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紘川純6
その日は、校舎の屋上での撮影だった。国見あり紗は、あの日の宣言どおり、あれからそんなに日を空けることなく僕たちの前に現れた。本当に自分の仕事を減らしたのかもしれない。それは僕たちにとってものすごくありがたいことだった。でも、やっぱり、彼女がそこまでする理由は分からない。それがどうしても僕の中で消化しきれなくて、もやもやとした気持ちは日増しに大きくなってきていた。
「じゃあ、私、部室に行って取ってきます」
「ごめん、お願いするよ」
「はーい、任せてください」
武田さんが、撮影に使う小道具を取りに部室に走っていった。部室といっても視聴覚室の一角だけれど。もともとその小道具も使う予定はなかったんだけれど、国見あり紗が、このシーンでは使ったほうがいいんじゃないかと提案したので、武田さんも含めた三人で話し合った結果、使うということに決めた。
国見あり紗は、よくこういった提案をしてくれる。僕は、自分が絶対だなんて思っていないし、彼女の言うことは、プロの女優だからか妙に説得力があった。それに不思議と僕の好みもちゃんと抑えていた。台本を読んだだけで、監督の好みまで把握するなんて、プロの女優さんは、誰でもみんなそういう感じなのかな。ほんと、すごいなって思う。でも、だからこそ、彼女が高校の映画研究会ごときが撮影する自主製作映画のために、自分の仕事を減らすと言ったことが理解できない。
「ねえ、ちょっと聞いてもいい?」
「ダメ」
「じゃあ、いい」
「うそうそ、何?」
「どうして伊瀬監督の映画に出ないの?」
僕は、武田さんがいなくなったタイミングを見計らったってわけじゃないけれど、国見あり紗に本当のところはどうなのか聞いてみた。何となく、二人っきりなら本当のことを言ってくれるんじゃないかって気がしたんだ。
「やっぱりそれか」
「だって、天才って言われている伊瀬武史だよ。僕たちの映画とじゃあやっぱり」
「ねえ」
国見あり紗は、僕の言葉を途中でさえぎった。
「君は、そんなに私の裸が見たいの?」
「え?」
彼女は、僕が全然思ってもみなかったことを言った。確かに、あのとき伊瀬監督は、裸のシーンが嫌なのか、みたいなことを彼女に聞いていたような気がするけれど。
「君は、私の映画、観てくれたって言ってたよね?」
「うん、観た」
「それでは満足できなかったってことなのかな?」
「違うよ、そんなんじゃないって」
「ほんと意外とエロじじいなんだね」
「だから違うって」
こういう場合、焦ると余計に怪しくなるってことは分かっていたけれど、それでも僕は、一生懸命そうじゃないっていうことを弁明しようとしていた。
「いいよ、分かった。特別に君にだけ見せてあげる」
「見せるって何を?」
国見あり紗は、僕の言葉を無視して、真っ白なブラウスのボタンを外し始めた。
「ちょ、何してんの?」
僕は、どんどんボタンを外していく彼女におろおろするばかりで、顔を背けて両手を前でばたばたと、典型的な慌てている人の格好になっていた。しばらくすると、彼女は「ほら、見て」と言った。僕は、うつむいたまま何も言えなかった。
「いいから見て」
僕には、彼女が何でそんなにムキになっているのか分からなかった。
「早く。茉優ちゃんが戻ってきちゃう」
僕は、恐る恐る顔を上げた。国見あり紗は、ブラウスのボタンを全部外して、胸元をあらわにしていた。下に着ていた水色の下着が丸見えになっている。そんな恰好なのに、彼女は、少しも恥ずかしそうではなく、屋上に吹く少し強い風に長い髪をなびかせて、真っすぐに僕のことを見ていた。何でこんなこと……。
でも、僕は、すぐに、彼女がこんなことをしたのが、自分の裸を見せたいからじゃないということに気が付いた。僕の視線は、彼女の体の一点に奪われていた。それは、彼女の胸じゃなくて、その少し下あたり。右の脇腹だった。そこには大きな傷があった。彼女の透き通るような白い肌にひどく不似合いな傷。僕は、その傷から目が離せなかった。すごく痛々しい。こんなにも大きな傷がつくなんて、けがをしたとき、とても痛かったんじゃないだろうかって、急に彼女のことがかわいそうになった。
「これを見られたくないんだ」
彼女がそう言うのも分かる気がする。すごく綺麗な肌なのに、なんて言ったら男目線が過ぎるって怒られるだろうか。
あれ?
でも、前の映画のときは、お腹に傷なんてなかったような。恐らく、今の映像技術ならこんな傷なんて簡単に消せるだろうけれど、そうしたのかな? だったら、何で今回は嫌なんだろう?
「ごめん、もういいよ」
「どうしてこの傷がついたか聞かないの?」
国見あり紗は、ブラウスのボタンを留めながら僕に聞いた。
「聞かないよ。人の傷のことなんて。体の傷でも心の傷でも本人が話さないのに聞いたりしない」
「心の傷でもって、君は時々そういう何だかロマンチックなことを言うよね。そういうところ、嫌いじゃないけど」
彼女は、ボタンを全部留め終えると少し微笑んだ。
「でも、見ておいてなんだけど、僕に見せてもよかったの?」
「言ったでしょ。君は特別だって。でも……」
「でも?」
「もう少し長く見てたらお金を取ろうと思ってた」
そう言って国見あり紗は、僕をからかうように笑った。なぜだか僕は、その彼女の笑顔を見て心がいっぱいになったんだ。笑っているのに少し悲しそうで。そんなふうに思うのは、やっぱり、今、彼女の傷を見てしまったからなのかな。
「前の映画を撮ったときは、この傷はまだなかったんだよ。だから、伊瀬監督も知らない。家族以外でこの傷のことを知っているのは、社長と桐野さんだけ」
家族と事務所の社長とマネージャーの桐野さん。彼女は、どうして僕に見せる気になったんだろう。彼女にとって、僕は、そんなに重要な人間というわけでもないだろうに。
「もしかして何か別のことを期待してた?」
黙り込んでしまった僕に、彼女がまた冗談めいたことを言う。それすらも雰囲気が重たくならないように、彼女なりに考えてわざと言ったんじゃないかっていう気がする。だから僕も、これ以上彼女に気を遣わせないように頑張って精いっぱい笑い返す。
「そんなことないよ。人をエロじじいみたいに」
「だって、エロじじいは間違いないじゃん」
「何でだよ」
「あはは」
「どうしたんですか? 何かすごく楽しそうですね」
武田さんが部室から小道具を持って戻ってきた。大声で笑う国見あり紗を興味津々な顔で見ている。
「紘川くんが、どうしても私の裸が見たいんだって」
「マジですか? それで見せたんですか?」
「まさか」
「ですよねー。純先輩、本当にどうしようもないエロじじいですね」
「武田さんまで……」
武田さんは、まるでごみ屑を見るような目で僕のことを見ていた。そんな武田さんを見て、国見あり紗は、一層大きな声で笑いだした。その声は、屋上に吹く少し強い風に乗って、はるか遠くまで飛んでいった。
国見あり紗は、屋上での撮影が終わると、桐野さんに連絡して迎えの車で帰っていった。恐らく、最終便の飛行機で東京へ向かうんだろう。あまりにも彼女が僕たちと普通に接してくれているから忘れてしまいがちになるけれど、彼女は、れっきとしたプロの女優なんだ。本来なら、僕や武田さんと話すことなんてないくらいの有名人なんだ。なのに有名人ぶったところがまるでない。だから僕たちも普通に話すことができる。不意にそのことに気付くと、何だかとても申し訳なくなるときがある。正直に言うと、最初に会ったときは変な人だなって思った。まあ、格好からして怪しかったから。今思えば有名人だから仕方なかったんだろうけれど。でも、話してみるとすごく気さくで優しい人だった。人気があるのもうなずける。だから余計に……。
「あの傷のことが気になっているのかい?」
僕の隣でカムパネルラが僕の心の中の想いを声にした。
「君はどう思う?」
「僕には分からないよ。でも、君が言っていたように、体の傷も心の傷も本人が話さないのなら、余計な詮索はするべきではないと思うけどね」
「そう思うだろ」
「でも、彼女は君に傷を見せた」
「つまり?」
「それは、君にあの傷を見せる理由があったからじゃないかな」
「どんな?」
「それは僕には分からないよ。ただ、もしかしたら、傷がついたのが体だけとは限らないかもしれないね」
「純先輩、そろそろ帰りましょー。もう閉めないと怒られますよー」
武田さんが、階下に通じるドアから、ひょこっと顔をのぞかせて僕に向かって叫んだ。武田さんの声は、日没が近づいて強くなってきた風に持っていかれそうになったけれど、何とか踏ん張って僕のところまで届いた。
「分かったー。すぐに行くよー」
僕も風に持っていかれないように大きめの声で答える。
カムパネルラの言ったことの意味は、僕には何となく分かる。本当に何となくだけれど。人は自分の体に傷がついたとき、その傷がどうやってついたのかを覚えている。だから、その傷を見るとその時のことを思い出す。その時ついたのが体の傷だけでなかったとしたら、思い出すことで、もう一つの傷が痛みだすんだ。他人には見えない真っ赤な血を流して。
「純先輩、早くしてくださいー。置いていきますよー」
武田さんが、またドアの横から顔を出して僕を急かす。僕は、大急ぎで荷物をまとめると武田さんのところまで走った。
「何やってたんですか? 純先輩は、そんなに荷物もないのに」
「いや、別に」
「今日は、美好涼子のドラマがあるから早く帰らなきゃいけないんですよ」
「ごめん」
「どうせまた、あり紗さんの裸とか妄想してたんでしょ」
「ちがっ!」
「純先輩のエロじじいー」
武田さんは、薄暗くなってきた夕空に大声で叫んだ。
「ちょっと、武田さん。やめてよ。そんな大声で」
「やめません。純先輩のエロじじいー」
武田さんの声は、強くなった風にも負けずに、どこまでも遠く、はるか街のほうへと飛んでいった。僕は、彼女の絶叫を何とかやめさせようと、わーわーと意味のない叫びをあげてみたが、そんな僕を見て武田さんは、より一層大きな声で叫ぶのだった。
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