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彼女が狙われるのを阻止する方法
食堂へ続く板張りの廊下は、夏の日差しが注ぎ込んでまぶしい。
ハオランは兵士服の襟が整っていることを確かめてから、食堂内に入った。
二十名ほどの兵士が昼食をとっている。彼らの会話で、室内はほどよくざわめいていた。
見回すと、右手奥で友人のルイがハオランに気付いて軽く手を上げた。そちらへうなずいてみせてから、食事を受け取るカウンターへ足を向ける。
そこに立っていたのは、明るい笑顔を浮かべる、肥えた中年女性だ。
ハオランが「頼む」と言うと、相手は「すぐに」と答える。厨房を振り返り、中の女性たちへ促すような声をかけた。
おそらく『一人前』といった類いだろう。現地語が分からない彼は、相手の様子でそう判断する。
食事が用意されるまでのあいだ、厨房を窺う。五、六人がせわしなく働くなか、奥で若い娘の背中が見えた。
わずかに茶がかった黒髪をまとめ、白い三角巾を巻いている。
野菜盛りを作っていたらしく、いち早く出来上がったそれを、厨房中央に置いてあるトレーに乗せた。
そのとき彼女はハオランに気付いて、控えめな笑みで会釈し、持ち場に戻った。彼は同じように返せなかったものの、視線を交わすことができたと心はずませる。
ほかの料理が揃って、カウンターの女性が「どうぞ」とトレーを差し出した。彼の後ろに兵士が二人並んでいたので、その場を明け渡す。
そしてルイの隣に腰を下ろす。友人はニヤリと笑って、肘でハオランの腕を小突いた。
「あの娘、笑いかけてきたじゃねぇか。よかったな」
見られたのか、とハオランは顔が熱くなる。
「いやな顔はできないだろう。現地の人間はみんな、僕たちに対してあんな感じじゃないか」
「いや、お前は優しいみてくれだからな。俺なんて、老若男女から怖がられる始末だぜ。何もしてねぇのに」
ハオランは苦笑した。隣の友人は筋肉のついた厚い身体をしており、顔つきは挑戦的、目も鋭い。
言葉を交わせば、きっぷがよく、信頼の置ける人物だと分かる。だが初めは、ハオランも近寄りがたい印象を抱いた。
会話できない現地人からすれば、なおさらだろう。
ハオランはチラッと厨房を振り返ってから、改めて料理と向き合った。
「僕にだって心を開くわけがないよ。表向きは良好な関係でも」
「働きかければ心が動くかもしれない。花や髪飾りでも贈ってみろよ。そこにどういう意図があるのか、あの娘だって分かるだろ」
ハオランは難しい顔をして、友人と反対のほうを向いた。
「それをしたら、彼女は否と言えないだろう? 強要するのはいやだ」
「だが、互いの立場なんて変えようがない。厨房で働く姿を眺めて、巡回のときの偶然に期待して、それで満足だってのか?」
ハオランは肯定できなかった。
贈り物をして、彼女が喜んでくれたら嬉しい。しかし迷惑でも、相手は無理に笑顔を浮かべるだろう。そんなことは強いたくない。
ハオランを始めとする兵士は、隣国の人間だ。この国と戦って勝利し、一帯を占領下とした。
戦後の処理が片付いたあと、多くの兵は帰還した。残った者が要所に兵舎を用意して、新領地に目を光らせる。
つまり、数ヶ月前まで現地人とは敵だったのだ。
この国の中央では、揉め事が起こったり反乱分子と戦ったりと、まだゴタついている。
だがハオランの配属された地方は従順であり、平穏な日々だった。
それでも現地人にとって兵士はよそ者で、支配側の人間だ。一部の者を除いて言葉も通じない。
戦いの結果、同胞となったが、双方のあいだには溝が横たわっていた。
ハオランたちをまとめる兵士長は、穏やかで差別意識のない好人物だ。
しかし現地人は、兵士を怒らせればひどい目に遭う、と考えている。だから顔色を窺い、逆らう真似はしない。
表面上はよい関係を築いているが、立場にはハッキリと差があるのだ。
たとえば、巡回の途中で雨に降られ、近隣の家に傘を借りるとする。兵士にとってはささいな頼み事だが、現地人はこう言われたも同然だ。
「差し出さなければどうなるか、分かるな?」
だからハオランが、厨房で働く娘――シンイーという――に好意を示したら、彼女は承諾するほかないのだ。
仮に拒まれたところで、ハオランは怒って権力を振りかざしたりしないが、シンイーに選択の自由はない。
ルイは友人の性格を知っているので、正攻法で煽ってもムダだな、と息をついた。低い声音で、いやな事実を指摘する。
「イーミンがあの娘に目をつけたらどうする?」
ハオランはピクッと箸を止め、視線をさまよわせた。ルイはさらにひと押しする。
「あの無類の女好きは、いつ近隣の娘に手を出すか分かったもんじゃない。彼女は未婚だし、守ってくれる家族も恋人もいない。時間の問題だぞ」
ハオランは胸が灼けるのを感じた。
イーミンがきらいだ。女性に対して不誠実であるばかりでなく、上にへつらい、下を人とも思わない。ずる賢く規則を破り、自己中心的で、酒が入るとますますタチが悪くなる。
その男がシンイーに迫る状況を想像するだけで、吐き気がした。
ルイがさらに言う。
「あんな大人しい娘、イーミンにかかったら――」
「やめてくれ!」
ハオランは思わず叫び、ハッと我に返った。
周囲が驚いた目を向ける。厨房の奥で、彼女もビックリした顔で振り返っていた。
会話の内容は相手には分からないが、ハオランは気まずくてパッと視線を逸らした。
ルイが彼の背中を軽く叩き、周りに聞かせるようになだめた。
「悪かった、勝手にお前の手紙を読んだりして。二度としないから許してくれよ」
ハオランはそれらしい答えを返すべきか迷ったが、不自然ではないと考え、むっつり黙り込んだ。
ルイが謝罪を重ねたあと、抑えた声で告げた。
「あの女好きの悪巧みを阻止したきゃ、できることはひとつ」
ルイがこの提案をするのは初めてではない。それでも、ハオランはうろたえた。
友人が言葉をつなぐ。
「お前があの娘と親密になっちまえばいい。イーミンは傍若無人だが、上下関係には気を遣う。お前はあいつより階級が上だ。彼女を守ってやれる奴がほかにいるか?」
ハオランにとっては、「花や髪飾りを贈れ」と言われるより難しい提案だった。
できれば自分の手で守りたい。イーミンは彼女を泣かせる。そんな目に遭わせたくない。
けれどハオランはかぶりを振った。
「彼女にとっては、相手があいつか僕かの違いだけだ。もし好きな男がいても、想いを押し殺して笑顔にならなきゃいけない」
「じゃあ、イーミンを野放しにするのか?」
「僕がこの国の人間だったら……。でも支配者なんだ。どのみち彼女を助けることはできない」
ハオランはうつむいて唇を噛んだ。苦悩する友人にルイも言葉を詰まらせたが、説得を続ける。
「立場を変えるなんて不可能だ。やれることをやるんだよ。最悪の事態を回避する、それが最善だろ」
「僕にできることは何もない……」
「お前の言うとおり、彼女につらい思いをさせるのかもしれない。それでも」
ハオランが見やると、ルイの鋭い瞳が容赦なく射た。
「相手の気持ちなんかこれっぽっちも考えないクソったれより、あの娘を思いやって苦しむお前のほうがマシだ。もし言葉が通じて、彼女が助けを求めてきたらどうする?」
ハオランは、シンイーが彼を見つめ、「助けてください」と頼む姿を思い浮かべた。そんなことが起これば、自分はためらわず――。
ルイが最後に言った。
「何もせずに悔やむぐらいなら、行動して悔いろ。惚れた女のために泥をかぶれ。彼女を『傷つける役割』を、ほかの奴に渡すんじゃねぇ」
ハオランは絶句した。
シンイーを守りたいと願いながら、ただ自分を安全地帯に置いていたのかもしれない。己の手を汚すことなく、物事が好転するのを祈るばかり。
そうだ、自分が動くのがいちばん確実だ。
どれほどイーミンを嫌悪しても、殺すことはできない。だが、彼女への企みを断ち切ることは可能だ。
ハオランはもういちど厨房を振り返った。
シンイーは隣の女性と会話して、にっこり笑顔になる。それを目にしたとたん、ハオランの体内でさまざまな感情が渦巻いた。
食事に向き直って、深いため息をつく。
ルイは、返事を求めてはこなかった。
ハオランはまだ決意できない。だが自分が岐路に立ち、いずれかを選ばなければならないことを、ひしひしと感じた。
安全地帯から出ない、という選択肢を含めて。
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