傷ついた黒鳥

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傷ついた黒鳥

「女の幸せは、条件の良い男性と結婚して家庭を作ること。」 そう、子供の頃から両親に言い続けられていた。 自分でも、それが一番幸せな事なのだと・・・・そう信じていられたのは、自分が平凡で取り柄の無い、ありふれた人間だと思っていたから。 同時に、そんな自分にとって申し分無い環境で育っている事も、自覚していた。 幼稚園から大学まで、エスカレート式のお嬢様学校の学校に通い、自宅は横浜の中でも富裕層の多いエリアにあった。 「裕福」と一口に言っても、やはり、差はある。 同級生の中には、自分の家の裕福さや家柄の良さを誇る子も居た。 私の家は、たまたま、先祖代々の土地と財産があっただけで、父は名の知れた会社勤めのサラリーマン。 生活そのものは、それほど贅沢なものでは無かった。 そんな私の女友達は、やっぱり、私と同程度の経済状態で、似たタイプの女子生徒が多かった。 つまり、生まれ持った華やかさというものはそれほどなく、学芸会や体育祭でそれほど活躍する事もなく、成績も中くらい。 どちらかというと、大人しくて真面目で目立たないタイプ・・という事。 無邪気な時期を過ぎ年頃になると、両親からは「女の幸せ」を手に入れる為には、処女でいる事が大事であるとも、言い聞かされるようになった。 通学の途中でも、決して隙を見せないよう言われていたし、男子との交際も禁止されていた。 校則も、年齢に比例して厳しくなっていた。 それについて、表だって反抗する事は無かったけれど、心の底では思春期ならではの反発心がくすぶっていたのは確か。 他の女友達も、似たような状況を抱えていた。 とは言っても、小説や漫画、映画を観ていると自然と「そういう情報」は入ってくる。 「二次元」の世界の主人公に疑似恋愛に落ちて、友達同士の交換日記や手紙に、その恋心を熱く綴り合う事に、夢中になった。 まだ見ぬその世界は甘美で、空想するだけで胸がときめき、頭の中には花畑が広がり、そうする事で脳内を流れる「快感物質」にうっとりとしていた。 親やシスターに知られないよう、慎重に管理されたツールは、みんなで日にちを決めて、まとめて燃やした。 そんな儀式めいた事ですら、秘密にすればするほど、制服の胸はときめきで弾けそうだった。 「両親が不在」という情報に、その女友達の家で、みんなで「お泊まり会」をするときには、朝まで『恋』について語り合った。 どんな風に告白されたい・・・とか、 どんな風に、キスされたい・・・とか。 他校の男子生徒から申し込まれた子も居たけれど、その当時は、誰も生々しい恋を経験した事などなかった。 だからこそ、あんなにも、おしゃべりが楽しくて、夢見心地でいられたのだ。 私たちは、永遠の友情をマリア様の前で誓い合った。 何でも話し合える友達だった。 何でも話せるはずだった。 そんな大切な友に、話せない秘密を持つことになるなんて・・・・こんな平凡な女子生徒の私が。 私が、子供の頃から通っていたバレエ教室は、とあるバレエ団の関連事業として運営されていた。 バレエ教室の方は、世界的に有名なダンサーも輩出しているバレエ団とは違い、のんびりとしていた。 それでも、「才能アリ」と認められた子が、年に数人、バレエ団に引き抜かれていく事があった。 両親の言われるままに習い初めて、「それなりに楽しい習い事」という認識で習い続けていただけの私に、勿論、声がかかる事は無かった。 3歳の時からバレエ、5歳からはピアノ。 中学に入学した時から、絵画教室に通わせて貰っていた。 どれも、「趣味」の範疇だったけれど、私が一番好きだったのはバレエだった。 踊っている時の開放感と、レッスンを終えた時の爽快感が、とても好きだった。 一緒に通う学友は、年月と共に減り、大学生になってもバレエを続けているのは、親友の花澄だけになった。 花澄は、家も近い事もあって、幼稚園の時からの友人の中でも、一番気が合う友人だった。 花澄は、背が私よりも少し低くて、失礼ながら、バレエをするには少しぽっちゃりとしていた。 性格は、基本的におおらかだったけれど、私よりは物事をハッキリと言うタイプ。 両親に叱られたり、同級生とのもめ事で気落ちしている私を、いつも明るく励ましてくれる花澄は、私の大事な親友だった。 大学生になっても、まだバレエを続けたいという私に、快く付き合ってくれた。 才能のある子は、とっくに母体のバレエ団か海外に出てしまっている。 教室における私たちの立場も微妙で、先生からは「社会人のクラスに移っても良いのよ」とも言われた。 伸び盛りで、弾けるようなエネルギーを放つ15歳以上のクラスの中で踊る私たち二人の気持ちを考えてくれたのだと思うけれど、私は、社会人のクラスに入るのは躊躇われた。 社会人のクラスを覗いたときに、感じた「何か」が、躊躇させたのだ。 それが何なのかはわからなかったのだけれど・・・ エスカレーター式で、短大部に進学したのは、同級生の半分くらい。 勿論、花澄も一緒だ。 授業に戸惑う事はあっても、ほとんどが顔見知りの風景は、それまでと変わらない空気を醸し出していた。 バレエ教室も、そんな感じで続いていくのだと思っていた。 緑の濃さを感じるようになった、4月の中旬の事だった。 メインでレッスンしてくれる、京子先生から 「バレエダンサーの林田小夜子さんの事は、知っているでしょう?」 と話しかけられたのは、レッスンの終わった後、花澄と並んで汗を拭きながら水分補給をしている時だった。 「勿論・・・知ってます。」 花澄が答えて、私も、つられるようにして、うなづいたけれど・・・ 本当は、 「知っている」 レベルでは無かった。 林田さんは、ローザンヌ(若手バレエダンサーの登竜門とも言われるコンテスト)で入賞して、海外のバレエ団に移籍した有名ダンサー。 年齢は、私たちより、2歳年上。 ローザンヌで入賞する前には、バレエ団の発表会で、一緒になった事が何度かある。 あちらは、私たちの事は、全く覚えていないと思うけれど・・・・・ とにかく、華麗で情熱的な踊りを得意としていて、そういう役柄の似合う人だった。 まだ、バレエ団に居た15歳の時に、バレエ団主催の発表会で「白鳥の湖」の黒鳥を踊ったのを見た時、鳥肌が立ったのを覚えている。 京子先生にお願いして、発表会のビデオを頂いて、何度も見直した。 勿論、テクニックも申し分なく、私など足下にも及ばない程で、それに何より同じ年とはとうてい思えない、妖艶な黒鳥だった。 ほっそらとした体に、しなやかな肢体だけならば、私たちとさほど差は無い。 その全身にまとわりつくような雰囲気、目線、指先。 どうしたら、あんな踊りが出来るのだろう・・・・・・ 繰り返し、ビデオ画像を見ながら私は、彼女の黒鳥に魅入られていた。 それから、ローザンヌに出場したときのビデオも頂けて、彼女の演技に見惚れた。 何度も何度も繰り返し見たそのビデオは、今も大切に保管してあった。 ローザンヌに入賞して、海外のバレエ団に旅立った後も、風の噂で彼女の活躍を耳にする度、自分の事のように嬉しかった。 私は、すっかり彼女のファンになっていたのだ。 彼女は、きっと世界的に有名なバレエダンサーになる・・・海外のバレエ団でプリンシバル(主役)となり、日本に凱旋帰国する事を楽しみにしていたのだけれど。 半年前だった。 怪我をして、日本に帰国していると聞いて驚いた。 「もう、再起不能かもよ」 と、囁く人も居た。 私なんかの、「習い事バレエ」などではない、「本物(プロ)のバレエ」を目指していた彼女。 その彼女が、踊れなくなるなんて・・・・・・・・・・。 人生が終わってしまったような気持ちになっていたとしても、おかしくない。 そう思うと、気の毒でたまらなかった。 「その林田さんが、怪我をして帰国している事は知っているでしょう?手術は一応成功して、今、リハビリ中なの。それで、バレエ団に戻る前に、この教室に通う事になりました。」 そこで、有吉先生は言葉を切った。 私と花澄は、顔を見合わせた。 林田さんが、同じ教室でレッスンを? それから、京子先生は、少し言いづらそうに話しを続けた。 「実はね、怪我の事で、気持ちがかなり荒れてるの。年齢差のある相手に対してはそんな事は無いと思うけど、年齢の近い貴方たちには、もしかしたら攻撃的な態度を取るかもしれません。もしも、そういう事があったら教えて下さい。それから、あまり気にしないように。出来るだけ、私の方も気をつけるようにしますから」 攻撃的? その言葉の意味は、次のレッスンの時に知ることになった。
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