは、ヒステリックな涼子さんの声を聞きながら、ナツの耳元で言った。 「ナツ、ルシアン・ヒルに行かないか?」 「いいぜ。でもその前に病院だな」 「知ってたのか?」 「まあな」 「しょうがないか」 「ああ、しょうがない。じゃないと、おれとの約束が果たせなくなるだろ」 「……そうだな」  おれは、病院行き決定らしい。 「菊池さん、また勝負しようぜ。おれの指が完治したときに」 「え、……ええ」 「じゃあ、それまでそのトロフィーは預けとくよ」  おれを乗せたナツのバイクは、ゆっくりと進みだした。アダージョ・ソステヌートからアレグレット、そしてプレストへ。そう、『月光』のリズムで。
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