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今は遠く離れても
春のよく晴れた日、ハオランは私物を詰めたカバンを手にした。
兵士長から順に挨拶して回る。誰もが労をねぎらい、また激励を送ってくれた。
たった一年とはいえ、慣れ親しんだ場所を離れるのは名残惜しい。
兵舎の門では、十人ほどの現地人が待っていた。
繁忙期なので、足を運んだのはこの人数だが、ほかの面々とは巡回時に別れを済ませた。
ハオランが村を助けようとしたのは確かだ。けれど、原動力は「シンイーのために」という思いなので、感謝されるのは申し訳ない。
しかし経緯はどうあれ、距離が縮まった。
見送りの中にシンイーがいる。初めは後方に控えていたが、周りに促されてハオランの前にやってきた。
泣くのをこらえている。ハオランは、言葉が通じても自分はなにも言えなかっただろう、と感じた。
「シンイー」
かろうじて呼びかけ、相手を抱きしめる。
周りには兵士も現地人もいるが、それらの視線は気にならなかった。
シンイーが彼の服をつかんで身体を震わせた。ハオランは、なだめるようにその背中を撫でる。
「元気で」
自国語だが、きっと気持ちは伝わる。
シンイーが彼の胸元でうなずいた。
「ハオランさん。ありがとうございます」
つたない発音が、愛しくてならない。
しばらくしてから見下ろすと、シンイーは瞳を潤ませつつ、にっこり笑った。
国や立場の違いなど存在しない。まっすぐで、内面から光があふれるような笑顔だ。
しなやかな手を握り、離れる。
ハオランは周りを見回し、全員に対して頭を下げた。
兵舎から伸びる坂を下りていき、足を止めて振り返る。みんなが手を振ってくれた。
それに応えてから、シンイーを見つめる。相手は微笑みつつ、彼女らしく控えめに手を振った。
ハオランは道の先に視線を戻して、しっかりとした歩みで進んでいく。
林の途中で不意に感情が込み上げ、ひとしずくの涙がこぼれた。手の甲でグイッと拭ってつぶやく。
「情けない」
でも、自分を卑下するつもりはない。それほど大切な人と出会えたのだから――。
シンイーのこれからに、幸せが多くありますように。
まぶしい笑顔が曇りませんように。
* * *
帰国したハオランは、もともと所属していた駐屯地に戻った。
占領地の状況をまとめた書類を提出して、報告を済ませると、数日の休みを与えられた。故郷へ帰ってこい、という配慮だ。
ハオランは荷物をまとめるや、ふるさとへ向かう列車に乗った。
家族との手紙で、国に戻ることは告げてある。
みんなは喜んで迎えてくれた。
実家でゆっくり過ごすのは二年ぶりだ。
両親は変わらない。弟が、会わないうちにしっかりした青年になった。つい最近、妹に許嫁ができたと聞いて驚く。
近隣の親戚も集まって、夕食は祝祭日のような賑わいになった。父親や叔父からずいぶん飲まされ、ハオランはよい心地で自室に戻った。
夜の冷気に当たりたくて、窓を開けて空を見上げる。ちらほら星が散らばり、端のほうに半月が浮かぶ。
シンイーと満月を見上げた日が、脳裏によみがえる。
彼女はどうしているだろう。畑仕事に追われ、週に三日は厨房に立っているのか。
ハオランはいまだ、帰国した実感がない。
眠って起きれば、監視任務の日々が待っている気がする。鍛錬場で身体を追い込み、訓練に従事し、村や町を巡回するのだ。
そして、華奢な背中に呼びかけると、振り返った彼女が笑ってくれる。
* * *
帰国してから九ヶ月がたった。
ハオランは平時の兵士としての毎日を過ごす。
ある日、友人のルイから手紙が届いた。
彼もいずれは戻ってくるだろうが、今は変わらず監視任務についている。
現地のおおまかな様子は通信で知ることができる。だが友人の手紙では、あの村について触れてあるので、ハオランはそれが嬉しかった。
二国間の関係は安定しており、向こうも変わりないという。
ホッとして読み進めると、予想外の謝罪文にぶつかった。
『ハオラン、すまない。お前に隠していたことがある。伝えないでほしいと言われて黙っていた。
だがもう構わないはずだ。やはり知らせておく』
ハオランは戸惑いながら続きを読んだ。
『先月、シンイーが赤ん坊を産んだ。男の子で、母子ともに元気だ。
そうだ、お前の子だよ。
お前が帰国するときには分かっていたらしい。体調が悪くなった時点で、彼女は周りの村人に告げたが、俺が知ったのはずっとあとのことだ。
彼女は産んで育てると決意していた。
ただ、それを伝えるとお前が戻ってくるかもしれないから、言わないでほしい、と……。
俺は教えるべきだと説得したが、シンイーは承知しなかった。
それを無視してでも、手紙に書くべきだったのかもしれない。
だが、身重の彼女を村ぐるみで助けるところを見たら、俺に口出しできる領域じゃないと思った。
子供の血の半分はこの国のもので、産むのはシンイーだ。
なにより、日一日と母親になる彼女は幸せそうで、お前をそばに感じているように見えた。
それでも、お前は怒るだろう。俺を殴りたけりゃ、国に戻ったあと甘んじて受けるよ。いつになるか分からないが』
ハオランは愕然とした。
書いてあることの意味は分かっても、作り話を聞かされたようだ。
ルイが冗談でこんな手紙をしたためるはずがない。ハオランは、大事な箇所をもういちど読んだ。
『シンイーが赤ん坊を産んだ。お前の子だよ』
彼女が自分たちの子を宿し、そして出産した。
想像すらできない。だが事実なのだ。
教えてほしかった。シンイーとルイをすこし恨む。
彼女が帰還前に告げていたら、国には帰らなかった。できるかぎりの手助けをして、新しい命の誕生を喜んだ。
だが、自分はなにも知らなかった。
シンイーは「しょせん帰ってしまう人」だと思ったのだろうか。子ができたら、ハオランを困らせてしまうと?
一度は一緒になりたいと望んだ相手だ。彼女と子供のために、ともに暮らす道を選んだ。
シンイーと我が子に会いたい。今からでもそれはまだ――。
そのときふと、手紙に続きがあることに気付き、ハオランは便箋をめくった。
『お前はこちらに来たいと考えるだろう。
だが、シンイーは親類を頼って、母子で村を離れた。行き先は教えてくれなかった。
向こうへ無事に着いた、という知らせがあっただけだ』
「そんな……」
あの村に戻っても、会いたい相手はいない。所在も分からない。
二人は、手の届かないところへ行ってしまった。
シンイー、どうしてなにもかも持っていってしまったんだ?
僕に打ち明けようと、一度も考えなかったのか?
悔しくてやりきれなくて、頭の中がグチャグチャになる。自分はなんて無力だ。
幻の彼女にさまざまな問いかけをしては、一人相撲であることを思い知らされる。感情の激しい振幅に疲れて、打ちひしがれた。
そのあと、奥底にある気持ちが浮かび上がる。
シンイーと息子に向けて。
遠く離れても、大切なのは君たちだ。守りたいのは、幸せや笑顔をいちばん願うのは――。
手紙の一枚目を読み返す。
『日一日と母親になる彼女は幸せそうで、お前をそばに感じているように見えた……』
友人の言葉を信じていいだろうか。
シンイーは幸せだと。子供を育てながら、父親となった男のことを忘れずにいてくれるだろうか。
君たちの明るい未来を願う。
ハオランは、二人の存在を感じた。小さな息子を抱えたシンイーを、丸ごと抱きしめる。
愛しているよ。
シンイーがにっこり笑う。けれど子供はぐずり出す。
不慣れな彼と彼女があやす。泣き疲れた子供が眠ったら、二人で微笑み合う。
そんな、あったかもしれない未来。
ハオランは手紙を封筒に戻した。
そして青空を仰ぎ、陽光のまぶしさに目を細めた。
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