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間宮裕貴5
「俺とおまえのどちらかがレギュラーになれなくても恨みっこなしだからな」
部活に向かう途中、葉介が俺に言った。
「分かってるって」
俺は、その言葉に短く了解の意志を込めて返した。そんなことは、もうずっと前から分かっている。葉介のやつ、何で今さらそんなことを。縁起でもないから、今、そういうことを言うのはやめてくれ。
今日は、大会のレギュラーが発表される日だ。今日まで三年間、がむしゃらに練習してきたことに対しての通知表が渡されるような気分だ。もちろんレギュラーになれなかったからといって、何もかもが終わってしまうわけじゃない。だが、現実的には、レギュラーと控えの差は大きい。当たり前だが、控えになってしまうと試合に出ることはできない。出場のチャンスが巡ってくるかどうかは、神頼みだ。いや、監督頼みか。
それに俺にはレギュラーにならなきゃいけない理由がある。レギュラーを勝ち取って、晴れて雛川に告白する。その後のことは、どうなるか分からない。返事は、大会が終わってからでもいい。駄目なほうの返事なら、雛川は、大会が終わってからにしようと考えるかもしれない。それとも、はっきりしない状態で試合に出るのはプレーに影響が出るかもしれないからと、どちらの返事だったとしても、大会前までに答えようとするだろうか。どっちにしても、それも全部、俺が今日の発表で名前を呼ばれなければ始まらないことだ。
レギュラー発表は、今日の部活練習の最後に。事前に監督から、そう予告されていた。だから、みんな練習では平静を装っているが、内心気が気じゃないはずだ。俺や葉介だけでなく、他のみんなも。運命を分ける瞬間がいつなのか決まっていて、徐々にその時が迫ってくるというのは、どうしてこんなにも人を落ち着かない気持ちにさせるんだろう。徐々に心が締め付けられていく。だんだん上手く息ができなくなってくる。ある日、何の予告もなく、それこそ何の心の準備もできていないうちに、大きく運命の振り子が振られるほうがましなんだろうか。あらかじめ発表の時を予告されていたから、そんなふうに思うのかもしれないが、今日のみんなは、どこか浮き足立っているように見える。
その日の練習も終わり、部員全員がグラウンドに整列させられた。いよいよその時だ。ニコニコしている者、笑おうとして笑えていない者、無口を貫いている者、うつむいて顔を上げない者、そこには、運命の時を待つ者たちの様々な顔があった。俺は、思いのほか他のやつらよりは冷静だったのかもしれない。そんなみんなの顔を見る余裕があったんだから。
そして、その時は来た。
「5番、間宮裕貴」
呼ばれた!
俺は、心の中でガッツポーズをしながら、それでも冷静を装って監督の前に進み出た。監督からユニフォームを受け取り、その感触をしっかりと確かめる。何度も触ったことがあるはずなのに、今、受け取ったユニフォームは、何だか今までとどこか違う感触がした。俺は、この先ずっと、この感触を覚えているのかもしれないな。そう思った。
「やったな」
列に戻ると、後ろに並んでいた葉介が短い言葉で祝ってくれた。選ばれない者もいるこの場で大げさに喜んだり祝ったりはできない。だから、俺も短く一言だけ「おお」と返す。
その後もレギュラー発表は続いた。だんだん残り人数が少なくなっていき、最後の一人の発表を待つのみとなった。そして……。
最後まで葉介の名前が呼ばれることはなかった。
葉介は、レギュラーどころか控えにも選ばれなかった。ミーティングが終わった後、俺は、葉介のほうを見ることができなかった。自分がレギュラーに選ばれたことのうれしさよりも、葉介が控えにも選ばれなかったことのどうしようもない気持ちのほうが俺を支配していた。そんな雰囲気を察したのか、誰と話すわけでもなく、ただ、ぼーっとつっ立っている俺に葉介が声を掛けてきた。
「裕貴、おめでとう!」
俺は、どう返していいか分からずに小さく頷いた。
「あーあ、俺の高校サッカーが終わっちまったぜよ」
こんな時、いったいどんな顔をしたらいいんだろう。どんな顔をしても不正解なような気がする。そして、葉介は、そんな俺の不正解の顔を見て、それで正解だよっていう感じで笑うんだ。
「そんな顔すんなって。恨みっこなしって言ったじゃねーか」
「葉介……」
「これで受験勉強に身が入るってもんだ。あ、もちろん、大会が終わるまでは、しっかりサッカー部するからな。おまえの応援も任せとけ」
葉介は、そう言って笑った。その笑顔が、どうしても悲しそうに見えるなんてことは絶対に言えない。レギュラーになった俺は言っちゃいけないんだ。グラウンドでは、似たような光景が、そこかしこで繰り広げられていた。今日まで一緒に頑張ってきた仲間たちだからこそ気心も知れてる。だから余計に分かってしまう。葉介たち、控えにも選ばれなかった三年生の部員は、みんな、そろって同じような顔をして笑っていた。
ひとしきりそんな光景が繰り広げられた後、俺は、最後までグラウンドに残って気持ちを切り替えていた。そう、俺は、レギュラーになったら雛川に告白するという自分自身に課した誓約を果たさなければならない。雛川は、まだ残っているだろうか。雛川は、さっきのレギュラー発表のとき、部員同様、他のマネージャーたちと一緒にグラウンドに整列していた。でも、今は姿が見えない。いつも三人で一緒に帰っていた俺たちだったが、さすがに今日は気まずい。でも、だからといって今日だけ別々に帰るというのも逆に変に気を遣っていると思われるだろう。雛川は、いったいどうするんだろう。
よし、俺は、自分に願を掛けた。雛川が残っていたら、今日、告白する。不思議だけれど、そう決意すると、自然と勇気が湧いてきて体が動いた。俺は、取りあえず着替えるために部室に向かった。早々に着替えて帰ろうとしているやつらとすれ違う。
「なあ、雛川見なかった?」
「雛川? ああ、さっき部室のほうに行ってたぜ」
「サンキュ」
俺は、軽く手を挙げて礼を言うと、部室に向かった。目的の人物に近づいていると思うと、俺の鼓動は段々早くなった。レギュラー発表の時よりも息苦しい感じがする。
「おお、間宮、お疲れ」
「お疲れ」
すれ違う部員たちと言葉を交わしながら進む。部室のほうからは、後輩のマネージャーが二人でやって来た。俺を見て何か言いたそうにしている。
「何?」
「あの……今は、部室には行かないほうが……」
「何で?」
二人は、俺の質問に、お互い顔を見合わせて、そろって困ったような顔をした。何だ? 部室で何か起こってるのか? 俺は、それきり何も言わない二人に背を向けて部室に向かった。後ろで二人が「あっ」という短い声を上げたのが聞こえた。
部室の前まで行くと、入り口のドアは少し開いていた。いったい何が起こっているんだ? 俺は、ドアの隙間から部室を覗き込んだ。
そこには葉介と雛川がいた。
ベンチに座って両手で顔を押さえて泣いている葉介を、雛川が優しく抱きしめていた。
その光景を見た瞬間、俺の体温は急速に下がっていった。俺の中にあった何かが急激に音もなく、さーっと引いていくのを感じた。
「俺さ、頑張ったんだぜ」
「知ってる。室井くんが頑張ったのは、私、知ってるよ」
「なのにさ」
「大丈夫、私がいるから」
俺は、それ以上、その場所にいることができなかった。不思議と痛みはなかった。なぜかやけに頭はクリアだった。今、歩いてきた部室までの通路を逆戻りしていく。途中で、さっきの後輩マネージャーたちと会った。
「大丈夫でしたか?」
「うん、大丈夫。サンキュ」
それは誰に対して言った言葉なんだろう。それよりも今の俺は、うまく笑えていただろうか。そんなことのほうが気にかかる。俺は、片手にレギュラーの証であるユニフォームを抱えたまま学校を後にした。どこをどんなふうに歩いたのかは分からない。気が付くと、公園のベンチに座り、夜空を見上げていた。
自分でもおかしくなるくらい、自嘲気味に大きなため息をつく。これじゃあ、まるで悲劇のヒーローだな。ヒーロー? 俺は、ヒーローか? 一旦そう自分に疑問を持つと、自分という存在が、どんどんちっぽけなもののように思えてきた。俺は、いったい何のために……。何だか、俺、バカみたいだな。
でも、いつからなんだろう。いつから二人は……。こういうのを試合に勝って勝負に負けたって言うのかな。いや、そもそも俺と葉介は勝負をしていたわけじゃない。俺は、葉介に、雛川への気持ちをはっきり言ったことはない。でも、もしかしたら、葉介は、俺の気持ちに薄々気付いていたのかもしれない。逆に俺は、葉介が雛川のことをどう思っているかなんて、あまり考えたこともなかった。いつかのスポーツ店に出掛けたときだって、雛川が葉介と二人きりで出かけるのを嫌がっていたから、大丈夫だと思っていた。心のどこかで葉介は大丈夫、そう安心していたんだ。何の根拠もなく。考えてみれば、何も不思議なことじゃない。同じように一緒にいて、同じように部活が終われば一緒に帰って。葉介が雛川といた時間は、俺と変わらない。もしかしたら、俺よりも多かったのかもしれない。そんな二人が、ああなったとしても何もおかしくはない。
頭の中をそんな思いがぐるぐると回り続ける。何か遠くのほうから大勢の人の声が聞こえてくる。ああ、また例のデモでもやってんのかな。実は、こんなふうに色々と考えていても、頭の中では、さっき見た雛川が葉介を抱きしめている光景がずっと居座ってて消えてくれなかった。そしてなぜかその光景を巻き戻しては再生している自分がいた。まるで自分に痛みを刻み付けようかとするように。
今日は、このまま帰るか。制服もカバンも部室に置きっぱなしだけれど。今から部室に戻る気にはなれない。二人に会うのは避けたい。今日ぐらい許してくれるだろ。あ、でも、財布も定期も全部カバンの中だった。歩いて……は、さすがに無理だな。どうしよう。俺は、天を仰いだ。
ふと向かいのビルに視線を移すと、大型ビジョンに美好涼子が映し出されていた。化粧品のCMだ。
『この夏は、目元すっきりメイクであなたもクールに』
宣伝文句をうたいながら華麗にポージングしている。俺は、この前、学校に現れて大騒ぎした美好涼子を思い出した。何かテレビで見るのと全然違ってたな。実物は、すごく嫌なやつだった。大型ビジョンに映るきれいで格好いい美好涼子と、この前、学校で見た実物を頭の中で比較し、フッと笑った。
「やっぱ感じ悪いわね、あんた」
声のしたほうを見ると、サングラスにマスク、そして帽子をかぶった怪しい女が立っていた。ちらっとだけ見て、見ていない振りをする。こんなのに関わるとろくなことがない。それに今はそんな気分じゃない。しかし、その女は、ご丁寧に俺の目の前まで歩いてきて仁王立ちすると、サングラスをずらして俺を覗き込んだ。
あ、美好涼子だ。
「あんた、泣いてるの?」
美好涼子にそう言われるまで気付かなかったが、どうやら俺は泣いていたらしい。
「こんな時間に一人で公園で泣いてるとかキモいんだけど」
「だな」
ああ、うっとうしい。嫌なタイミングで嫌なやつに出くわした。美好涼子も無視してくれればいいのに。なんでわざわざ声を掛けてくるんだ。
「ここで何してるの?」
「別に」
「あんた、ほんっと感じ悪い」
「じゃあ放っておいてくれ」
「そうしたいのはやまやまだけど、あんたにここにいられると邪魔なのよ」
「何で?」
「これからここでロケがあるから」
「ロケ?」
「そ、ドラマのロケ。分かったら、どっか行ってくんない?」
「そっか、悪かったな」
俺は、いちいち相手をするのも面倒になって、そこから退散することにした。ドラマのロケか。あいつ、本当に女優なんだな。当たり前だけど。性格悪くても女優にはなれるんだな。これも当たり前だけど。立ち上がり、公園を出ていこうとした俺に美好涼子が声を掛けた。
「あんたさあ、もしかして女に振られた? あ、分かった。雛川麻衣に振られたんでしょ?」
俺は、振り返らなくてもいいのに、なぜか振り返ってしまった。女の勘て怖いな。そしてまた意味もなくフッと笑った。美好涼子は、俺のその顔を見て「キモっ」と一言だけ言った。その言葉に傷ついたわけでもないのに、なぜだか心に痛みが走った。くそっ、今ごろになって。明日から二人に会うのが憂鬱だ。遠くのほうでは、まだデモの声か何か分からない大勢の人の声がしていた。
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