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間宮裕貴7の1
その日は、久し振りに雛川が学校に現れた。いつ以来だろう。少し前から、ちょくちょく休むようにはなっていたが、こんなに長い間、登校しなかったのは初めてだ。雛川の友だちに聞いても理由は知らないという。ていうか、どちらかというと、俺や葉介は、逆に休んでる理由を聞かれることのほうが多かった。雨野のことを聞いていた俺は、さすがに心配になって葉介に何か知っているか聞いてみたら、「大丈夫なんじゃね」という、いかにも葉介らしい軽い返事が返ってきた。それでも心配だった俺は、とうとう我慢できずに、直接、雛川に連絡してみた。だが雛川は、電話に出なかった。その日の遅くに掛け直してきて、俺にどうしたのかを尋ねた。久し振りに聞く雛川の声は、少し疲れているようだった。心なしか、その話し方に冷たさを感じるのは、俺に被害者意識じみたものがあったからだろうか。俺が手短に、みんなが心配していることを告げると、雛川は、電話の趣旨を予想していたのか、まるで準備してあったような言葉で答えた。
「何も心配しなくていいよ。それに雨野くんのことは全然関係ない」
雛川は、俺が雨野の名前なんて一言も言っていないのにそう付け加えた。俺の考えていたことも、すっかり見透かされていたみたいだ。一瞬の沈黙に、気まずさを覚える。以前みたいに普通に話せなくなっていた。
「ごめん、ちょっと急いでるから」
雛川は、そう俺に告げると一方的に電話を切った。そこには、正直、ほっとしている自分がいた。そして、電話してしまったことを少し後悔している自分もいた。
だが、こんなふうに本人に言われてしまうと、もうそれ以上、俺にできることは何もない。雛川に電話したことは、葉介にも心配していた雛川の友だちにも言わなかった。わざわざ言う気にはなれなかった。後で知られる心配もしなかった。雛川が、俺から電話があったことを誰かに言うとは思えなかったからだ。なぜだか、そう確信していた。
その電話から、ちょうど十日が過ぎた今日、その間、ずっと休んでいた雛川は、まるで何ごともなかったかのように学校に現れた。
「雛川、最近、ずっと休んでたよな。もしかして、どっか調子悪い?」
部活が終わった後、グラウンド隅の水道で顔を洗った葉介が、タオルで顔を拭きながら雛川に尋ねた。やっぱり俺が雛川に電話したことは知らないみたいだ。
「いや、全然。あ、でも、ちょっと疲れ気味ではあるかなぁ」
そう答える雛川を見て、確かに、少し疲れているような気がした。そういえば、電話のときも疲れている感じの声だったな。
「ふーん、大丈夫なのかよ?」
「うん、大丈夫だよ」
葉介に笑顔で答える雛川を見て思わず目をそらす。少し遅れて心に痛みが走った。俺は、自然と二人から離れるように部室に向かって歩き出した。だが、そんな俺に雛川が声を掛ける。
「あ、ちょっと。待ってよ、間宮くん」
仕方なく俺は振り返った。
「三人が揃うなんて久し振りなんだから、今日は一緒に帰ろうよ」
「だな、そうしようぜ、裕貴。まあ、久し振りなのは雛川のせいだけどな」
「室井くん、一言余計だよ」
「ははは」
そういうのを見たくないから、おまえらを避けてたんだよ。
「ね、久し振りにナポレオン行こうよ」
雛川は、まっすぐに俺を見てそう言った。雛川のことを、こんなふうに見るのも久し振りだ。何とも言えない気持ちが俺の中に広がっていく。
「分かった」
何でだろうな。雛川の顔を見たら、なぜだか、そう言ってしまっていた。もしかしたら、まだ、俺の心の中には、どこかで雛川の側にいたいっていう気持ちが残っているのかな。たとえそれが痛みしかもたらさないとしても。
「着替えてくる」
俺は、そう言い残して部室に向かった。
久し振りのナポレオンは、相変わらず俺たちの貸し切り状態だった。時間帯の問題だろうな。ほんの数週間前までは、こうして三人で部活帰りにここに寄って、飽きるまでだべっていたのに、それが今の俺には、ひどく昔のことのように思えて懐かしい感じがした。雛川は、いつも食べていたパンケーキを注文した。俺は、この状況にあまり食欲も湧かなくて、ホットコーヒーだけを頼んだ。
「裕貴、そんなんで大丈夫なのかよ。腹、減ってねーの?」
「あんまりな」
「そっか。俺は食べるぜ。レギュラーじゃねーけど」
葉介は、大盛りのガーリックライスを注文していた。
「そういうこと言わないの。卑屈に聞こえるから」
「そんなつもりで言ったんじゃねーよ。でも、雛川がここに行こうって言うとはな。いつも、もっとオシャレな店に行きたいって言ってたのに」
「声が大きい。私は別にいつもそういうことを言ってたわけじゃないよ。たまには、そういうところも行きたいなって言ってたの」
「あれ? そうだっけ?」
そうだ。雛川は、いつも部活終わりに俺たちに付きあってくれていたが、たまにはオシャレな店に行きたいっていうことをしきりに訴えていた。でも、そんなオシャレな店に行く金なんて俺たちが持っているはずはないから、だいたいここに来ることになる。
「ねえ、二人は卒業後の進路なんて決めてるの?」
「何だよ急に」
葉介が驚いた顔で聞き返す。確かに葉介の言うとおりだ。久し振りに話したと思ったら進路の話なんて、親戚の叔母さんみたいだ。
「いや、どうすんのかなーと思って」
「俺は、普通に大学かな」
「室井くん、大学に入るのって試験があるって知ってる?」
「どういう意味だよ」
「さあ」
「雛川、おまえなー。俺だって人並みには勉強してんだぜ。結果が出ないだけで」
「じゃあダメじゃん」
「うるせー。俺は飯を食う!」
葉介は、そのとき、ちょうど運ばれてきた大盛りのガーリックライスにがっついた。葉介の成績がどの程度かは知らないが、あまりいい成績だとは聞いたことがない。俺とどっこいどっこいか、もう少し下かのどっちかだ。誰もが聞いたことのあるような名前の大学に入学するのは難しいだろう。まあ、俺も人のことは言えないが。
「間宮くんは?」
「俺も大学かな。受かるかどうかは分かんねーけど」
「そっか。二人とも大学か」
「そういう雛川はどうするんだよ」
俺は、この話題の言い出しっぺである雛川に尋ねてみた。人に聞くということは、自分の進路を迷っているってことだろうか? ただ単に興味本位なだけか?
「私はね……内緒」
「何だそれ!」
思わず少し大きな声が出てしまった。
「そーだぞ。人に聞いといて、それはあんまりだぞ」
葉介が同調する。
「ごめんごめん。でも、まだ迷ってるから。ちゃんとやっていけるのかなって」
「それって、何か目標があるってことだよな」
雛川は、そういう言い方をした。少なくとも俺にはそう聞こえた。
「うーん、ちゃんと決めたら二人には話すよ」
二人にはってことは、葉介もまだ知らないってことか。まあ、付き合っているからといって、何でも話しているわけでもないだろうしな。でも、進路によっては、この先、一緒にいられなくなる可能性もあるんじゃないのか。それも含めて迷っているってことかな。
「おいおい、大丈夫か? そんなにもったいつけて。自分でハードル上げてんぞ。後で聞いてたいしたことなかったら、ただじゃおかねーからな」
葉介が食べながら雛川をスプーンで指す。
「スプーンで人を指さないの」
雛川が自分に向けられたスプーンを見て注意する。全くだ。食器で人を指すのはいただけない。
「二人はさあ、大学に行った後のこととかも考えてる?」
「いや」
「全く」
俺と葉介は、ほぼ同時に似たような返事をした。
「まあ、そりゃそうだよね。今、将来のことを聞かれても、なかなかなりたいものとか決められないよね」
「だから、どうしたんだよ急に」
「いや、ある人がね、意味もなく何かに夢中になるっていうのは、今の私たちくらいのときにしかできないことだし、それはすごく無敵なことなんだって言ってたから」
「何それ? 青春系?」
「ははは。だよね」
意味もなく何かに夢中になる、か。今の俺なら、サッカーってことになるのかな。それも何か少し違うような気もするが。
「何かよく分かんねーな」
葉介は、少し首を傾げたが、納得したのかそれ以上考えるのをあきらめたのか、再びスプーンを口に運び出した。
「制服でいられるのも、あと少しだってことだよ」
雛川は、前にも言っていたようなことをまた言った。
「おまえ、好きだな、そういうの。確か前も言ってたよな」
葉介も覚えていたらしい。
「そうだっけ?」
確かに俺たちは、卒業すると、もうこんなふうに一緒にいることはなくなるだろう。これは、今の俺たちだけに許されている時間の使い方だ。俺も、そんなに将来のこととかいろいろ考えてるわけじゃないけど、いつかもっと真剣に考えなきゃいけない日が来るんだろうな。そのときに何かを選ぶといえば聞こえはいいが、本当は、何かをあきらめて、最後に残った一つを選ばざるを得なくなるのかもしれない。
「あ、そうだ。三人で写真撮ろうよ」
「雛川、どうしたんだよ、今日は。まるでもう会えないみたいじゃねーか」
俺が今日の雛川の言動や行動を見て感じたことを、葉介が言葉にしてストレートに雛川にぶつけた。
「そんなことはないけど。私、またしばらく学校来れないかもしれないから」
「そうなのか」
「あ、でも大丈夫。試合にはちゃんと行くから。マネージャーだから。それは間違いない」
本当に学校を休んでまで何をしてるんだろう。誰か家の人が調子悪くて病院に行かなきゃいけないとかなのかな。伯父さんが入院したときに、俺の母親が交代で病院に行っていたから、その可能性を考えてしまう。でも、それこそ今の俺にどうこうできることでもない。
「じゃあ、室井くん、そっちに座って」
「雛川が真ん中じゃないのかよ」
「三人で写すと真ん中の人が早死にするとかいうじゃん」
「え?」
俺、真ん中なんだけど。
「あ、何でもない、何でもない。じゃあ、いくよー」
そう言って雛川は、自分のスマホでパシャリと写真を一枚だけ撮った。撮った写真を確認して満足そうにしている。
俺たちは、その後もくだらない話をしながら過ごした。久し振りだったからか、あとからあとから話題が噴出してきて、なかなか話は尽きなかった。最初は言葉少なだった俺も、気が付けば、二人のペースに乗せられて、以前のように色々と話してしまっていた。二人のやり取りに、時どき痛みを感じることもあったけれど、その痛みさえも受け止めなきゃいけないのかなって思えるくらい、二人との会話は、ひどく懐かしく心地いいものだった。
「じゃあな」
「またな」
予想以上にナポレオンでだべっていた俺たちは、すっかり暗くなった街の交差点でそれぞれ家路につくために別れを告げた。二人に背を向けた瞬間、心の中になぜか一瞬、得体の知れない違和感が沸き起こったが、俺は、その正体が何なのか分からず、そのまま歩き出した。
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