7人が本棚に入れています
本棚に追加
紘川純8の2
「武田さん!」
驚いている僕に、彼女は、所在なさげにほほ笑んだ。
「すいません。長い間、無断で顔も出さずに」
「ううん、そんなことはいいんだ。元気にしてたの? 学校にも来てなかったみたいだから」
自分では捜しに行かなかったくせに、本人を目の前にすると、僕の中に積もっていたたくさんの想いが一気にはじけだした。
「学校を休んでたことは、知っててくれたんですね」
「当たり前じゃないか」
「やっぱり、純先輩は、ずるいですね」
そう言った彼女は、不思議なんだけれど、あの校舎の屋上で最後に見たときよりも、ずっと大人の女性になったように見えた。あれから一カ月くらいしか経っていないのに。もちろん、僕は、その一カ月を、それ以上の年月のように長く感じていたけれど。
「そうそう、男は、みんなずるいんだよね」
いつの間にか石垣の上から降りてきていた国見あり紗が、僕の隣で武田さんに同調した。「おかえり」ともう一度言って、彼女を抱きしめる。
「ただいま……ってこれ、何か恥ずかしいです」
「見てるほうも恥ずかしいんだけど」
僕のつぶやきに、国見あり紗が振り返って僕をキッと睨んだ。そして続けてこう言った。
「君は、またそんな心にもないことを。本当は、この劇的なシーンをカメラ越しに覗きたいんでしょ。さっき、私のスカートの中を覗こうとしたみたいに」
「え、そうなんですか? やっぱりエロじじいじゃないですか」
「そうなの。エロじじいなの」
「ちょ、何言って」
この感じ、何だか懐かしい。武田さんが来なくなってから、国見あり紗と言い争うことはあったけれど、一人だけ悪者にされることはなかったからな。かといって、別に意味もなく悪者にされたいわけではないけれど。
「ほんとに、そんなことしてないから」
「はいはい」
国見あり紗が言い訳も聞かずに適当に流す。このままだと本当にエロじじいにされてしまう。僕がちゃんと言い訳をしようとしたとき、国見あり紗が僕をさえぎって武田さんに尋ねた。
「それで、今日は?」
「今日はって何言ってんだよ。撮影に来てくれたんだよね?」
「残念ながらそうじゃないんです。もちろん、私の撮影が残ってるなら、撮り終えてから帰るつもりで来ましたけど」
武田さんは、少し申し訳なさそうに笑った。
「じゃあ、いったい」
もしかして映画研究会を退部するつもりで来たんだろうか。自分が許してほしいとか、そういうのは思っていなかったけれど、できれば彼女には退部してほしくない。正式な部じゃないから退部っていうのかも分からないけれど。でも、武田さんは、次の瞬間、僕が予想だにしていなかったことを口にした。
「私、転校するんです。だからお別れのあいさつをしに来ました」
僕は、驚きのあまり言葉を失った。そんな、確かに気まずいかもしれないけれど、転校してしまうほどだったなんて思いもしなかった。そんな僕の心の中を見透かしたみたいに、武田さんが慌てて言葉を続けた。
「あ、違いますよ。純先輩とのことがあったからじゃないですよ」
僕は、じゃあいったい、といった感じで首を傾げてみた。
「私、事務所に所属することになったんです」
「え? 事務所って?」
「芸能プロダクションです。小さな事務所ですけど、私を女優として育ててみたいって言ってくれて」
「え? え?」
僕の頭は、彼女の言葉に理解が付いていかなかった。武田さんが芸能事務所に? 女優として? それって? え?
「もう! そんなに驚くことないじゃないですか。私だって一応プロの女優を目指してたんですから」
「それは知ってるけど……」
じゃあ、彼女は、念願だったプロの女優への第一歩を踏み出したってことなのか?
「あり紗さんは、気付いてたんじゃないですか?」
「何となくね」
「そうなの?」
「茉優ちゃんと空港で会ったって言ったでしょ。その時、一緒にいた人の雰囲気で何となく」
国見あり紗のようなプロの女優には、何となく同じ業界の人間が分かるってことなのかな。確かに独特で特殊な世界だとは思うけれど。
「喜んでくれないんですか?」
「あ、おめでとう」
「取って付けたみたい」
武田さんは、不満げな言葉とは裏腹に笑っていた。
そうか、どこでどうなって、そういうことになったのかはまるで分からないけれど、武田さんは、自分の夢に一歩近づいたんだ。短い時間だとはいえ、いろいろありながらも一緒に切磋琢磨してきたつもりだったけれど、武田さんは、僕よりもはるか遠くに行ってしまっていたんだ。
「これで、あり紗さんとはライバルですね」
「そうだね」
国見あり紗は、自分に微笑みながらライバル宣言する無名の新人女優に微笑み返した。
「純先輩、いつか私を主演女優で使ってくださいよ」
「へ?」
「何ですか、その顔は。あり紗さんじゃないとダメなんですか?」
また不満げな顔をする。
「あ、ああ。もちろん、そのときは僕のほうからお願いに行くよ」
「約束しましたからね。あり紗さんも聞いてましたよね」
「うん、ちゃんと聞いた」
そんな、何者になるかも分からない僕の映画に出るなんて、だいぶ気が早すぎるだろ。僕なんて、武田さんと違って、まだ夢への第一歩も踏み出せてないんだから。
「今は? 何か仕事やってるの?」
国見あり紗は、武田さんの仕事に興味があるみたいだ。
「はい、映画の撮影を。まだ作品のこととかは言っちゃいけないんですけど」
「そうなんだ」
「主演?」
「一応」
映画の主演? それってすごいことじゃないか。無名の新人女優が映画の主演に抜擢されるなんて。何の映画だろう? あ、まだ言っちゃいけないのか。僕に比べて、国見あり紗は映画の主演と聞いてもそれほど驚かなかった。まるで想定内であったかのように。
近い将来、武田さんをスクリーンで見られる日が来るのか。そう考えただけで心がドキドキする。国見あり紗と出会ったときとはまた違うドキドキだ。国見あり紗は、僕と出会ったときには、既に実力派若手女優ナンバーワンと言われるほどの有名女優だった。けれど、武田さんはこれからの存在だ。僕は、プロの映画屋じゃないけれど、それでも彼女の演技に人を惹きつける何かがあるってことを知っていた。そう考えると、彼女もいつか世の中に見つけられる運命だったのかもしれない。
あ!
でも、ということは……。僕は、一つの事実に気付いてしまった。
「武田さんがプロの女優への一歩を踏み出したことは、僕も本当にうれしいよ。さっきは驚き過ぎてうまく言葉が出てこなかったけれど。武田さんは、今、撮ってる映画に全力で臨んでよ。チャンスだし。僕の作品のことなんて何も心配しなくていいから。武田さんのシーンは、もう使えないだろうけれど」
「何言ってるんですか。私の登場シーンはカットしないでくださいよ」
「でも、事務所的にそういうのNGなんじゃ」
国見あり紗は、僕の作品に出演するについて、事務所に了解を取っていると言っていた。それは、彼女が国見あり紗という押しも押されぬ有名女優だったからこそ彼女の言が通った部分があるんだと思う。でも、全然無名で、これから売り出そうとしている武田さんじゃそうはいかない。
「事務所はOKしてくれましたよ」
「本当に?」
どうやって事務所を納得させたんだろう。ちょっと考えにくいことだと思うんだけれど。
「はい。あり紗さんと共演するって言ったら、ちゃんと了解もらえました」
なるほど。国見あり紗との共演で、無名の新人女優に付加価値を付ける作戦か。それなら事務所も了解するかもしれない。しかし、そういうところ、武田さんは抜かりがないな。これなら芸能界でもしっかりと生きていけるだろうか。ただ、映画がそれに見合う内容になっているかどうかは分からないけれど。ていうか、むしろ不安になってきた。コンクール用の作品だから、この作品が世の中に公開されることはないけれど、関係者には注目されるだろう。話題性に内容がまるで付いていっていないなんて酷評されるんじゃないだろうか。
「あ、それから、僕の作品じゃなくて僕たちの作品です。勝手に作品を私物化しないでください。あり紗さんも私も出てるんですから」
「ああ、ごめん」
僕の不安なんて知ったことじゃないとばかりに、武田さんが正論を訴える。やっぱり抜け目がない。
しかし、これは大変なことになってきたぞ。今までに、現役のプロの女優を二人も配役して撮影した自主製作映画なんてあっただろうか。後に出演者が有名になるってパターンはあるだろうけれど。
「純先輩、もしかして、ビビってます?」
「何で?」
「だって、プロの女優を二人も使って映画を撮るアマチュアなんていませんからね。まあ、私は、プロといっても駆け出しですけど」
武田さんにしても国見あり紗にしても、僕の心の中を見透かして言い当てるのは程ほどにしてほしい。そんなに分かりやすく顔に出ているのかな。
「純先輩って案外小心者ですよね。あり紗さんのスカートは覗く勇気があるのに」
「だから、それは違うから!」
いつまでその話を引っ張るんだ。でも、武田さんに問題がないんなら、さっき国見あり紗と話していたラストシーン、撮り直しをさせてもらおうかな。僕は、武田さんに構わないか聞いてみた。すると武田さんは、満面の笑みでブイサインをしながらこう答えた。
「もちろんOKです!」
最初のコメントを投稿しよう!