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紘川純7
撮影は順調だった。一時はどうなることかと思ったけれど、このペースなら問題なく最後まで撮り終えることができるだろう。これも国見あり紗が自分の仕事を減らしてまで、この映画の撮影のために時間を割いてくれたおかげだ。彼女は、一週間のうち、半分以上はこっちに滞在しているような感じだった。当然、残りの半分は東京。仕事を減らしたとはいえ、その残り半分で、彼女は、本業である女優の取材やら撮影やらをこなしていた。
デビュー作の映画で一躍時の人になったのに、一切、姿を現さず、本当は実在しないんじゃないか、あの映画に出ている国見あり紗は、映像加工技術によって作り出された架空の人物なんじゃないかとまで言われていた彼女が、この四月から精力的にメディアに露出している。このタイミングを各メディアが逃がすはずがない。彼女は、それに対応しているんだ。すごいパワーだと思う。とても同じ十七歳だとは思えない。僕には、到底まねできない。まあ、そんな需要もないだろうけれど。
ただ、忙しすぎて、睡眠時間はあまりとれていないようだった。芸能人によくあることなのかもしれないけれど、彼女は、少し時間が空けば、どこででも寝る。それが海辺の公園でも、学校の屋上でも。あんなにすぐに寝られるのもすごい特技だと思うけれど、それだけ疲れているんだろうな。それに、そうやって短い時間で少しでも睡眠をとらないと体がもたないんだ。かといって、彼女が僕たちの映画撮影のときに、セリフを間違うことなんて一度もなかったし、本当にしっかりと登場人物の心情を理解しているなと感心するような演技、表情をする。それだけ台本を読み込んでいるんだと思う。プロの女優がどういうものかを見せつけられている感じだ。本当に尊敬の念しかない。
そうやって国見あり紗との距離が近づいていく一方で、逆に離れていく心もあった。武田さんだ。武田さんは、国見あり紗がコンスタントに現れるようになるのと逆に、少しずつ休みがちになった。その理由を、彼女ははっきりとは言わないけれど、正直、自分の中に複雑な感情があったんじゃないかなと思う。僕たちの映画は、もともと彼女が主役の予定だった。それを突然現れた国見あり紗に変更した。国見あり紗はプロの女優だし、武田さんも彼女が主役を演じることには賛成だった。でも、武田さんは、本気で女優を目指しているし、今回、撮影中の映画だって、そのための足掛かりにと思っていたはずだ。そもそも映画研究会自体、彼女が女優になるために立ち上げたものだし。
もちろん、彼女は、物事を途中で放り出すような無責任な人間じゃない。だから、この映画だって、ポイントでは必ず参加してくれている。そう、今日みたいに。皮肉なことに、国見あり紗が来られなかった前半に、武田さんの登場シーンはまとめて撮っていた。だから、後半に入った今では、彼女が少々休んでも、それほど撮影に影響は出なかったんだ。小道具とかを準備するのは、僕一人の仕事になってしまっていたけれど。
今日の撮影は、校舎の屋上。この前、国見あり紗が、僕にお腹の傷を見せた場所だ。頭上には、海を写したかのような青がどこまでも広がり、まるで夏の到来を告げているかのようだった。どこかで鳴いている海鳥の声が風に乗って聞こえてくる。最高の撮影日和だ。
「私、今日のシーンが最後ですよね?」
「そうだね。武田さんの登場シーンは、ほとんど前半にまとめて撮ったからね」
「過ぎてみれば、あっという間でしたね」
武田さんが、感慨深そうな顔をして空を見上げる。
「そんなに長時間の映画じゃないからね」
「何だか寂しいです」
「またこれからいくらでも撮れるよ」
武田さんは、僕のその言葉には答えなかった。その代わり、別の話題を口にした。
「あり紗さん、今日、来るんですよね?」
「ちょっと遅れるって連絡があった」
「そうですか」
天真爛漫なイメージの武田さんでも、物事の終わりには、やはり寂しさを感じるんだな。
「じゃあ、そろそろ撮ろうか」
「はい」
僕の呼びかけで、武田さんは屋上に置いてあるイスに座った。僕が構えるカメラをまっすぐに見つめてくる。
「純先輩、今日の私、きれいですか?」
「え? ああ、すごくきれいだよ」
「ふふ、嘘つきですね、純先輩は」
嘘じゃなかった。カメラ越しに見る彼女は本当にきれいだった。どうしてだか分からないけれど、今まで見てきたどのシーンよりも、今日の彼女はきれいだと思った。
いつものように秒読みの後、撮影を始める。
『こうして君といるのも、今日が最後なんだと思う。でも、私は、ずっと君のそばにいるから』
僕が書いたセリフを武田さんが言葉にしていく。それは、さよならのシーンだった。武田さんは、カメラを見つめながら、一滴の涙を流した。きれいな涙だった。そのまま空にパーンして、このシーンは終わりだ。
「純先輩、そのまま私を撮り続けていてください」
「え?」
「ダメです! カメラから目を離さないで!」
僕は、訳も分からず言われるままにした。今までも、いいアイデアが浮かんだときなんかはアドリブを入れることもあったから、僕は、これもきっとそうなんだと思ってカメラを回し続けた。しかし、カメラの向こうの武田さんは、自分のシャツの前ボタンを一つずつ外し始めた。まるで、この前の国見あり紗のように。
「武田さん。それはちょっと」
さすがに僕は、カメラを止めて、やめるように言った。それでも武田さんは、構わずにボタンを外していった。そして全部外し終えた後で、僕にこう言ったんだ。
「純先輩、見てください」
「見られないよ」
僕は、カメラを下げてうつむいていた。
「この前、あり紗さんの裸、見てましたよね? あり紗さんのは見れても私のは見られないんですか? 私とあり紗さん、どこが違うんですか?」
武田さんは、この前のを見ていたんだ。彼女の気持ちを、そのままにしていることを忘れていたわけじゃない。でも、僕は、心のどこかで、このままの毎日がずっと続けばいいなんて虫のいい考えを持っていたことに気付く。
「それは武田さんの勘違いだよ。あれは、そういうんじゃないんだ」
「じゃあ、何なんですか? 私のいないところで、二人でこそこそして。私、そんなに邪魔でしたか?」
「邪魔だなんて思ったことないよ」
「じゃあ、言い訳くらいしてくださいよ!」
武田さんの声が、空に響き渡る。僕は、何も答えられずに、ただうつむいていることしかできなかった。国見あり紗の傷のことは、武田さんには言えない。だから、そうしているしかなかった。誰にとっても残酷な時間が永遠のように過ぎていく。
そのとき、屋上入り口のドアが開いた。
「お待たせ!」
満面の笑みで現れた国見あり紗だったが、目の前の光景に、その笑顔は一瞬で消え去った。
「どうしたの?」
「ごめんなさい」
武田さんは、そう言い残すと開いたままのシャツを片手で押さえて国見あり紗の前を走り去っていった。
「え?」
国見あり紗は、状況が理解できずに、驚きの表情のまま僕に顔を向けて説明を求める。黙っている僕に走り寄ってきた彼女は、何があったのか、ちゃんと説明するように言った。
「この前、君が僕に傷を見せたときのことを見ていたらしいんだ。それで勘違いして……」
「何で本当のことを言わなかったの?」
「言えないよ。君は、あのとき、僕は特別だからって言ったじゃないか」
「ばかっ! 私のことなんていいのに。早く追いかけて」
僕は、答える代わりに首を横に振った。彼女を追いかけていって、それで追いついたとして、僕にいったい何ができるというんだろう。彼女の気持ちをそのままにし続けていた僕に。彼女の気持ちに応えることのできない僕に。今、追いかけていくのは、自分が優しい人間だということを、自分自身に言い訳するためだけのものだ。そんなものは優しさとは言わない。本物じゃない優しさは、かえって人を深く傷付けるんだ。
武田さんは、僕に自分の気持ちを伝えたあの日から、ずっと思い悩んでいたのかもしれない。僕は、彼女が何も言わないのをいいことに。
「ねえ、紘川くん。今、追いかけないと、茉優ちゃんには二度と会えないかもしれないよ。本当にそれでもいいの?」
国見あり紗は、真剣なまなざしで僕を見た。
「もし、二度と彼女に会えないんなら、それは、全部僕のせいだよ」
「そうじゃなくて、私は、ただの勘違いで終わっちゃっていいのって言ってるの」
そこまで言われても、僕には武田さんを追いかけることはできなかった。
「分かった。私が追いかける。紘川くんは、ここで待ってて」
国見あり紗は、持っていたバッグを投げ捨てると、そのまま武田さんを追いかけて、ほんの数秒前に自分が現れたドアの向こうへと消えていった。ドアの向こう側からは、階段を急いで降りていくパタパタという足音が聞こえていた。
僕は、どうして彼女がそこまで一生懸命になるのか分からなかった。武田さんの誤解を解くなら、彼女のお腹の傷のことを話さなくちゃいけなくなる。あの傷のことは、彼女自身が誰にも見られたくないと言っていた。だから伊瀬監督からの出演オファーも断っている。それなのに彼女は、傷のことを武田さんに話してまで誤解を解こうとしている。
どうして?
僕のために?
どうして彼女がそこまでする必要がある?
「それは、彼女が、あの女の子に本当の君を知っていてほしいと思っているからじゃないかな」
カムパネルラは、国見あり紗が乱暴に投げ捨てたバッグを拾い上げると、それを僕に渡した。
「本当の僕って?」
「本当の君のことを分かってくれている人間なんて、そうそう多くはいないと思うよ。彼女は、きっとその一人なんだよ」
彼女が本当の僕のことを分かってくれている人間の一人?
僕には、カムパネルラの言うことが、今一つよく分からなかった。それよりも、女の子を泣かせて、その後始末も別の女の子に任せて、自分は何一つできずに、ただ任せた女の子の帰りを待っている。そんな自分が、ひどくどうしようもない人間のように思えた。ああ、僕は、もう二度と武田さんには会えないんだなって、何となく、そんな気がした。
どのくらいの時間、僕は、国見あり紗を待っていただろう。彼女が再び屋上のドアを開けて現れたとき、辺りはもう、すっかり薄暗くなっていた。確か、武田さんの最後のシーンを撮っていたときは、まだ真っ青な空が広がっていたはずだ。
国見あり紗は、僕と目が合うと小さく首を横に振った。そのまま僕のところまで歩いてきて、コンクリートの床に座る。
「ごめん、追いつけなかった。結構、色んな人に聞いてあちこち捜したんだけど見つからなくて」
「うん、ありがとう」
こんな時間になるまで、ずっと彼女を捜してくれていたのか。その間、僕は、ここで何もできずに途方に暮れていただけなのに。
「こっちこそ、ありがとう」
「僕は、君にお礼を言われるようなことは何も」
「黙っててくれたんでしょ。私の傷のこと」
「ああ、それは……」
「しかし、君は、相変わらずだね」
「相変わらずって?」
「相変わらず鈍感だし不器用だ」
いつもなら、そんなに言わなくてもと言い返すところだけれど、今は、とてもそんな気分にはなれない。彼女の言ったことは、全部そのとおりだし。
「でも、私は、君のそういうところ……何でもない」
国見あり紗は、言いかけた言葉を途中まででやめた。
「ごめんよ、僕のために」
「私がしたくてしたことだから。私のせいで誤解したままっていうのも嫌だったし」
そう言って空を見上げた彼女は、急に「あっ!」と声を上げた。ほぼ同時に彼女のバッグから携帯の振動音が聞こえてくる。
「どうしたの?」
「やばいかも」
「何が?」
「私、あれに乗る予定だった」
彼女が見上げている空には、一機のジャンボジェット機が、東に向かって真っすぐに飛んでいた。一呼吸置いた後で、僕たちは、かなり薄暗くなってきた夕闇の中で、お互いに顔を見合わせた。そして僕は言った。
「取りあえず電話に出たほうがいいんじゃないかな」
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