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不意に縮まった距離
鍛錬場から掛け声が響くばかりで、兵舎はしんとしていた。ハオランは戻りの廊下で立ち止まり、真っ青な空を見上げる。
無性になにか行動しなければならない思いにかられた。建物を出て、村へ足を向ける。
畑を訪ねたが、シンイーはいなかった。カゴ作りの家にも姿はない。
周囲を見回しながら、村の外れまでやってきた。彼女の家の戸は開け放たれ、住人は不在だ。隣町にでも出ているのだろうか。
ひとつ息をつく。
顔が見たかった。いつも通りの様子を確かめたかった。
明日になれば、食堂の厨房に彼女はいる。そう自分に言い聞かせ、家を離れた。
そのとき、道の先からシンイーがゆっくり歩いてきた。
野菜の入ったカゴを抱え、帰宅するところらしい。向こうも彼を認めて目を見開く。
兵士が私服で、どうしてこんな外れに、と表情が物語っていた。
気を取り直し、奥ゆかしく会釈して、道の端を通り過ぎていく。ハオランは振り返ることもできず、遠ざかる足音をただ聞いた。
たたずむ彼の背後で、戸の閉まる音がした。
普段と変わらない様子に、ハオランはホッとする。そして、兵舎に戻ろうと足を踏み出した。
突然、彼女の悲鳴が空気を裂き、ガタガタッとなにかの倒れる音がした。
ハオランは即座に振り向いて、家屋を凝視する。
続いて、助けを求めるような声が聞こえたので、考えるより先に駆け出した。力任せに戸を開く。
まず目についたのは、あたりに散らばる野菜だ。ひとつが玄関口にまで転がっていた。
室内に視線を向けると、壁にすがって怯えるシンイーがいた。どんな災難に見舞われたのか、それだけでは分からない。
「どうした!」
つい自国語で尋ねたが、彼女には通じたらしい。シンイーが顔を向け、次いで部屋の反対を指した。
ハオランが部屋に上がると、示された先に細いヘビが落ちていた。人間に動じることなくジッとしている。
この種は毒を持たない。だが、そばにいて気持ちのいいものではない。シンイーは獣に襲われたように縮こまっていた。
ハオランは穏やかに声をかけた。
「今、助けてやる」
意を汲んだのか、彼女が頼りにする眼差しを注ぐ。
ハオランは慎重に歩を進め、頭を浮かせるヘビに近づいた。襲ってくる様子はない。その横から静かに手を伸ばす。
ヘビは大人しく捕まった。牙を剥いてくるが、頭を動かせないよう握ったので、安全な状態で持ち上げる。
シンイーは壁にくっついたままだ。ハオランはそちらにうなずいてみせ、家を出た。
充分な距離を走る。岩場がそばにある池へおもむき、ヘビを離した。
相手は即座に岩の隙間へ入り込んだ。これであの家に戻ろうとはしないだろう。
ハオランはふたたび彼女の元へ急いだ。
彼が戻っても、シンイーは小さくなっていた。ハオランは歩み寄ってひざまずき、できるだけ優しく言った。
「もう大丈夫だ」
彼女がまばたきをして見つめた。未だ、顔を強張らせている。
もしかして噛まれたのだろうか。
ハオランは確かめようとしたが、言葉が通じないことを思い出す。
そこで片腕をヘビに見立て、もう一方の手に噛みつくジェスチャーをしてみせる。そして「君が」という意味で相手を指差した。
シンイーは質問を理解したらしく、かぶりを振った。
ヘビを見て驚いただけらしい。どうやらこの様子では、相当に苦手なのだろう。
壁から離れようとせず、泣き出しそうなありさまだ。
ハオランは手を伸ばし、相手の頭をそっと撫でた。
「心配ない」
通じたかどうかは定かでない。シンイーが潤んだ瞳をまっすぐ向ける。
ハオランは笑みを浮かべてみせた。
怖い目に遭った直後だから、彼女は一人になりたくないだろう。予定のない休日だし、しばらくそばにいてやってもいい。
けれどハオランは不意にハッとし、手を止めて硬直した。
おにぎりを受け取ったときより距離が近い。ここには自分たち以外、誰もいない。
そして、シンイーがすがる表情をする。世界がグラッと揺れた。
そんな一途な目を向けないでくれ。
分かっている。彼女は、ヘビを追い払った者に、感謝の念を抱いているだけ。
なのに理性が揺らぐ。
彼女から視線を外すべきだ。けれど目を逸らすことができない。ハオランはゴクリと唾を飲み込む。
抑え込んできた想いが、どっとあふれ出す。
せめて見つめていたい、なんて大嘘だ。本当はシンイーのことを――。
頭の中で警報が鳴る。それを無視して、彼は相手の頬に触れた。
なんて柔らかく、滑らかな肌なんだ……。
勢いよく細身を抱きしめる。
自分の行動に、ハオランは愕然とした。
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