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言葉のないやり取りを重ねる
次の休日に、ハオランは町へ出かけて石灰を買い求めた。いったん兵舎に戻り、現地語が分かる上官に頼んで、紙に必要事項を書いてもらう。
それからカンテラ片手に、シンイーの家に向かった。住人はまだ帰ってきていない。
戸のそばで待っていると、道の先から彼女が歩いてくるのが見えた。彼に気付いて目を丸くする。
辺りはジワジワ暗くなりつつある。ハオランはシンイーを手招きし、カンテラの明かりを頼りに、紙の文字を読むよう促した。
そこには、彼の持参した粉がヘビの忌避剤になること、取り扱ううえでの注意点が記されてある。
ハオランは身振り手振りで、家の周りに撒いていいか尋ねる。すると相手は素直にうなずいた。
カンテラで地面を照らしながら、石灰を落としていく。シンイーもついてきた。
一周したあと、ハオランは袋の口をしっかり締めて、彼女に手渡した。
シンイーは何かを言いかけて、現地語ではダメだと気付き、ハオランの国の言葉をたどたどしく発音した。
「ありがとう、ございます」
ハオランは大したことじゃない、と首を左右に振る。
静かな瞳に見送られて、「それじゃあ」とその場をあとにした。
* * *
べつの日、兵士たちに母国の焼き菓子が配られた。ハオランはそれをポケットに入れ、村外れへの道を辿る。
シンイーは裏の小さな畑で草むしりをしていた。
彼が手伝おうとすると、そんなことをしてもらうわけにはいかない、と懸命に制する。
だがハオランは譲らない。彼女は困り果てたあげく、根負けした。
野菜のツタを絡ませる支柱が傾いていたので、彼は地面に深く突き立てた。するとシンイーが、申し訳なさそうな顔で「ありがとうございます」とつぶやく。
我ながら押しつけがましい、とハオランは自嘲した。
作業がひと通り片付いたところで、シンイーがこわごわ彼の袖を引いた。そして家を指差す。
ついていくと、彼女がお茶を淹れてくれた。板の間に腰掛けるハオランのかたわらに、茶器を置く。
そのとき、彼はポケットに入れた菓子の存在を思い出した。
差し出すと、シンイーは戸惑いながら受け取り、包みを開いて驚く。隣国の銘菓だから、見たことぐらいはあるだろう。
だが、ハオランの表情を窺ったあと、うつむいてしまう。
彼が「食べるのが嫌か?」と手振りで尋ねてみたら、彼女はかぶりを振る。しかし、ためらって口にしようとしない。
甘味は貴重だ。喜んでもらえると思ったが、むしろ気兼ねする品だったのかもしれない。
ハオランは自分の質問に対し、相手が否定したことに気付く。
彼女の手のひらから菓子を取り、半分に割る。そして片方をふたたび渡した。
彼が残りを口にすると、シンイーも遠慮がちに食べた。そして柔らかく目を細める。
ハオランにとっては、心が和む時間だった。
* * *
シンイーの力になれる機会は、なかなか作れない。
だから現地人が困っていたり、人手が必要だったりすれば、積極的に手助けした。
村のために働けば、回り回って彼女のためになる。そうならなくても、行動したかった。
あるとき、どこからか流れてきたはぐれ者が、作物を盗むなどして村をおびやかした。
放ってはおけない、と兵士で追い込んで捕らえた。
これで安全だ、と女子供がホッとする。その中にシンイーがいるのを見て、ハオランは充実感に包まれた。
ただ、兵舎に戻ったあと、ルイがポツリとつぶやいた。
「敗戦国になったから、ああいう奴が出たのかもな」
* * *
またべつの日。
巡回から帰る途中、駆け寄ってくる足音がしたので、ハオランは振り返った。
するとシンイーが息を切らして立っていた。
「どうした?」
なんとなく通じるだろうと自国語で問いかけると、彼女はトマトを差し出してきた。
ハオランは驚きつつも受け取る。相手は表情を和らげ、深く会釈してから戻っていった。
一緒にいた仲間が、羨ましそうに言う。
「食べごろですね。支援活動のたまものでしょうか」
ハオランは、焼き菓子の礼ではないかと思ったが、言葉にはしなかった。
トマトはどこでも手に入る。けれど、これは彼女の精一杯だろう。
兵舎に戻ると、上官に見とがめられた。
「なぜそんな物を持っている?」
「村の者に渡されました。断るべきだったでしょうか」
兵士個人に対する謝礼は禁止されている。
だが上官は、たかだかトマト一個に目くじらを立てることもない、と結論づけた。
「はげむ者にささやかな褒美があっても、バチは当たるまい」
「ありがとうございます」
貸与された武器を返しに行くと、保管庫の管理人が目を丸くした。
「そんなもん拾ってくるほど、腹が減ってたのか?」
ハオランはさっきと同じように答える。同行した仲間がからかうように告げた。
「相手はかわいい娘でしたよ。いやはや、隅に置けませんねぇ」
余計な説明を付け加えてくれたおかげで、ハオランは質問ぜめに遭い、保管庫から逃げ出すのにひどく苦労した。
夕食時にいただこうと思い、トマトを食堂に持っていく。
いつものように隣に座ったルイが、ニヤニヤしながら指摘した。
「意中の相手から貰ったんだろ? 親しくなって何よりだ」
「本当のところは分からない。向こうは、僕を撥ねつけられないんだ」
「あの娘は、気持ちを完璧に押し殺せるほど大人じゃねぇだろ。言葉以外の壁を感じるのか?」
「ない。けど……」
いったん言葉を切ってから、ハオランは険しい顔をした。
「どうして僕を許すことができるんだろう」
「なにがあったか知らねぇが」
ルイは驚くことを口にした。
「あの娘、ずっとお前に好意を持ってたからな」
「――まさか!」
友人が苦笑いした。
「信じるも信じないも自由だ。物事の見方は、俺とお前では違うからな」
人間に対する観察眼は、ルイのほうがはるかに優れている。彼の言葉をどう受け取るべきか、ハオランは悩んだ。
「……言葉が通じたところで、確かめる勇気はない」
「惚れた相手なら、なおさらだ。ただ、全否定してかかることはないだろ。可能性を頭の隅に置いておくぐらいは、いいんじゃないか」
ハオランは、皿に置いたトマトのヘタを見つめた。これを持ってきた彼女の心情が、焼き菓子を渡した自分と同じものなら。
「もっと力になりたい」
ルイはかすかに笑ってから、声を潜めた。
「親密さを周囲にアピールしないとな」
「なんのために?」
「忘れたのかよ。イーミンを牽制するんだ」
その件についてウジウジしていた頃が、ずいぶん昔のように感じた。
シンイーとの距離は縮まったが、それを隠していては無意味だ。
「どうすればいいんだろう」
「言葉が通じるなら、人目につく場所で頻繁に声をかけて、楽しく会話すれば効果的なんだが」
ルイはすこし考えて、首を傾けつつ言った。
「手っ取り早い方法がある」
「どんな?」
「その辺りの物陰で彼女を抱きしめて、誰かに目撃させるんだ。相手は口の軽い奴がいい。そうすれば、噂が勝手に走り回ってくれる」
提案したものの、友人は難易度が高いという自覚があるようだ。ハオランは赤面し、そんなことはできない、と思った。
だが効果的ではある。
シンイーは抵抗しないだろう。彼女を守るため、行動に出るべきか。
ふと、べつのことを考える。
もし想いが一方通行でなかったら?
抱きしめたとき、彼女はどんな表情をするだろう。
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