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肝心の蛇のための話し合いが、まだ終わっていなかった。
床の大きな敷物の上のエウル大神官を前に、私とシンアが同じ敷物の上に座っている。
「さて、ベルテシャザル殿。わしらとて命を軽視している訳ではない。人はユーフラテスの河の泥から生まれ、死んで泥にかえる。そういう死生観なのじゃ」
エウル大神官が話し始めた。
「まあ人身御供でその蛇が満足するとは思えん。むしろ力を与えるような気がするの。生け贄はしないほうがいいだろう」
それを聞いてほっとした。
現実を突きつけてくる王と違って、大神官は口調も内容もゆったりとしていて受け入れやすい。
明かりに横顔を照らされながら、大神官は話を続ける。
「話を聞く限り、陛下に取り付いたのは悪いエテンムのようだの」
「悪いエテンム?」
私が尋ねると、エウル大神官は答えてくれた。
「わが国の伝承でな。死者は地下の世界にゆくが、埋葬されなかった死者は悪い霊になる。彼らは耳から生者の体内に入りこんで病気をひき起こす。夢の中にも現れる。人の精神を侵す病気はエテンムの手と呼んでいる」
私はたずねた。
「それを身体から追い出して、健康に戻る方法はありますか?」
「祓いの儀式がいるのう。それでまず最初は陛下も王宮付きの術者を呼んだのだ。術者達は国で選りすぐりの六名だったが、彼らは失敗して全員が命を落としてもうた」
エウル大神官は、そう言って眉をしかめた。
「王に取り憑いているのは、ただのエテンムではない。もはや冥界の王ネルガルの魔物達のひとりか、ティアマト女神の魔物バシュムにも近いとも思うた……」
私は黙って考えこんでしまった。
そんなの、どうやって倒したらいいんだろう……。
大神官は続けた。
「うちの神官の張る結界には二種類あっての。魔を入れない結界と、出さない結界の二つ。ベルテシャザル殿は、結界の有無は分かりますかの」
私は首を振った。
自分は文官になる勉強はしてきたけど、呪術方面はほとんど知らない。
「いえ、全く分かりません」
「ふむ。まあ、結界の聖具を動かさぬよう避ければよろしい。最後にこの二つに加えてさらに秘術があっての。天と地を繋ぐ結界よ」
「天と地を繋ぐ?」
「エ・テメン・アン・キとは、天と地の基礎となる建物の意味でな。神殿の底は冥界へ、頂きは天上へ繋がっている。神々のいる天へとな。それを繋ぐ結界を張るのが、ここマルドゥク主神殿神官の秘術中の秘術」
エウル大神官は右手の指を上に、左手の指を下にした。
「魔のものを陛下の内から出し、結界で封じ込め、冥界のものは冥界に戻すのがよい」
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