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再会
次のレッスンの日が、待ち遠しくもあり不安でもあった。
授業が終わり、一旦自宅に戻って鞄を置くと、レッスン用具一式を入れたショルダーバッグを持って、花澄の家に向かう。
電車だとすぐなのだけれど、駅までの距離がちょっと辛いので、花澄のお母さんの車で送迎をして貰っている。
車だと、30分とかからない。
車の中で、花澄と、互いの髪の毛をシニヨンに結う。
本当は、空腹の方がよく動けるのだけれど、レッスンが終わるまで空腹に耐えられない私たちは、母の作ってくれた塩むすびを食べてしまう。
花澄は、1個では、物足らなそうだけれど・・・・
白い3階建ての建物で、側面の壁に、大きなバレリーナの絵が描かれている。
中学生と高校生の女の子達の、賑やかなおしゃべりが響くロッカールーム。
一番奥が、私と花澄のロッカーだ。
花澄と、私、そして私の隣の空いていたロッカーの名前の部分に『林田』と書かれている以外は、いつもと変わりの無い風景と賑わい。
「今日、来るのかしら?」
花澄が、着替えながら言った。
「そうなんじゃない?」
私はつとめて平静を装っていたけれど、心の中は穏やかではなかった。
なんでだろう・・・・心の中のざわめきが、一段と大きくなる・・・
あの、妖艶であでやかな「黒鳥」を踊った人に会えると思うと、落ち着かない気持ちになるのだ。
発表会の練習や舞台で、何度か会ってはいたけれど、林田さんは私の事など覚えていないに違いない。
私だって、林田さんがどんな性格なのか、どんな人なのかも、よく知らない。
仲良くなれるかしら?
着替えを済ませて、花澄とロッカールームを出ると、一人の女性が立っていた。
リバティープリントのワンピースに、カーデガンを羽織っていて、髪型はシニヨン。
広い額に、少し吊り気味の目で、鼻筋が通ったハッキリとした目鼻立ち。
意志の強そうな、きゅっと結ばれた唇。
最後に舞台で見た時よりも、背が伸びて痩せたせいか、きつい面差しになっていたけれど、間違い無い。
「林田さん?」
林田さんは、声をかけた私を見ると、少し皮肉っぽい笑みを浮かべた。
「まだ、教室に通っていたの?『遥ちゃん』」
思いがけず、私の名前を覚えていた事の嬉しさよりも、その言葉に潜んでいる棘が、私の心に刺さった。
教室では、名前に「ちゃん」を付けて呼ばれる。
バレエ団では、「ちゃん」は付かない。
そして、「まだ」という言葉・・・・・・・・・・
「私も、まだ、通ってるよ。私の事、覚えてる?」
そんな棘を知ってか知らずか、花澄が声をかける。
林田さんは、少し首をかしげて
「・・・・その体型、なんとなく覚えがあるけど、名前忘れちゃったわ。誰だっけ?」
私よりは打たれ強い花澄は、苦笑しながらも、
「花澄よ」
と、答えた。
林田さんは、花澄から視線を外すと
「私の、ロッカーは、どこ?」
と、私に視線を戻して言った。
「あ、こっち。私が、案内するから、花澄、先にレッスン場に行ってて」
花澄と別れて、林田さんと、ほとんど誰も居なくなったロッカールームへ入る。
「ここよ、小夜子ちゃんのロッカー」
「小夜子ちゃんて呼ぶの、辞めてくれない?あっちでは、『リンダ』って呼ばれてたからそう呼んで。小夜子なんて、いかにも日本っぽい名前で嫌いなの。しかも、『ちゃん』付けとか気持ち悪い。今、何歳なの?」
つっけんどんに言われた事に、少しカチンときたけれど、
「林田で、リンダ。素敵な呼び名ね。」
と、答えた私の目の前で、リンダが何の躊躇いもなく、するりとワンピースを脱ぎ捨て、アンダーウェアだけの姿になった。
異国の満開の野原のようなワンピースの上に立つその姿に、一瞬、私の目は釘付けになり、次の瞬間には、見てはいけないものを見たような気になり、目を反らしていた。
「どうしたの?私の体が珍しい?」
素早く、レオタードを身につけながらリンダが言った。
「あ・・・すごく痩せたなって思って。」
「あっちでは、このくらいをキープしないとやっていけないのよ。さっきの、花澄?あんな体型で、よくバレエ続けてるわね。信じられないわ」
リンダの言葉の端々が、薄い刃のようだ。
誰にも心を許さない・・・誰も近づけない・・・そんな雰囲気の奥底に、張り詰めた神経のようなものを感じて、私は、
「先に、行くね」
とだけ言ってその場を離れた。
返事は無かった。
レッスン場に向かいながら、さっき『見てしまった』ものを、脳が反芻する。
女子校だし、バレエを長年続けてきたから、今まで、女子の着替えくらいで
こんなに動揺する事なんてなかった。
ほっそらとしていて、それでいて筋肉質な体が、男子のように見えたからだろうか?
ううん・・・・同級生には、中性的な雰囲気の子もいたけれど、その子達とも違う。
そんな体なのに、どこか艶めかしいものを感じてしまった・・・・・
それが、私に、見てはいけないものを『見てしまった』気持ちにさせたてしまったのだ。
その気持ちを見透かされているようで、リンダとレッスンを受ける事が怖くなっていた。
京子先生は、「仲良くね」って言っていたけれど・・・胸の奥がつかえているみたいに苦しくて、仲良くする事なんて出来ない気がする・・・。
レッスン場に入ると、すでに、それぞれ、ストレッチを始めていた。
京子先生に、林田さんが来たことと、今着替えていること、そして
「リンダ」と呼ばれたいと言っている事を伝えた。
京子先生は、「リンダ」と呼ばれていた事は、知っていたようだった。
私がストレッチを始めてすぐに、リンダが、レッスン場に入って来た。
黒のレオタードに、レッグウォーマー。
手には、ドリンクボトルとタオルを持っている。
レオタードにしても、レッグウォーマーにしても、私たちが普段身につけている
ものとは、違うものだという事がはっきりとわかる。
リンダの歩き方、その雰囲気も。
ストレッチをしていた生徒達の間に、密やかだけれどざわめきが広がるのが
わかる。
京子先生が、軽く手を叩いて注目を促した。
「今日から、一緒にレッスンする、林田小夜子さんです。元々は、うちのバレエ団に居たので、知っている人も居るかもしれませんが・・・怪我をして、手術をしているので、みんなと全て同じレッスン内容ではありません。
海外のバレエ学校では、『リンダ』と呼ばれていたので、そう呼んで欲しいそうです。さ、リンダ、挨拶して」
「リンダです。宜しく」
リンダは短くそう言うと、スタスタと私の横を歩いて行くと、一番後ろの列の空いている場所に座り、早々にストレッチを始めた。
そのストレッチのやり方も、私たちとは明らかにレベルの違うやり方で、その体のしなりは、周囲の誰もが声をかけるのを躊躇わせるような、近寄りがたいオーラを発していた。
リンダの念入りなストレッチは、私たちがバーレッスンに入っても続き、私たちがフロアに移動すると、バーレッスンに入るという感じで、「一緒にレッスンを受けている」とは言いがかった。
京子先生も、リンダに何か指導をする事も無かったし、誰かが話しかける事も無かった。
だけど、ふとした拍子に、みんなの視線がリンダに吸い寄せられる。
柔軟も、ポジショニングも、何もかもが私たちとはレベルが違う事は、誰もが感じる事で、その動きのしなやかさや華やかさは、まるで、そこだけ、スポットライトの明かりが当たっているかのようだった。
その動きを見ている限りは、怪我のダメージなど感じられない。
ただ、体を動かす事に集中しているように見えた。
休憩時間に、花澄が、ちょんちょんと私をつついて、少し離れた場所で一人で汗を拭いているリンダを目で指し示した。
「話しかけてみる?」
「何て?」
「うーん・・・」
怪我のリハビリ中の人に、「調子はどう?」とか「足は痛くない?」とも聞きづらい。
それも、再起不能の噂がある相手に。
学校も違うから、共通の話題も思い浮かばない。
結局、声をかけられないまま、レッスンが終わった。
ロッカールームで着替える時は、あえて、リンダの方に目をやらないように
着替えた。
「リンダ、家は何処?」
花澄が、やっと思いついただろう言葉をかけた。
「H町」
「割と近くね。家の人が、迎えに来てくれるの?」
「私、一人暮らしなの。ここまでは、自転車。リハビリを兼ねてね」
「そ・・そう・・気をつけてね」
「あっちに比べたら、日本は気が抜けるほど安全だから、心配いらないわ」
「海外って、そんなに危ないの?」
会話をしている二人を、交互に目をやっていた私は、少しハラハラしていた。
「あなたなら、すぐにさらわれるわよ、きっと」
「そうなの?怖い。」
「いかにも、のほほんとした日本人って事よ。」
リンダは、そう言うと、着替えを終えてロッカーを閉めた。
花澄が、何か言い返そうとして、やめた。
リンダが、「お先に」と言って立ち去ると、私たちは目を合わせてため息をついた。
「やっぱり、仲良くなれそうも無いわね」
帰宅して、自分の部屋で、あの「黒鳥」のビデオを再生してみた。
白鳥のオデットと恋に落ち、永久の愛を誓いながら、黒鳥のオディールに惹かれて、
その手を取ってしまう王子。
リンダの「黒鳥」は、自信に満ちあふれ、その目は情熱的に輝いたかと思うと
妖艶な視線を王子に送る。
指先にまで行き届いた神経。
そして、圧倒的な技巧(テクニック)。
あの公演での、リンダは、圧倒的だった。
今、ビデオで見ているだけでも、鳥肌が立ちそうなほど・・・・・・・・・
私は、映像の流れているテレビ画面の端を、指でなぞった。
今日ね、会えたのね。
貴女に・・・・・・・・・・
「黒鳥」の華麗な衣装に身を包んだリンダの姿。
その衣装の下を想像し、あわてて、衣装でその体に纏わせる。
初めて交わした会話は、どこかとげとげしかったけれど、嫌いにはならなかった。
今日のレッスンで、真摯にバレエに打ち込んでいる姿に、私はちょっとした
感動さえ覚えていた。
仲良くなれたら良いのに・・・
どうしたら、心を開いてくれるかしら?
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