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紘川純1
その日、僕は、変な少女に捕まった。
五月の連休明け、日本中に憂鬱感が蔓延している月曜日の朝。僕は、暗い気持ちの自分を何とか奮い立たせて学校に向かっていた。連休初日のあの高揚感はどこへ行ってしまったのか。半分を過ぎたあたりから残りの休みを数えるようになり、最終日の昨日に至っては、夢も希望も枯れ果てた消し炭のようになっていた。特段、連休の前半に何かを必死になってやっていたというわけでもないのに。
高校までの通学路にある公園に、その変な少女はいた。信号待ちで何気なく公園のほうに目をやると、大きなマスクをしてハンチング帽を深くかぶった、見るからに怪しい少女が、公園の木の下で、これまた見るからに怪しくきょろきょろと四方を見回していた。
何だ、あれは?
暖かくなると変な人が出てくると言うけれど、その類だろうか。君子危うきに近寄らず。巻き込まれないようにしなくては。僕は、信号が青に変わったのを確認して横断歩道を歩きだそうとした。そのときだった。
「あー、ちょっと、君。そこの君」
大きな声に反射的に振り返ってしまった。誰かを呼んでいるみたいだ。一瞬だけチラ見して、また歩き出そうとする。
「あー、こら! 無視すんな!」
え?
もしかして僕のこと?
もう一度振り返り少女のほうを見る。少女は僕のほうを見ている。念のため、ん? という感じで首を傾げてみる。
「そう。君のことだよ」
「……何か?」
「え? 遠くて聞こえない。ちょっとこっちに来てよ」
少女は、右手を挙げて僕を呼んだ。何だろう? 知り合いではないと思うんだけれど……。僕は、首を傾げながら少女に近づいていった。自然と警戒心が増していく。
近くまで行くと、遠目に見たときよりも、少女の背がずっと低いことに気付く。まあ、女の子だしな。いったい幾つくらいなんだろう。小ぎれいなスーツっぽい恰好をしているけれど。でも残念なことに、その小ぎれいな格好は、目深にかぶったハンチング帽と顔を隠している大きなマスクのせいで、大人びて見えるどころか、一層怪しさを際立たせているだけのアイテムになっていた。
「ちょっと、お願いがあるんだけど」
「お願い?」
「そう。あの子をレスキューしてくれないかなぁ」
そう言うと少女は、振り返って木の上を指さした。そこには、明らかに降りられなくなって右往左往している子猫の姿があった。
「私、背が小さいから届かなくて」
なるほど、そういうことか。一気に僕の中で大きくなっていた警戒心が解けていく。きょろきょろしていたのは、誰かに助けを求めようとしていたってわけか。
いや、ちょっと待て。
きょろきょろしていた理由は分かったけれど、子猫を助けることは、その怪しい恰好の説明にはなっていない。僕は、再度少女を見た。
「何? 早く助けてあげてよ。そうしないと、あの子、落ちちゃうから」
うーん、やっぱり、どう見ても怪しい。でも、今は少女の言うように子猫を助けることのほうが先決だと思う。僕はリュックをその場に置いて、木の枝に手を掛けた。木登りなんていつ以来だろう。若干の不安がよぎる。幸い子猫が登っていたのは、そんなに上のほうではなかったから、すぐにたどり着いた。手を伸ばして掴むと、子猫はミャーミャーと鳴いて抵抗した。でも、ここは我慢してもらうしかない。どちらかといえば、僕は猫派なので、そのあたりを分かってもらえるとありがたい。
少し手間取ったけれど、何とか無事に子猫を掴んで降りてくることができた。相変わらずミャーミャーと鳴いている子猫を少女に差しだす。
「おおー、ありがとう」
少女は、僕から子猫を受け取り抱きかかえた。けれど、ほんの数秒もしないうちに激しい抵抗にあい、「のわっ」という意味不明な声とともに手放すことになった。地面に降り立った子猫は、ミャーミャーと鳴きながら、公園の端に走っていき、頭から茂みに突っ込んだ。と思ったら、すぐに、ひょこっと顔を出した。子猫の後ろからもう一匹。母猫だろうか。そして再び二匹は茂みに潜り込み、今度こそ本当に見えなくなった。
その一部始終を見ていた僕は、猫たちが茂みの向こうへ消えると、自然と少女と顔を見合わせて笑った。
「君はどうやら猫に嫌われているみたいだね」
「そんなことないし。私、断然猫派だし」
「向こうは君派じゃないみたいだけど」
「うるさいし」
「ははは」
少女は子猫の行動に憤慨した様子だった。いや、憤慨したのは僕の言葉に対してかな? いずれにしても、目の前のこの少女は、見た目こそ怪しいけれど変な人物というわけではなかったようだ。ただの猫好きの少女。といっても猫のほうは彼女を嫌っているんだけれど。そういう人、いるよね。こっちは好きなのに理由もなく嫌われるという。でも、理由もなくっていうのは少し違う気がする。きっと猫たちなりの理由があるんだと思う。もちろん、それは僕たち人間には分からないことなんだけれど。
おっと、学校に行かなくては。連休明け初日から遅刻なんてしたら、きっと校門で手ぐすね引いて待っている生活指導の先生にがみがみとねちっこく叱られる。ようやく新しい学校にも慣れてきた頃だっていうのに。
「じゃ」
僕は、地面に置いてあったリュックを拾い上げて、少女に別れを告げようとした。だが、少女は僕をさらに引き留めた。
「ちょっと待って」
「まだ何かあるの?」
「ある」
一体これ以上何があるというのか。今の子猫を助ける一連の流れは、連休明けの淀んだ気持ちを立て直すには、いいカンフル剤になった。思わぬところでリフレッシュできたと思う。それについては、この少女に感謝をしなくてはいけないのかもしれない。でも、そのエピソードもめでたく終わりを告げた今、それ以上の新たなエピソードが起こるわけもなく。なので、できれば僕は、速やかに学校に向かいたい。僕は会話を手短に終わらせるべく、少女に続きを促した。
「何?」
「私と付き合ってよ」
「え?」
「私と付き合って」
「どういうこと?」
「そのまんまの意味だよ」
「そのまんまの意味って?」
「君が私と付き合うってこと」
「いや、そうじゃなくて」
「他にどんな意味もないよ」
「だからそうじゃなくて。これからどこかへ行くの? ごめんだけど、僕はこれから学校に行かなくちゃいけないから」
「違う、そういう意味じゃない」
僕には少女の言っていることが分からなかった。
「じゃあ、どういう?」
「私と交際してほしいって言ってんの」
「へ?」
この少女は何を言ってるんだ?
偶然、今、初めて会った僕に交際を申し込むって、まるで意味が分からない。論理破綻している。やはり、見た目どおり怪しい人だったのか? どういうつもりなんだろう。何か目的があるんだろうか。そりゃあ、偶然出会って、子猫を助けてって、映画や小説だと、すごくドラマチックな出逢い方だとは思う。でも、現実には、そんなことが起こるはずはなく、むしろ現実に起こると、ものすごく空恐ろしいという。今、まさに、僕の気持ちはそういう状態だ。
一度は小さくなっていた恐怖心と警戒心が、再び僕の中に沸き起こってきていた。これは危険だ。絶対にやばい事案だ。すぐに立ち去らなければ。僕は、少女の顔を見つめたまま、少しずつ後ずさっていった。それに気付いたのか、少女は、僕を呼び留めた。
「待ってってば。紘川くん」
え? 今、僕の名前を呼んだ?
「どうして僕の名前を?」
少女は、微笑むだけで僕の問いには答えなかった。いよいよ怖い。
「君は、僕のことを知っているのかもしれないけれど、僕は、君のことを何も知らない」
「そうかなぁ?」
「そうだよ。だって今、初めて会ったわけだし。だから急に付き合ってとか言われても、そういうのは、ちょっと……」
少女は、僕が全部言い終わらないうちに、深くかぶっていたハンチング帽を脱いだ。帽子の中にまとめていた黒髪が、少女が軽く首を振ることで、シャンプーのCMみたいにきれいに肩口に広がった。そして顔を隠していた大きなマスクを外すと、僕を見て小悪魔的に笑った。
あ。
僕はこの少女のことを知っている。
国見あり紗――天才と言われている伊瀬武史監督が撮った映画「海の彼方に見えるもの」で銀幕デビューし、フルヌードをも辞さないその体当たりの演技が評価され、去年の新人賞を総なめにした実力派若手女優。いずれ映画界を背負って立つだろうと呼ばれている逸材。その国見あり紗がどうして僕の目の前に?
「私のこと、知ってる?」
彼女は、まるで、これでも知らない? というふうに言った。
「知ってる。でも、どうして……」
確か、国見あり紗は、デビュー作の映画以降、メディアに一切姿を現さず、新人賞の授賞式のときもマネージャーが代理人として出席していた。それが、この春以降、急にテレビやCMに出演しだしたということで、当初、メディアに露出しなかったのは、事務所の戦略だったのかとか、それとも何か重大な事情があったのか、などといった様々な憶測が飛び交っていた。メディアに露出していなかった頃ならまだしも、今は間違いなく毎日と言ってもいいくらい頻繁にテレビで見る有名人だ。その彼女がどうして……。
「ずっと君を捜してた。後悔を消すために。だから、私と付き合って」
国見あり紗は、もう一度言った。まるで意味の分からない理由を付けて。
それは、自分が女優の国見あり紗であるということを全身で表現しているかのような言い方だった。少なくとも僕にはそう見えた。もしかしたら、彼女にそんな意図は全くなかったのかもしれないけれど。僕は、何も答えることができずに、ただ茫然と彼女のことを見続けていた。
五月の連休明け、まだ夏というには少し早い、この山陰の小さな街に、大きな嵐がやって来る。なぜだか僕は、漠然とそんな気がしていた。
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