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「『さよなら』を教えて」  西森加奈子はそう言った。家庭教師としてやってきた僕に、数学でも英語でもなく、『さよなら』を教えてほしいと。 「さよなら?」  戸惑っている僕を直視し、その美麗な顔つきで彼女はもう一度言った。 「そう、『さよなら』を教えてほしいの」  僕が、家庭教師のバイトをしようと思いたち、駅の掲示板に手作りの募集広告を出したのがちょうど一週間前。僕が通っている大学の偏差値レベルでは、そんなに期待はできなかった。事実携帯が鳴ったのは一度きり。それが彼女だった。 「駅の掲示板を見ました。家庭教師をお願いしたいんですけど」  僕が勝手にイメージしていた最近のおちゃらけた高校生と違い、礼儀をわきまえた丁寧な口調だった。加えて言うなら、とても事務的な口調だった。  それが、僕―今鳥忍―と彼女―西森加奈子―の出逢いだった。  目の前に座っている彼女は、髪の毛は黒髪のボブ、化粧なんてしてる様子もなく、それでも黒目がちの瞳と小さな口が特徴的な、世間一般で言うところの、いわゆる綺麗な娘だった。実際に会ってみて、彼女が僕の予想を裏切ったことが一つある。それは、電話での彼女と全然違い、初対面にもかかわらず、まるで何年か越しの友人みたいに話しかけてくる、そのしゃべり方だ。僕は、電話での彼女とのギャップに驚きながらも、今、彼女が口にした言葉に、それ以上の驚きを隠せずにいた。 『さよならを教えて』  彼女は、間違いなくそう言った。それってどういう意味だ? 僕は、まったく予想外の彼女の言葉に、返す言葉を見つけられずに、意味もなく彼女の部屋を見まわしていた。僕が、どれほど普通の女子高生の部屋がどんなだか知ってるかはともかく、ここは普通の女子高生の部屋にはほど遠かった。極端に物が少ないんだ。あるのは、クローゼットとガラステーブルだけ。テレビもコンポもない。最少限のものしかないこの部屋は、実際の広さ以上に広く感じられ、僕をほんの少し淋しい気持ちにさせた。しかし、そんなことよりも、さっきから、僕の頭の中を同じ言葉がずっとめぐっている。彼女から発せられたたった一言の言葉が。 「どうして何もしゃべらないの?」  彼女が僕を問い詰めた。 「いや、その、電話のときのイメージとあまりにも違うから」  僕は、その隠しきれない驚きを、なぜだか隠したくて、彼女のギャップのほうを理由にした。 「電話のとき?」 「……うん」 「ひょっとして言葉遣い?」 「うん、まあ」  彼女は、しばらく考えるようなしぐさをした後で言った。 「先生は、敬語とか気にするタイプ?」 「そんなことないけど……」 「電話のときはね、猫かぶってたの。電話でいきなりこんな話し方じゃ断られるだろうなって思って」  今だって、引き受けるとも何とも言ってないんだけどな。 「私は、言葉遣いぐらいで人を判断しないの。まあ、それを人に押し付ける気はないけど。でも、先生が、どうしても嫌だって言うんなら、私の家庭教師は難しいかもしれないね」 「いや、言葉遣いは気にしてないんだ。むしろ、敬語なんて使われたほうが、肩がこっちゃうから」 「だったら問題ないじゃない」 「うん……」  僕は、再度あいまいな返事をした。 「何だかはっきりしないみたいね」  僕は、これ以上ごまかすのは無理だと思って、彼女に訊いてみた。 「西森さん」 「何?」 「教えてほしいのって、数学とか英語じゃなくて、その……『さよなら』なの?」 「そう。駅の広告には、特に科目は書いてなかったはずだけど。いけなかった?」 「いや、いけないとか、そういうんじゃなくて。んー、そんなこと言われると思ってもみなかったから」  当然だろ。家庭教師の教える科目に『さよなら』なんて科目はない。学校の授業にだって『さよなら』なんて科目はないはずだ。時間割に『さよなら』が入ってたら、かなりおしゃれだとは思うけど。 「ねえ、西森さん」 「ちょっと待って」 「何?」 「私のことを『西森さん』て呼ぶのはやめて。必要だから会う人に、そういう呼ばれ方するのは好きじゃないの」  必要だから会う人か。僕は、彼女にとって必要な人間らしい。人に必要にされるってのは嬉しいもんだ。しかし、ついさっき出逢ったばかりの僕を、彼女は、本当に必要としてるんだろうか? 「じゃあ、何て呼べばいいの?」 「カナでいい」 「カナ、……分かった」  僕は、しばらく考えてから答えた。 「それで?」  カナが、僕に続きを促した。 「どうして僕を家庭教師に選んだの?」 「理由が必要?」 「だって、他に家庭教師の広告は、掲示板にたくさん貼ってあったはずだし、もちろん僕なんかより数段上のレベルの大学のやつらのもね。それなのに西森さんは、……ああ、カナは、僕を選んだわけでしょ。何か理由があるのかなと思って」  彼女のことをカナって呼ぶのには、何だか少し抵抗があるな。僕には、彼女を堂々とそう呼べるだけの時間がまだまだ足りなかった。 「じゃあ、先生が言う『僕なんかより数段上のレベルの大学の人たち』は、私に『さよなら』を教えてくれるの?」  もっともな話だ。『さよなら』を教えるのに大学の偏差値なんて関係ない。じゃあ、誰でもよかったってことなのか? 「でも、誰でもいいってわけじゃなかったのよ。先生じゃなきゃだめなのよ。だから、あの日、あの駅で、あの掲示板を見た瞬間、すぐに電話したの」  彼女は、僕が言おうとしていることを、先回りしてそう答えた。本当に頭のいい娘なんだな。勉強ができるだけじゃなくて、本当の意味で頭のいい娘。僕は、そう思った。 「直感みたいなものかな。信じないかもしれないけど」 「信じなくもないけど……」  直感かぁ。そう言われると、何も言えなくなる。僕は、変な娘に引っ掛かっちゃったのかな。何か理由をつけて断ったほうがいいのかもしれない。僕は、少しそう思い始めていた。 「それから、嫌な女って思われるかもしれないけど、先生には見せとくね」  彼女は、最近の模試の結果を差しだした。それを見た途端、僕は呆気にとられた。総合成績で全国六番。科目によっては、全国一番のものもある。自信を持って言える。僕が彼女に教えられる科目は何もない。ここまですごい成績を見せられると、自己嫌悪に陥るどころか、むしろ清々しい気持ちになる。数学や英語の家庭教師なんて必要ないわけだ。 「すごいね」 「そうでもないよ」 「いや、普通に考えるとすごいって、この成績。それで数学や英語じゃなくて『さよなら』なんだ」 「それでってわけでもないんだけどね」  そのとき、彼女は、どことなく淋しそうな表情をしたように思えた。僕の見間違いか? 「ねえ」 「うん?」 「どうして『さよなら』を教わりたいの?」 「それも理由が必要?」 「できればね」  彼女はしばらく黙り込んだ後で、不意に立ちあがり、窓辺へ行った。出窓に腰掛け、ほんの少しだけ窓を開けた。何だろう? たちまち肌寒い外気が部屋に入り込んでくる。彼女は、おもむろにポケットからタバコを取り出し火を点けた。窓を開けたのには、理由があったんだ。深く吸い込み、ゆっくりと吐き出す。 「驚かないんだ」 「僕も、高校のときから吸ってたからね。僕もいい?」 「どうぞ」  僕は、立ち上がり窓辺へ行くと、自分のタバコに火を点けた。そのときになって気付いたことがある。僕と彼女は、同じ銘柄のタバコを吸っていたんだ。これは僕の持論だけど、世の中には偶然なんてなくて、偶然を装った必然があるだけ。これもその一つだな。彼女が僕を家庭教師に選んだことにも、何かしら運命的なものがあるのかもしれない。なんてそれだけで考えるのは短絡的かな。 「虚構の構築が続けられていく毎日の中で、それを唯一破壊できるのが『さよなら』なのかもしれないって思ったから」  彼女は、少し淋しげにさっきの僕の問いに答えた。彼女の発した言葉の意味は、凡庸な僕には難解過ぎて半分も理解できなかったけど、その憂いを含んだ横顔を見た瞬間、僕の心はざわつきはじめていた。僕は、まったく同じ横顔を三年前に一度見ていたんだ。それは、もう二度と会うことのできないあいつの横顔だった。救ってほしいと言っている横顔だった。 「何からさよならしたいの?」 「分からない」  「分からない」か。きっと、そんな何かからなんていうはっきりとしたものじゃないんだろうな。それが分かってるなら、人に教えてもらう必要なんてないのかもしれないから。 「それで、先生は、結局私に『さよなら』を教えてくれるの?」  僕は、しばらく考えたあとで言った。 「分かった。やってみるよ。どこまでできるかわからないけど、頑張ってみる」  断ろうと思い始めていた思いにブレーキをかけたのは、明らかにあいつと同じ憂いを含んだ横顔だった。それだけ似ていたんだ。あいつに。本当にそっくりだった。その横顔を見た瞬間から、僕は、自分に一生懸命言い聞かせていた。この娘に『さよなら』を教えることができるのは、この世界で僕一人だけなんだと。絶対に教えなくちゃいけないんだと。全然論理的でも何でもない根拠のないその思いに呼応するように、僕の心の中を、痛みを伴ったざわつきが波紋のように広がっていった。僕の心の海いっぱいに。
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