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そして私は、きっぱりと、バレエを辞めた。 「せめて、秋の発表会が終わってからにしない?今まで続けてきたんだし・・踊りたいものがあれば、融通するわよ」 と、京子先生に引き留められたけれど、私は断った。 バレエを始めたきっかけは、両親と観に行ったバレエ「白鳥の湖」の舞台だった。 いつかは、白鳥~主役のオデットを踊るのが、ずっと私の夢だった。 でももう、私には、「白鳥」は踊れない・・・・・身も心もふさわしくないから・・・・・・・・・・。 お見合いもした。 以前、母が勧めてくれたお相手だ。 蔵前さんという男性を、最初は、信用出来ないとどこかで思っていた。 リンダに、あっさりと誘惑されていた男達の存在が、私のトラウマになっていたのだ。そして、自分をどこかで嫌悪もしていた。 平凡で取り柄のない私が、リンダのような女性と、渡り合えるはずなどないって、どうしてもっと早く気づかなかったのだろう・・・・・・・ リンダに対する嫌悪感は、日を追うごとに薄れていくけれど、自己嫌悪はつのるばかりだった。 蔵前さんは、どちらかというと無口な人で、甘い台詞を口にする事は無かったけれど、私の話をよく聞いてくれて、何よりも笑顔が優しかった。 私の心は、すこしづつ、ほぐれていった。 蔵前さんが信用に足る人かどうかについての結論は、人生を終えるまではわからない。 だけど、私は心に決めた。 この人に、ついていこうと。 幼い頃から、両親に言われ続けた事に抗ってみたものの、結果、両親の言うことが「真実」に違いない。 大学2年の春に、私は結婚した。 大学は中退。 そして、1年後には、娘の鈴音を授かった。 専業主婦として、一児の母として、日々忙しく時は流れていった。 少し年の離れた二人目の娘、智花を、実家の近くの病院で出産した。 安産だった。 鈴音は、それほど手のかかる子供では無かったけれど、智香に授乳をする以外は、いくらでも寝られて、食事も出てくる、行き届いた病院生活に、少しほっとしていた。 時折、廊下を通じて、元気な赤ちゃんの泣き声が聞こえる以外は、静かな午後。 花澄が、お見舞いに来てくれた。 花澄は、大学を卒業して、2年ほどしてから結婚。私と同じ、二児の母だ。 「遙、出産おめでとう」 差し入れの、お菓子の詰め合わせを手渡してくれた花澄は、一人だった。 「花澄・・・ありがとう。子供はどうしたの?」 「お母さんに、預けてきたわ。」 一人目の出産の後、体型が戻らなくて、また一回りふくよかになった花澄の頬には、子供の頃と変わらないえくぼがまだあった。 幸せそうだ。 お互い忙しくて、たまに電話をしても、子供に騒がれて会話もままならず・・・ゆっくり、花澄と向き合うのは、本当に久しぶりだった。 家族や健康といった、当たり障りの無い会話をしながら、気心の知れた幼なじみとのひとときにほっとしていると、ふと、花澄が何か言いかけて、話を止めた。 「なに?」 「うん・・・・・・ううん、何でも無い」 「何でも無いって顔じゃ無いわよ。なぁに?どうしたの?」 花澄は、ためらうように自分の髪の毛をなでつけるような仕草をしながら、 「バレエ教室の、雅ちゃんて覚えてる?」 と言った。 子供の頃から、緊張感が強くなると、花澄はよくそんな仕草をする。 なんだか、嫌な予感がした。 雅ちゃんは、絵画教室でもバレエ教室でも、私に懐いてくれていた。 その頃の、かわいらしい姿が、脳裏にはっきりと蘇った。 「リンダが・・・・・・・・ね、その・・・・雅ちゃんに『悪戯』をしてたって、雅ちゃんの両親がバレエ教室に怒鳴り込んできて、ちょっとした騒ぎになったのよ」 「えええ??」 想像をはるかに超えた情報に、私は、心底驚いた。 「それは、いつの話?最近?」 「ううん、もう何年か前よ。雅ちゃんが、中学生になった頃。電話でする話でもないから、今まで話す機会が無かったんだけど」 リンダ・・・・・・・・・・貴女って人は・・・・・・・・! リンダに対する怒りと、雅ちゃんがどんなに傷ついただろうと、痛ましく思う気持ちに、私は、シーツを握りしめた。 「でもね、事情を問い詰められた二人が、なんて言ったと思う?『私たちは、愛し合ってます』ですって」 あ・・・・・・・・・・・・・・・・ 私は、一瞬、呼吸をする事を忘れるくらいの衝撃を受けていた。 愛し合っている? 中学生になったばかりの雅ちゃんが、どんな愛を語るのだろう。 だけど私は、知っていた。 バレエ教室では、子供らしからぬ見事な踊りを見せていた雅ちゃんが、両親から過剰のプレッシャーを受けていて、絵画教室では、いつも、黒く塗りつぶすような絵を描き続けていた事を。 いつか、心理学の本で、黒いおどろおどろしい絵を描く心理について読んだとき、雅ちゃんの事が脳裏をよぎった事を。 その雅ちゃんが、リンダを、愛していると・・・・・・・・ リンダも、雅ちゃんを、愛してる? 花澄が、何か言っている声が、まるで遠くで小さく聞こえるほどに、私は過去の自分へと強く吸い寄せられていた。 リンダと、愛し合ったあの日々を。 だけど、リンダは、一度だって私を愛しているだなんて言わなかった。 言ってくれなかった。 なのに・・・・・・・・・・・ 「・・・・・・・それで、二人は?」 私は、やっと、言葉を絞り出すようにして言った。 「遙、大丈夫?真っ青よ。ナースコールしようか?」 花澄が、あわてたように立ち上がった。 「大丈夫・・・・大丈夫よ。それより、二人は?どうしたの?」 花澄は、私の背中を撫でながら答えた。 「リンダは、バレエ教室を解雇。雅ちゃんもバレエを辞めたわ。ローザンヌも、期待されていたのに・・・・・・・・」 「・・・それから?」 「さぁ・・・・・・・私が知っているのは、そこまで。」 「ちょっと・・・・・・・横になるわね」 私は、そう言い、体をベッドに横たえた。 なんて事! 私が、順調な結婚生活を送っている間に、雅ちゃんは・・リンダは・・・・ 「ごめん、花澄。ちょっと、一人にして・・」 「わかったわ。出産後の貴女に、こんな話は余計だったわね。ショックを与えて、ごめんなさい。」 「いいのよ・・・・・・」 「また来るわ。お大事に」 花澄が、病室を出て行くと、私は、体をうつ伏せに向きを変えると、枕に顔を押しつけて、嗚咽した。 涙が溢れて止まらない。 この感情は何? 心の奥底で、ずっとくすぶっていた感情と、衝撃と、雅ちゃんに帯する罪悪感とが、どす黒い渦になり体の中を巡っていく。 自分の体が、呪わしかった。 リンダとあれほど何度も愛し合った、この体が・・・・・ 夫とは数え切れないほど、愛し合ったというのに、リンダとの愛の日々を消し去る事など出来なかった事を、改めて思い知った。 あの、すべてが解き放たれたような開放感と、体が溶けてしまうような快感と、充足感が、私の体から抜け去る事など無かったのだ。 そのリンダの心を、私は何も理解していなかった。 リンダは、「手負いの白鳥」だったのだ。 だから、「黒鳥」になるしかなかった。 将来を嘱望され、海外のバレエ団で輝かしい未来を夢見ていた彼女が、その夢を絶たれたその絶望を、私は何も理解していなかった。 だから、ぬくぬくとした人生を歩んでいる私が、妬ましかったのだ。 妬ましさと愛おしさの狭間で、リンダは苦しみ、もがいていた。 それに気づきもしなかった、私の『罪』。 雅ちゃんの苦しみに、手を差し伸べなかった、私の『罪』。 雅ちゃんの心の闇と、リンダの心の闇が、惹かれ合ったのだ。 他の人が、どう思おうと・・・・・・・・・・・・・ 二人の愛は、『真実』だったに違いない。 私が、手にいれられなかった、深い愛の『真実』。 私は、シーツの中で身もだえながら、泣いた。 涙で、私の罪が消える事は無いとわかっているけれど、私はただ・・・・・ 泣くことしか出来ない。 そして、この『罪』を抱え、生きる事しか。 廊下の奥から、泣き声が響く。 元気な、赤ん坊の泣き声が・・・・・・・・・・・・・・
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