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オディール登場
午後からの絵画教室は、いつものようにのんびりとした空気が漂っていた。
講師の名香先生は、50歳にも60歳にも見える、白髪の、いつもニコニコとした優しい男性だ。
先生の基本は、「好きなものを、のびのび描く」事なので、題材は自由。
あまりにのんびりしているので、「子供の美術の成績を上げたい」という教育熱心な父兄には不人気だ。
バレエを踊った時の爽快感も素敵だけれど、白いキャンパスに自分の世界を描いていくのも心地いい。
私は中学生までは水彩画を描いていたけれど、高校からは油絵を描いている。
匂いを両親が嫌うので、道具や作品は、教室に置かせてもらっている。
「遙ちゃん!」
スケッチブックを広げて、絵を描いていいた雅ちゃんが、私を見ると、椅子から滑り降りるようにして降りて、駆け寄ってきた。
「こんにちは。今日は、何を書いているの?」
「ん・・・こんな感じの、私の夢・・」
雅ちゃんは、小声で、短く説明をした。
その愛くるしい外見とは裏腹に、雅ちゃんの描く絵は、暗黒色に塗りつぶされたような、抽象的な絵ばかりだ。
並んで絵を描きながら、ぽつりぽつりとする会話から、雅ちゃんはかなりの優等生。
勉強も出来て、スポーツも出来て、ピアノも弾けて・・・・そして、毎日が習い事で埋まっている。
両親の教育熱心さやしつけの厳しさや、愛情の薄さが、会話から読み取れる。
そんな雅ちゃんに、シンパシーを感じる事が多いから、余計に、雅ちゃんが可愛く、そんな暗い絵ばかりを描いてしまう事が心配でもあった。
本も好きで、感性も豊かな子なのに、両親に甘える事も出来ず、友達もあまり居ない雅ちゃん。
「愛」というものに、飢えている。
だけど、私が、雅ちゃんにしてあげられる事を、思い浮かべる事が出来ない。
ただ、こうして、並んで絵を描き、バレエ教室で会ったときに、少し話をするくらいしか・・・・・・・・・・・・・・
帰宅して、洋服を着替えて、一応、薄いメイクをする。
部屋の片付けは、大丈夫。
確認をしていると、インターホンが鳴った。
人を、財産や社会的地位とか利害関係でしか計れない両親を、リンダは、あっという間に、虜にしてしまった。
バレエダンサーらしい、爽やかですっきりとした服装で、年齢相応の丁寧な挨拶をしたあとに、
「お口にあうと、良いのですけれど」
と、母に手渡した手土産に、母は、驚きと喜びを隠しきれなかった。
自由が丘で、2時間並んでも買えるかどうかわからない、有名パティシエの菓子だったのだ。
応接室で、威圧的雰囲気の父を前に、全く臆することなく、父親が財務省の事務次官をしている事や、母親が生け花の家元の娘である事を話しているリンダは、「忙しい両親ですけれど、私の好きな事をさせて貰えて幸せなんです。遙さんも、そうですよね」と、にっこりと、大輪の百合の花のように微笑んだ。
両親に対する、「そつない態度」に、どちらかというと世間知らずの私は、すっかり驚いてしまって、何も言うことが出来ないくらいだった。
バレエ団との合同練習でも、バレエ教室でも、発表会とも違うリンダの変わり身は、あまりにも見事だったからだ。
そのリンダが、私の部屋に入ると、がらりとその雰囲気を変えた。
部屋を見渡すと、
「想像通りね。いかにも・・・っていう感じの、インテリア。」
と、言いながら、二人がけのソファーに腰を下ろした。
「どういう意味?」
私は、トレイに乗せた飲み物を、ローテーブルの上に置くと、ドアを閉めた。
「『遙ちゃんの、おへや』・・・って感じ」
「それは、褒めてるの、それとも・・・」
言いかけた私の手を、ぐいっと、リンダが引っ張って、自分の隣に座らせた。
リンダは、扉の向こうを意識するように視線を走らせると、私に小声で耳打ちした。
「ね、ジュンから、電話番号を教えられたでしょ」
私は、頷いた。
「あ~でも、花澄ちゃんも、ジュン君の事を、ずいぶん、気に入ったみたいよ。どうする?『親友』でしょ?譲ってあげる?」
ささやくようなリンダの声が、耳元をくすぐる。
「譲るも、譲らないも、ジュン君は『もの』じゃないし、ジュン君だって私に気持ちがあるって決まったわけじゃ・・」
「駄目よ、そんなんじゃ。そんな気持ちで、ジュンの気持ちを射止められると思ってるの?」
「待って、いつ、私が、ジュン君の事好きって・・」
そう言いかけながらも、頬が火照ってくるのがわかる。
昨夜も、寝る前に、ジュン君との会話を何度も反芻して、ドキドキしながら寝た事をリンダには知られたくない。
「ほらね。その顔で、違うって言うの?というか、私には、ずっと前からわかってたけど。でも、いいことだと思うわよ。素敵な事じゃない。恋するって事は」
リンダは、何か悪巧みをしているような表情を浮かべていたけれど、その表情が、何故だか、とても魅惑的に思えて仕方が無かった。
それに、なんだかとても悔しかった。
「私の気持ちなんて、どうして貴女にわかるの?」
「だって、『だだ漏れ』なのよ。思ってる事、みーんな、顔に出てる。わかりやすいのよ、貴女みたいな人。部屋を見てもわかるし、あ、ほら、本棚も。ね、知ってる?本棚を見るのって、その持ち主の頭の中を見るのと同じなのよ」
リンダは、立ち上がり、本棚に歩み寄った。
「三島由紀夫とか、谷崎潤一郎とか・・・耽美主義ね。画集も多い、それも印象派。とにかく、きれいなものが大好きなのね、遙は。あとは・・・バレエのビデオ。あ、懐かしいのがあるわ。私が、『白鳥の湖』で、黒鳥(オディール)を踊った時の。ラベルの色が、他のとは違う。何回も見た・・・?」
ビデオを片手に、リンダが振り返った。
私は、自分が丸裸にされたかのように、顔を真っ赤に染めていた。
どうして・・・・どうして、そんなに私の事がわかるの?
「あ、誤解しないで。私は、仲良くしたいのよ、遙と。ね、私たち、とても仲良くなれると思うの。性格は正反対だけど、その方が、刺激的じゃない?花澄ちゃんじゃ、いつまでたっても、おままごとのお友達ごっこですもの。」
「花澄の事を、悪く言わないで」
「悪く言ってるんじゃないのよ、ただ、私とも、仲良くしませんか・・・って事。」
リンダは、ふふふと笑うと、ぴったりとしたパンツの足のつま先をそろえて、半円を描くと、バレリーナのお辞儀をしてみせた。
すとん、と、私の隣に座ると、自分の体を私に寄せてきて、再び小声でささやいた。
甘い花の香りが漂ってくる・・・・・・・・・リンダの香り・・・
「ね、この部屋でジュンに電話なんて出来ないでしょ?今も、お母さん、立ち聞きしてるんじゃない?」
私は、閉じられたドアに目を走らせた。
残念だけれど、母なら、やりかねない・・・・・・・・・・
ジュンに電話をしたくても、どうしようかと頭を悩ませていたところだった。
「今度は、私の部屋に遊びに来て。ご両親は、反対しないわよ。ふふっ・・・私の部屋から、ジュンに電話するといいわ。ジュンに逢うときも、私の名前を使ってもいいのよ。」
「リンダ・・・どうしてそんなに、親切なの?」
「貴女が好きだからよ。」
思いがけない返事だった。
「本当に?」
思わず問い返す私の胸に、嬉しさにもにたぬくもりが広がる。
「好きでも無い人に、わざわざ逢いに来たりしないわよ」
リンダは、とても美しい弧を描いている唇を微笑ませた。
そして、次の瞬間、その笑みはかき消された。
「それよりも、明日、大学で花澄に逢うんでしょう?その時、ジュンの事を好きだって相談されるわよ、きっと。どうするの?」
それは、私も予感していた事だった。
幼なじみだもの・・・・・・・・・・花澄のあの言動を思い返せば、きっと、ジュンに好意を抱いている事を、告白してくるにちがいない。
「貴女は、上手にかわせるかしら?ジュンから、電話番号を教えられたことも、言ってないんでしょう?」
「・・・・なんだか言えなくて・・」
「言っちゃ駄目よ。黙って、花澄の話をきいてあげて。貴女だって、まだジュンとつきあってる訳じゃ無いんだから、そんな段階で、気まずくなりたくないでしょう?」
私は、リンダの言葉が、最良の選択だと思って頷いた。
「明日の授業は、いつ終わるの?私の部屋へいらっしゃい。こういうのは、早いほうが良いわ。ジュンはもてるから。ね」
初めてあった時の、とげとげしさが、今日はまるでない・・・その事に、私はただ、リンダが私に好意を抱いてくれるようになったからだと、ただ単純に思っていた。
ただ、単純に・・・・・・
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