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鼻筋は通っているけど、それだけの普通顔。靴下も脱ぎっぱなしのだらしなさ。食事は好き嫌いばかり。他人のことを褒めることはしない。当然、そんな男を育てた姑との関係は最悪。そんなあなたを選んだ理由なんて片手で充分事足りる。それだけで良い。それだけが良い。恵美は眠くなるまで、夫の寝顔を覗いていた。
「もっと女らしく出来ないのか」
疲れて帰った恵美を迎えるのは、おかえりという言葉でも、お疲れ様でもなくコレだ。忙殺されて、シャツもスカートもメイクもクタクタになった恵美をひっ捕まえると、必ずコレだ。そして二言目には、母さんだ。
「俺の母さんは、もっとちゃんとしてたぞ。この間、電話したら母さん心配してたぞ。疲れた顔をしてたって。母さんから貰ったシソジュース飲んでるのか?」
恵美の思ったとおり。しかも、ご丁寧に義母からのご指導まで教えてくれる。恵美は、やってられないと心で叫ぶ。
「ええ、今朝も飲んだわよ」
恵美が答えると夫は、安心したように頷く。
事あるごとに義母を話題に出されることには、恵美も怒りはあるものの慣れていた。いつからか話が出てくるタイミングも、予測出来るようにもなっていた。それに内容なんて、ほぼ同じ、ほぼ無い。ただのママ自慢だ。若い女が恋の悩みを打ち明けるようなフリをしてマウントを取ろうと、躍起になるのと同じだ。そんなもの可愛いもの。それくらいに思っていないと、女だてらに管理職など勤まらない。中身のない話は、タコができて耳が千切れそうだが、やってられないのは、そこじゃない。
「ちゃんと飲んでくれよ。母さんの手作りなんだから。じゃあ、この話は終わりな。先、風呂入ってくるわ。飯、温めといて」
夫が風呂場へ消えて行き、自然と溜め息が出た。シソジュースは嫌いだ。だけど毎日、顔をしかめて一気に胃へ流し込んでいる。やってられないのは、これだ。いらないと言っても、義母には遠慮と取られ、夫には我儘と取られ、好みは聞き入れられない。
疲れているなんて珍しくもない。このご時世のサラリーマンなら当然だろう。心配なんていらない。こんな風に思う自分を可愛くないと責めつつ、恵美は考えるのを止められない。
「おーい。タオルと着替え、出しといて!」
思考の海から引きずり出したのは、夫の声。着替えも持たずに風呂に入ったようだ。馬鹿な奴だと皮肉を呟く。恵美は被り降って、先程の考えを頭から追い出してから動き出す。
寝室から着替えやタオルを出して、無言でカゴの中に入れる。すりガラス越しに、もうすぐ出ると夫から声がかかった。恵美は、キッチンに戻ると、さっさと作り置きの食事を暖め直す。
恵美がいないと家事は何も出来ない。給料が良いかと言えば、それも普通。平社員の夫より管理職の恵美の方が多いくらいだ。夫婦二人、互いの両親への仕送り、全て恵美が出したところで、恵美の財布はなんともない。生活するだけなら、要らない夫。これは、おかしいのだろうか。漠然と普通とは違うことを感じるが、どうにかしようとも思わない。恵美は、適当に料理を皿へ盛り付けて夫を待った。
こんな時、友達がいれば不平不満を聞いて、一緒に涙を流してくれるのだろうか。それとも、親、兄弟のように別れたほうが良いと言うだろうか。どっちにしたって、恵美には要らないものだった。
「腹減った」
頭を拭きながら、夫がダイニングに現れ、恵美は考えるのをやめた。いつものように、アレコレと言い出す、夫の好き嫌いだけの基準で行う料理への添削指導を聞き流す。食事を終えると、テレビを見る夫を横目に片付けをする。全ての家事を終わらせ、ようやく風呂で疲れとメイクを落とす。リビングでテレビを見る夫を差し置いて、ベッドへ潜り込んだ。
「恵美、寝たのか」
背を向けていた恵美に夫が、声をかける。起きているが、特別答える必要性を感じない。恵美は、目を瞑りジッと寝付くのを待っていた。
「恵美、怒ったのか」
夫の行動など、いつものことだ。今更、怒ってどうなるというのだ。それとも、何もしていないのに、怒られると思っているのだろうか。めでたい男だな。恵美は、夢の入り口でトロトロと毒を吐く。
「恵美、具合悪いのか。シソジュース飲んだか?」
またシソジュースか。どれだけ、母親が好きなんだ。
「シソジュース。恵美は嫌いでもさ、身体に良いんだ。俺が母さんに恵美に作ってくれるように頼んだんだよ。俺、恵美みたいに器用じゃないしさ。仕事も家事もできない。お節介だけど母さん、人を見る目はあるんだよ。その母さんが、恵美が疲れてるって言うんだ。なんとかしろって怒られたけど、何にも出来ないし」
懺悔なら他でやって欲しい。そう思う恵美だったが、頭に柔らかい感覚を覚える。心地良い温もりは、涙を誘う。
「なあ恵美、起きてるんだろ」
背中で聞く夫の声。確かに起きていた。けど、返事はしなかった。今、返事をすれば泣いてしまいそうだった。
生活するためだけなら要らない夫と暮らす理由なんて、片手で充分だ。泣けない女に泣く場所をくれる。それさえあれば充分だった。
夫の寝息が聞こえても、恵美の目から涙が溢れることは無かった。それでも、夫の弱音は泣いても良いと言われているようで、気が楽になった。恵美は、仕事の変わりに友情も恋も捨ててきた。どちらも、特別に必要性を感じなかったから困ることはなかった。
必要だったのは、仕事も家事も出来ないクズな夫と、世話を焼き過ぎる義母。口では要らないと言っても、恵美の心は必要だと泣く。不器用な男から産まれる形の悪い優しさは、片手では収まりきれないくらいの重さだった。
寝返りをうって、夫の寝顔を見る。鼻筋が通って眉尻が下がった弱々しい顔は、頼られがいをくれる。明日も早く起きよう。恵美は、ようやく眠りにつけた。
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