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 どうしてこんなことに……。  僕は、今、自分の置かれている状況について、こうなることになった原因を、ポテチを食べながら雑誌をぺらぺらとめくっている女子高生の前で一生懸命に考えていた。  僕は、今年の四月で大学三年生になった。これからゼミやらバイトやら就職活動やらで、一層忙しくも充実した毎日を送るはずだった。しかし現実は違った。うちの大学は、教授の人員数の都合で、希望する学生全員がゼミに参加できるわけではない。募集人員を上回る希望があった場合は、面接による選考が行われる。察しのいい人間なら、もう分かったと思うけれど、そう、僕は、その選考に落ちた。つまりゼミは受講できない。時を同じくして、僕がバイトしていたから揚げ専門店が夜逃げした。もちろんバイト代はもらっていない。社長も気さくな人で結構気に入っていたのに。就職活動については、まだいろいろと迷っていて何も行動に移せていない。つまり、僕は今、急いでやらなくてはいけないことが何一つないのだ。いや、本当は新しいバイト探しとかあるんだけれど……。何ていうか、気分的にちょっと……。そんなときに彼女に出会った。  特に何もすることのなかった僕は、気分転換にインカレサークルの門をたたいた。三年生になったタイミングで、そんなやつはいないだろうと思うかもしれないが、ここにいるのだ。もちろん様子見が大前提で、気が合う友だちでもできればいいな、何か就職とかの情報が得られればいいなと思ったくらいの話だ。時期的に歓迎会のシーズンだったため、僕も新入生と一緒にそこに呼ばれた。そして、僕はそこで西森加奈子という一人の女子大生と出会った。アルコールが入っていたこともあるんだろう。僕は、いろいろとゼミやらバイトやらのことを愚痴っていたらしい。全然覚えていないんだけれど。 ※ 「ねえ、イオリ君さあ。しばらく何もすることがないんならさあ。バイトやんない?」 「へ? バイト?」 「そう。バイト」 「何の?」 「家庭教師」 「家庭教師? いやいや、僕、そんな頭良くないんだけど」 「大丈夫、大丈夫。生徒のほうも頭良くないから」 「いや、だから家庭教師雇うんでしょ?」 「そりゃそうだ。ははは」 「でも、ほんと僕じゃ無理だって」 「えー、そんなこと言わずにさあ。会うだけでも会ってみてよ」 「何か女の子を紹介されてるみたい」 「ははは、ほんとだね。でもさ、ほんとに会うだけでも。損はさせないから」 「損はさせないって、どこかの客引きみたいじゃん」 「ははは。でも、確かに相手は女子高生だしね」 「え? 女の子なの?」 「そうだよ。高校三年生。かわいいよ」 「そういうことなら早く言ってよ。この霧崎イオリにおまかせください!」 ※  ということらしいのだが、酔っていたせいか全くこれっぽっちも覚えていない。でもいくら酔っていたからといって、そんな安請け合いをするかなあ。僕は、お世辞にも勉強ができるほうじゃない。英語や数学なんて何度レッドラインを超えたことか。あ、もちろん悪いほうの意味で。だから、人に教えるなんてとんでもなさ過ぎて一度も考えたことがない。当然、バイト先の候補からも家庭教師は外してあった。なのに今、小ぎれいに片付いた、いい匂いのする部屋で、僕は、女子高生と対峙しているのである。  どうしてこんなことに……。  全部自業自得な気もするけれど、快諾した自覚がないから、そうとも割り切れないのが本当のところだ。目の前のかわいい女子高生は、勉強なんてするつもりはないらしく、相変らずポテチを食べながら雑誌をぺらぺらとめくっている。油の付いた指でページをめくるんじゃないと言いたい。だが今はそれよりも家庭教師自体をどうするのかを考えなくては。 「えーと。……霧崎イオリです」 「ほへ? 知ってるよ」  少女は、雑誌から目を離さずに答えた。 「え? 何で?」 「カナちゃんから聞いてるから」 「カナちゃん?」 「そう、西森加奈子」  あの女子大生だ。 「えーと、どういう関係なの?」 「あ、聞いてないんだ」  そこで初めて彼女はこちらを向いた。 「うん、何も」 「うちら、従姉妹なんだよ」 「え? 従姉妹?」 「そう。従姉妹」 「従姉妹って、いわゆる、あの従姉妹?」 「いわゆるその従姉妹。まあ、他にどんな従姉妹があるのか知んないけどさ」  確かにな。でも、そんなこと言ってたっけ? 思い出そうとしたけれど、そもそも何も覚えていないんだから思い出せるはずがない。 「えーと、名前は?」 「え? 名前も聞いてないの? カナちゃん、ほんとに何も言ってないんだね」  ええ、何も言われてないんです。今日、ここに来るようにと言われただけで。いや、もしかしたら言ったのかもしれないけれど、そもそも(以下略) 「広江トワ。永遠て書いてトワ。格好いい名前でしょ?」 「うん」 「好きになった?」 「何で。いや、別に……」 「照れてるし」 「いや、照れてないし」 「いいよ、好きになっても」 「え?」 「ははは、冗談、冗談。それ犯罪だから。先生、かわいいね」  完全にからかわれてる。最近の女子高生、怖い。  ショートカットがよく似合う女子高生、広江トワは、半袖シャツにショートパンツという完全に部屋着モード全開な格好で、冗談を言いながら、すっかりくつろいでいるのだった。胸元のペンダントが印象的だ。しかし初対面の男性相手にその格好は無防備すぎやしないかとも思うのだけれど。まあ、勉強する気ないよね、これ。 「家庭教師に来といて何だけどさあ。僕、あんまり頭良くないんだけど、何を教えたらいいのかな?」 「さよならを教えて」 「え?」  僕は、彼女の言った言葉の意味が分からなかった。戸惑っている僕を、彼女はしばらく見つめ続けていたが、耐え切れなくなったのか笑いながら言った。 「ははは、うそうそ。カナちゃんは、そう言ったんだって。意味分かんないよね」  また冗談か。このノリについていくのは、なかなか骨が折れそうだ。 「いや、冗談じゃなくてさ」 「ごめんごめん。でも、カナちゃんは本当にそう言ったらしいよ」 「そうなの?」 「うん」 「それってどういう意味?」  さよならを教えてって何だ? 付き合っている彼女から言われたら、ものすごく遠回しに別れを切り出されているってことなのかな。でも、そんなシチュエーションじゃないよね。普通、初対面の家庭教師に言わないし、そんなこと。 「うん、それは私が聞きたい。だから意味分かんないって言ったじゃん」 「ああ、そうか」 「私は何にしようかな。……あ、そうだ。私、誰も行ったことがないくらい遠くへ行きたいんだよね。距離的な意味じゃなくて。ねえ、どうすれば行けると思う?」 「え?」  彼女は、胸元のペンダントを右手で触りながら少し遠い目をしていた。誰も行ったことがないくらい遠くへ行きたい。でも、それは距離的な意味じゃない。えーと、それも意味が分からないんですけど。 「そうだ、それを教えてよ、私に」 「え、え?」 「けってーい!」 「いやいや、ちょっと待って」 「先生には、決定権はありませーん」 「何で?」 「何ででも」  実はこのとき、僕は、生まれて初めて先生と呼ばれて、少しうれしい気持ちになっていた。僕のその心の機微を、彼女が見抜いていたのかどうかは分からない。けれど、彼女はここぞとばかりに先生という言葉を連呼した。 「ちゃんと教えてよね、先生」 「え、でも……」 「カナちゃんの紹介だから心配はしてないけど。期待してるからね、先生」 「あ、ああ。うん」  結局、押し込まれて曖昧に返事をしてしまう。これは完全に見透かされているな。やっぱり最近の女子高生、怖い。 「あのさ。西森さんて、結局その、さよならを教えてもらったの?」 「ん? ああ、どうなんだろうね。そこは聞いてないや。今度、聞いとく」  はあ、これは聞かないパターンだな。にしても、何でさよならなんて教えてもらいたかったんだろう。まあ、少なくとも僕より西森さんを知ってる彼女が分からないって言っているんだから、出会ってから、まだ日の浅い僕が、いくら考えても分かりっこないか。 「じゃじゃーん」  今度は何だ?  彼女は、机の上に何かを広げていた。それには僕も見覚えがあった。僕がもらっていたのとは少し形が違うけれど、これはテスト結果というやつだ。どうやら、これを見ろということらしい。自信満々に出してきたけれど、もしかして、ものすごく成績がいいのかな? 西森さんは、そんなふうには言っていなかったけれど。僕に見てみなさいと目で促している。どれどれ……。  これは!  ……僕は絶句した。僕以上に壊滅的な成績だ。ほとんどの教科が、レッドラインを超えそうだったり、越えてしまってたり。もちろん、悪いほうの意味で。安心できる教科は、残念ながら何一つない。西森さんは、嘘は言っていなかった。でも、ここは嘘であってほしかったような気がする。後々のことを考えると余計に。 「これは……、なかなかすごいね」 「それほどでも」 「いや、褒めてないから」 「てへっ」  そう言って、彼女は舌を出した。それがあざとかわいいのが少し悔しい。 「広江さんは……」 「広江さんはやめようよ」 「だって広江さんじゃん」 「ちゃんとトワっていう名前がありますー」 「じゃあ、トワさん。ん? 何かこれは感じが違うなぁ。トワちゃん? いやいや、ちょっと子どもっぽい感じがするし……」 「先生、全部声に出てるってば」  見ると冷ややかな目で彼女が僕を見ていた。 「え、えーと」 「ト、ワ!」 「え?」 「だからさあ、ちゃんとか、さんとか付けずに呼び捨てにしてよ」 「え? それはどうなんだろ?」 「大丈夫。みんな、そう呼ぶから」  みんなって誰だよ? それって同級生とかじゃないのか? 「あ、でも勘違いしちゃだめだよ。それ、犯罪だから」  そこは念押しするんだ。さすが抜かりがない。 「……分かった」 「で、何だっけ?」 「ああ、トワは……」  違和感あるなあ。出会ってすぐに名前で呼び捨てなんて。 「はい、そこ照れない。照れてると、こっちまで恥ずかしくなるから」  はい。異議なく首肯する。完全にイニシアチブは彼女のほうにあるな。一応、先生なんですけどね、僕。 「トワは、どうするの? この成績」  あ、いろんなことが目まぐるしく起こったせいで言葉の選択を間違えた。 「おお、初対面なのにずけずけ言うねえ、先生」 「あ、ご、ごめん」 「ははは。いいよいいよ。ほんとのことだから」  一瞬、怒らせちゃったのかと思った。気を付けなくちゃ。慎重に、冷静に。あとノリに流されないように。 「まあ、正直引くよね。この点数じゃ。私的にはさあ、自分は、やればできる子だと思うんだよね。でも、バスケが忙しくて勉強する暇がないんだよね」  そのとき一瞬、世界が静止した。 「バスケ?」 「うん」  久し振りに聞いたその言葉に、少し鼓動が早くなる。 「部活?」 「そう。これでも私、キャプテンやってるんだよ」 「ふーん」 「何? 気のない返事」 「あ、いや、そういうわけじゃないんだけど」 「楽しいよ、バスケ。あ、もしかしてバスケに何か嫌な思い出でもあるの?」 「いや、別に……」 「好きだった子がバスケ部で、その子に振られたとか?」 「そんなんじゃないから」  自分でも驚くくらい、低い声で威圧的な言い方だった。今度はトワが一瞬静止する。 「そんな怒んなくても」 「あ、いや、ごめん。何でもない。ほんと何でもない」  必死に取り繕ったけれど、彼女には、僕がどんなふうに映ったか。 「私、すぐ調子に乗っちゃうからさあ。ごめんね」 「いや、今のは僕が悪いから」  一気に雰囲気が悪くなった。僕のせいだけれど。話題を変えなきゃ。 「で、どうしよっか? 僕も成績いいほうじゃなかったんだけど、トワよりは少しはましかなってくらいで」 「そうなの?」  彼女は、何事もなかったかのように返事をしてくれた。こういうの、すごく助かる。彼女のほうがよっぽど大人だ。 「うん。だから西森さんにも、僕じゃ無理だって言ったんだけど……」 「でも、先生も東大でしょ?」 「え?」 「え? 違うんだ」 「西森さんには、僕が東大なんて一言も言ってないけど」 「あ、そうなんだ。違うんだ。てっきりカナちゃんと同じかと思ってた」 「いや、西森さんとは、インカレで知り合ったから……。え? 彼女、東大なの?」 「そうだよ」  トワは、何を今更というふうな顔で僕を見た。西森さんて東大だったんだ。確かに、どこの大学に行っているかなんて聞いていなかった。まあ、この前の状況なら、聞いていても僕がちゃんと覚えていたかどうかは怪しいけれど。しかし、これは僕にとって、かなりの衝撃的事実だった。だって、彼女が東大生なんだったら、彼女が家庭教師をすればいいじゃないか。普通、そう思うはずだ。その驚きと疑問が顔に出ていたのかもしれない。トワが、僕に確認するように言った。 「あー、カナちゃんが東大生なんだったら、カナちゃんが家庭教師やればいんじゃね、とか思ってる?」 「思ってる」 「まあ、思うよね、普通」 「うん。何も僕なんかに頼まなくても」 「僕なんかって言うな」 「え?」 「必要以上に自分を過小評価するなって言ってんの」 「ああ、ご、ごめん」  急に怒られて謝ってしまった。でも、確かに東大って聞いて、少し卑屈になっていたのかもしれない。初対面なのに、そういうところ、見逃してくれないんだ。まあ、ありがたいことなんだろうけれど。 「カナちゃんはね、駄目なんだよ」 「何が?」 「うちのお母さんもさあ、カナちゃんにって、お願いしたんだけどさあ。カナちゃんて、天才肌っていうか、本人はすごく頭いいんだけど、きっと他の人にうまく教えられないんだよね」  ああ、天才の話題になるとよく聞く話だ。スポーツの世界なんかでも、前人未到のものすごい成績を残した選手が、毎年ぶっちぎりで優勝するような、ものすごいチームを育成する指導者になれるかといったら、必ずしもそういうわけじゃない。それは過去の歴史から結果がはっきりと出ているから、天才じゃない僕らにも分かりやすい説明だと思う。 「何が分からないのかが、分からないって感じ?」 「おお、それそれ!」  トワは、満面の笑みで僕を指さしながらそう言った。そういう話ってよく聞くけれど、本当にそうなのかな。本当の天才っていうのは、人に教えるのも上手なんじゃないかな、なんて思ってしまう。まあ、僕の周りに天才とかいたことがないから分からないけれど。ていうか、そもそも天才の定義なんて分からないし。 「ふーん」  そうとしか言いようがなかった。僕の言葉をまねてトワも続いて言った。 「ふーん」  何だそれ。でも、どうしよう、これから。 「ま、そういうことだから、よろしくお願いしますよ、先生」  いや、何がそういうことなのか、全く分からないんだけれど。 「私は、やればできる子だから、……きっと」  最後のほうは、声が小さくなって何を言ったのかよく聞こえなかった。 「やればできる子ねえ……」  それって、絶対にやらない人が言うセリフだよね。え? まさかのフラグ?  見るとトワは、両目をつむった最高にかわいい笑顔でサムズアップしていた。こんな顔を見ると、もう仕方ないなあって思ってしまう。ほんとに、かわいいって正義だな。でも、もう一度、西森さんに会って、ちゃんと話したほうが良さそうだ。そこだけは揺るがなかった。
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