芽生えた想いをもてあます

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芽生えた想いをもてあます

 ハオランがこの地方に配属されたのは、三ヶ月前の春だ。戦後処理が終わってからふた月がたっていた。  彼が想像する以上に、現地人は敗戦を受け入れていた。もともと国力差があり、この国の中枢は戦いを長引かせなかった。  前線に立つ機会のなかったハオランは、『今や隣国は占領地である』という現実に追いついていない。この地が、いたって平和だったせいもある。  しかし、兵士と現地人のあいだに見えない溝が存在することは、次第に理解した。  兵士長は、理由もなく権力を行使することを禁じた。配属された者たちは、さながら大所帯の居候である。  身の回りのことは、だいたい自分たちでまかなえる。だが監視は長期にわたって行われるため、のちに食事の用意を現地人に任せることになった。  悪意ある者が潜り込めば、毒を盛るのはたやすい。しかし、ハオランたち数十名を殺したところで、その何倍もの報復を受ける。  大勢の決した今となっては、無意味だった。 * * *  あるとき大雨が降って、山道が土砂や倒木で通行不能になった。兵士長は数名の若手に原状回復を命じた。  おもに事に当たるのは現地人だが、人手は多いに越したことはない。ハオランやルイは、現地語の分かる上官に従い、精力的に働いた。  幹部には、恩を売る狙いがあったのだろう。だが、若手をこき使う名目ができた、というところが本音だった。  鍛錬や訓練を課しても、若者の体力にはゆとりがあり、また平穏な任務に退屈している。それを提供し、解消させたわけだ。  ハオランたちはその一週間、肉体労働に従事し、兵舎に戻ればよく食べよく眠るだけだった。  任務の一環として近隣を巡回し、兵舎での食事の提供を受けて、災害時に手助けする。  そうして過ごすなかで、ハオランはシンイーを知った。  彼女は月水金、昼の厨房で手伝いをする。普段は地主の畑で働き、家族はいないが、村の者と助け合いながら暮らしていた。  黒目がちな瞳で、外にいる時間が長いにも関わらず、肌は白い。華奢な身体つきと大人しい性格。  それらがハオランの庇護欲をそそった。  山崩れで駆り出された際には、食事を世話する彼女からおにぎりを手渡された。そのときに胸がざわめいて、己の特別な想いを自覚した。  会話はできないが、シンイーが兵士に感謝しているのは、あたたかな眼差しを見れば分かる。  彼女と目が合うと落ち着かなくなり、昼食を渡されてもうなずくばかりだ。相手が去っていくときに、後ろ姿を目で追う。  ほかの娘に対して、そんなふうになることはなかった。口にするおにぎりが、彼女の手で握られたものだといい、と思った。  巡回に出ると、シンイーは畑で働いていたり、よその家でカゴ作りを手伝ったりしていた。  彼女の家は村外れにある。かつては祖父母や両親と暮らしていたので、独り住まいには大きい。  家族を想って淋がっていないか、とハオランの気を揉ませる。  同じ国に生まれていたら――。  と考えては、即座に打ち消す。いずれハオランは帰国し、シンイーは近隣の男と家庭を築くのだ。  二度と会えなくなるなら、ひそかに見つめる今が一日でも長ければいい。  想いを持て余しながらも、彼女を目にすればハオランの心は華やぐのだった。 * * *  ある休日の午前中、ハオランは鍛錬場で組手にはげんで汗を流した。  昼食のため食堂へ向かう。木曜なので、シンイーはいない。ルイも他地方への任務で不在だ。  閑散とした食堂の隅で、静かに食事をとった。  腹を満たしたあと、廊下で、ルイに「無類の女好き」と言わしめたイーミンと、その取り巻き二人に出くわした。  階級も年齢もこちらが上なので、彼らは端に寄って頭を下げる。  ハオランは部屋に戻ると、両親からの手紙に返事をしたためようとペンを握った。  だが不意に友人の言葉が頭をよぎる。 「イーミンがあの娘に目をつけたらどうする?」  ハオランは歯噛みした。絶対に阻止しなければならない。  けれど、ルイの提案を実行することにはためらいがある。ほかにいい方法はないだろうか?  不誠実な男にもてあそばれるよりは、嫁ぐほうがシンイーにとっては幸いだ。しかしハオランからすれば、どちらも変わりない。  現地人の婚姻を操作できたとして、はたして命じるだろうか? 「適当な青年と夫婦(めおと)になれ」と。  次に、イーミンを帰国させる、という案が浮かぶ。  しかし自分にそんな権限はない。あの男は模範的な兵士にはほど遠いが、配属替えを余儀なくさせる問題を起こしたわけではない。  一分一秒が過ぎるほど、手遅れになるのではと焦る。とても手紙を書く心境になれず、ペンを置いてため息をついた。  またシンイーの幻が現れて、「助けてください」と懇願する。  ハオランはうつむいて、拳を握りしめた。僕は君のために何ができるのか?  最悪の事態が脳裏をよぎる。  イーミンが彼女を押し倒し、細身にのしかかっていく。もしその場に居合わせたら、自分はきっと彼を殺す。  いや、指一本、触れさせたくない。  シンイーが若い男と会話しているのを見かけると、嫉妬を抑え込むのに苦労する。ましてや、イーミンとだなんて。  あの男が行動に出るかどうかは分からない。それでも憎悪がつのった。  いっそ、大怪我を負わせてやればいい。心の闇がうごめくのを感じ、ハオランは頭を抱えた。  こんな考えをシンイーが知ったら、どういう目を向けるだろう。  ハオランはフラッと立ち上がって部屋を出、洗面所で顔を洗った。髪から滴がポタポタ落ち、首を伝って胸元まで下りた。  目の前の鏡を見ると、若い男が途方に暮れている。
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