紘川純8の1

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紘川純8の1

 国見あり紗が言ったように、あの日以来、武田さんは、パタリと撮影に現れなくなった。それどころか、学校も休みがちになっているらしい。一年生の教室を覗きに行ったときに、彼女のクラスメイトがそう言っていた。クラスメイトも休んでいる理由は知らないみたいだった。自宅に訪ねるのも気が引けるし、そもそも訪ねたところで、僕に何ができるわけでもないし、逆に期待をもたせてしまってもいけないと思うし。国見あり紗に言わせれば、そんなのは行動してから考えればいいらしいけれど、僕は、どうしてもそんなふうには思えなかった。でも、確かに、このまま会えなくなるのは寂しい。すごく自分勝手な言いようだってことは分かっている。世の中のことが、そんなふうに自分に都合のいいようにばかりなるわけなんてないのにね。 「寂しいと思うんなら、捜しに行けばいいじゃないか」 「だから、僕には、それが正解だとは思えないんだよ」 「それは君の考える正解だろう? 君は、世の中に正解が一つしかないって思ってるんだね。案外、正解なんて幾つもあるもんだけどね」  カムパネルラは、他人事だと思って好き勝手なことを言う。いや、僕も頭では分かっているんだ。世の中に正解が幾つもあることくらい。たちまち僕の考える正解と武田さんの考える正解は同じじゃないだろう。でも、自分以外の人間が考える正解を選択したとして、自分自身はそれでいいと思えるだろうか。きっと後になって後悔する。何なら人のせいにしたりもする。人間は、そもそもそういう身勝手な生き物なんだ。僕だって、そうしないという自信はない。だから、僕は、僕が考える正解しか選択したくないんだ。 「何を難しい顔をしてるの?」  僕は、国見あり紗の言葉で我に返った。僕たちは、撮影場所の城址公園に向かって、海辺の道を歩いていた。僕の両手は、カメラとその他の荷物でふさがっていた。結構重かったりする。見かねたのか気を遣ってくれたのか、どちらかは分からないけれど、彼女も多少荷物を持ってくれている。 「最近、ぼーっとしてることが増えたよね。武田さんが来なくなってから」  痛いところを突いてくる。 「別にぼーっとしてるわけじゃないよ。考え事をしてるだけだよ」 「武田さんのこと、考えてるんだ」 「いや、別に」  本当はそうなんだけれど、そう言ってしまうと、国見あり紗が気にするかもしれないと思って否定した。でも、彼女は、僕の言葉を真に受けてはいないだろう。  あの日、国見あり紗は、僕の代わりに武田さんを追いかけてくれた。事の発端が、自分がお腹の傷を僕に見せたことにあると知ったからだ。彼女は、自分のせいで武田さんが誤解したまま離れていくことが嫌だと言ったけれど、それが武田さんを追いかけた理由の全てだとは思えない。きっと、僕の気持ちを先回りして考えたんだと思う。僕がどんな気持ちで追いかけなかったのかを。そんな彼女が僕の見え透いた嘘に騙されるはずがない。騙されている振りをしてくれているだけだ。そして、僕も彼女が騙されていないのを承知の上で、騙されていると思っている振りをしているだけだ。何だか面倒くさくてややこしいな。 「今日の撮影で私はクランクアップだよね?」 「うん」 「あとは?」 「武田さんのシーンがワンカット残ってるけど、それはどうにかする」 「どうにかって?」 「この前のときに途中までは撮影できてるから、編集でどうにかなると思う」 「編集ねえ。紘川くんは、それで納得できるの?」 「うーん、やってみないと分からない。でも、もう撮り直しはできないから」  そう、撮り直しはできない。もう武田さんはいないのだから。武田さんのことを考えたら、なぜだか少し心に痛みが走る。いや、これは痛みじゃないな。痛みによく似た別の何かだ。寂しさとも少し違う。うまく言えないけれども、もしかしたら、こういうのをどうしようもない気持ちっていうのかもしれない。  国見あり紗は、そんな僕を見て驚くようなことを言った。 「もしかしたら、撮り直しができるかも」 「何言ってんだよ。武田さんは、きっともう来ないと思う」 「実はさぁ、私、この前、茉優ちゃんに会ったんだよね」 「え?」  会ったって、一体どこで会ったんだ? 学校にも来ていないのに。まさか自宅まで押し掛けたのか? 確かに、国見あり紗ならやりかねない気はするけれど。 「それがね、本当に偶然なんだけど、羽田で会ったんだよ」 「羽田って空港?」 「そう」 「何で空港に武田さんが?」 「それは分かんない。聞いても教えてくれなかったし。でも、そのとき、もう一度だけでもいいから顔を出せないかなあって言ったのね。そしたら茉優ちゃん、考えておきますって言ってた」  それは断るための方便だろう。さすがに面と向かっては断りにくかったから、そういう遠回しな断り方になっただけで。最初から、そのつもりはないんじゃないかな。 「紘川くん、今、絶対に来ないって思ってるでしょ」 「うん、まあ。聞いた感じだと」 「そういうところ、すごく君っぽいけどさあ、何もかも良くないほうにばかり考えてたら、本当の幸いを見逃すことだってあると思うよ」 「本当の幸いって」 「紘川くんふうに言ってみた」  国見あり紗は、少しキメ顔で笑って見せた。  本当の幸いとは、宮沢賢治の童話、「銀河鉄道の夜」で主人公のジョバンニと友人のカムパネルラが交わす会話の中に出てくるキーワードだ。賢治は、法華経に強く影響を受けており、多くの作品で自己犠牲という概念を描き出している。「銀河鉄道の夜」にもそういった概念が描かれており、僕は、この考え方というか概念にひどく心を打たれている。つまりは、賢治の作品が好きなんだ。今、撮影している映画にも賢治の作品の影響は色濃く表れていると思う。もちろんパクリじゃない。リスペクトとオマージュだ。恐らく、国見あり紗は、そのことを知っていて本当の幸いという言葉を使ったんだろう。  でも、武田さんは、どうして羽田空港なんかにいたんだろう。 「旅行じゃないよね?」 「感傷旅行とでも言いたいの?」 「そんなことは思ってないよ」 「冗談だよ。旅行って感じじゃなかったよ。それに……」 「それに?」 「うーん、いや、何でもない」  国見あり紗は、言葉を濁してその先を言わなかった。彼女なりに何か思うことがあったんだろうか。  空港で思い出したけれど、この前、国見あり紗が飛行機を乗り過ごした件については、僕も一緒にマネージャーの桐野さんに謝った。ただただ、平謝りするしかなかった。でも、桐野さんは、「今後、気を付けるように」と優しく言っただけで、特に国見あり紗や僕を叱るということはなかった。国見あり紗の話だと、その後、桐野さんが約束していた雑誌社に陳謝してくれて、何とか事なきを得たそうだ。テレビ番組の生放送とかじゃなくてよかった。でも、本当に桐野さんには申し訳ないことをした。  ようやく城址公園の中に入った僕たちは、堀の周りをぐるりと回って橋を渡ると、受付で入場料を支払って正門から中に入った。堀を渡った内側は有料なんだ。もちろん、頻繁に撮影するなら、そんな資金は高校生の僕たちにはないけれど、要所要所だけの撮影なら何とか入場料も捻出できる。僕がほんの少しほしいものを我慢すればいいだけだ。国見あり紗は、迷惑をかけたからこれくらいは自分が払うと言ってくれたけれど、彼女が有名女優で、どれだけ稼いでいるかはともかく、何もかも全部、おんぶに抱っこというわけにはいかない。この映画は、彼女の作品ではなく、僕たちみんなの作品だからだ。 「今日は、少し風が強いね」  長い黒髪をなびかせながら、国見あり紗が僕の前を歩く。風に乗って、いい匂いが流れてくる。僕の鼻をくすぐったその匂いは、彼女が付けている香水だろうか。 「そういえばさあ、伊瀬監督、あれから来ないよね。あんなに君のことをあきらめないって言ってたのに。まあ、そのおかげで、こっちは順調に撮影できたけれど」 「ああ、もう来ないと思うよ。新作の主演女優も決まったっぽいし」 「そうなの?」 「たぶん」 「たぶん?」 「だって、来ないってことは、そういうことなんじゃないの」  国見あり紗は、荷物を芝生の上に置くと、右手で額の上にひさしを作り、眩しそうに石垣の上を眺めた。 「誰になったんだろう?」 「さあね。私には関係ない」 「気にならないの?」 「全然」 「そんなもんなんだ」 「そんなもんだよ」  国見あり紗は、何でもないという感じで、石垣の上に登っていった。何となく階段状に道らしきものはあるけれど、スカートにローファーという格好で登るのはどうだろう。下にいる僕からだと、なかなかドキドキする絵面になってるんだけれど。 「覗くなよ」  そんな僕の心の声が聞こえたのか、国見あり紗は、不意に振り返って僕を指さした。 「覗かないよ」 「男の人って優しくすると、すぐ調子に乗るからね」 「まるでそういうことがあったみたいな言い方だ」 「まあ、十八年も生きてきたらね」 「十七年でしょ」  僕たちは、まだ誕生日を迎えていない。だから正確には十七年ちょっとしか生きていないんだ。細かいって文句を言われるかな。でも、彼女は、すぐに納得した。 「あ、そっか。そうだね」  国見あり紗は、美人だし、芸能界というきらびやかな世界で生きている人間だから、そういう男女の駆け引きめいた色恋沙汰も、僕たち一般人なんかより多く経験しているのかもしれない。芸能界は、そういうのが特に多そうなイメージだ。  石垣の上まで登りきったところで、彼女は、そこから空を仰いだ。大きく深呼吸する。僕は、こっそりと彼女をカメラ越しに見た。ずるいな。深呼吸するだけでこんなに絵になるなんて。ほんとずるい。でもきれいだ。  国見あり紗は、深呼吸を終えると、僕のほうに振り返った。 「盗撮? 覗くなって言ったじゃん」 「ごめん、いい絵が撮れそうだったから」 「それ、どういう意味?」 「あ、別に変な意味じゃなくて」 「おかえり」  国見あり紗は、言い訳しようとする僕を指さして、突然、何の脈絡もないことを口にした。 「おかえりって何が?」  彼女は、僕を指さし続けている。いや、僕じゃない。彼女の指は、僕の後ろを指している。僕が振り返ると、そこには、風に流れる髪を手で押さえている武田さんが立っていた。 「お久し振りです」
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