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間宮裕貴9
その日は朝から雨だった。それも結構な土砂降りだ。せっかくの日曜日だというのに。つくづく昨日じゃなくてよかったなと思う。雨の中での試合は気が滅入るからな。
昨日の大会初戦。俺自身はチャンスでゴールを決めることができなかったが、チームは勝利した。まずは初戦突破だ。幸先のいいスタートを切った。もちろん、もっと上を目指している俺たちは、初戦突破くらいで満足はしていない。この先対戦することになる強敵のことを考えたら、喜んでばかりもいられない。それでも雛川は、祝勝会をしようと言った。もしかしたら、最近、俺たちの間に流れている変な空気をどうにかしようと思って、そんなことを言いだしたのかもしれない。雛川の性格を考えると、恐らくそうだろう。あいつはあいつなりに気を遣っているんだ。
俺は、約束した時間から逆算して、かなり余裕をもって用意を済ませた。家族の誰かがコンビニで買ってきたと思われるビニール傘を持って玄関のドアを開ける。外は、相変わらず土砂降りだ。思わずため息がこぼれる。俺は、止みそうもない雨をしばらく見ていたが、覚悟を決めて玄関から一歩を踏み出した。傘にあたってロックのような激しいビートを刻む雨音と傘から伝わるその振動だけで、俺の心は、もう折れそうになった。
日曜日の電車は、それほど混んでいなかった。俺は、濡れた傘が他の乗客に当たらないように注意しながら、つり革を掴んだ。一定のリズムで揺れる電車に身を任せながら、窓の外に流れる濡れた世界をぼんやりと眺める。そのとき、不意にポケットの中でスマホが振動した。
『駅で雛川と一緒になったから、先に行ってるぜよ』
葉介からだった。俺は、一瞬、もしかしたら、二人は初めからそのつもりだったんじゃないかと疑った。だが、もう今となっては、そんなことはどうでもいいことだ。一瞬だけ俺の中に走ったこの痛みも、時間の経過とともにやがて薄れていくだろう。自分にそう言い聞かせた。
『了解。俺も今、電車だからすぐに着くと思う』
片手でフリック入力し、送信する。もしかしたら、二人は、今日、俺に付き合っていることを明かすために祝勝会なんて言い出したのかな。雛川は、そういうの真面目に考えていそうな気がする。葉介は、能天気に何も考えていないっぽいけど。でも、葉介も、ずっと俺に話があるって言っていたからな。いつまでもそのタイミングが来ないことに業を煮やして雛川が言い出したとか。そこまで考えて思考を止める。どうでもいいことだとか言いながら、結局、もしかしたらとか、そういうことばかりを考えてしまっている。これも朝から俺を憂鬱にさせている雨のせいだと思いたい。
最寄り駅で降りたのは、俺を含めても数えるくらいだった。平日だったら、この駅は、昼間でも学生やサラリーマンで埋め尽くされる。だが、もちろん、日曜日の今日、そこに彼らの姿はない。家族連れが、ちらほらと通り過ぎていくくらいだ。時間から考えて、きっと家族でランチにやってきたんだろう。家族でというわけではないが、俺もその一人だ。
俺は、北口改札を抜けると、少しでも雨を避けるため、地下道を通って駅前広場に出た。地上では、相変わらず土砂降りの雨が降っている。こういうのって、帰る頃になって晴れてきたりするんだぜ。そんなに日ごろの行いは悪くないはずなんだがな。きっと、あいつら二人のうちのどちらかが雨男か雨女なんだろう。イメージだけで言うと葉介かな、やっぱり。
俺は、また一つため息をつき、ナポレオンに向かうため、地上への出口、北口交差点でゆっくりと傘を開いた。その開いた傘の向こう、通りを挟んだ向こう側に、俺と同じようにビニール傘を差した男が見えた。黒いフードをすっぽりとかぶっている。顔はマスクで隠していた。だが、それでもはっきりと分かるほど、その男は俺を見て笑った。フードの端から少しだけ金色の髪の毛が見え隠れしていた。
雨野!
俺が、その男を雨野と認識した直後、目の前を路線バスが通り過ぎた。一瞬、視界が遮られる。再び視界が開けたとき、そこに雨野の姿はもう見えなかった。俺は、信号が青になると同時に横断歩道を渡り、雨野がどっちへ行ったのか四方を確認した。
いた!
雨野は、路地裏を北通りのほうに向かって歩いていた。その先には、俺たちが祝勝会をする予定の店、ナポレオンがある。あのとき、雨野は、俺たちがナポレオンで祝勝会をするっていうことを聞いていたんだ。だから、今日、このタイミングで、この街に現れた。あいつ、また雛川に何かするつもりか。この前、雛川にきつく言われて、恥をかかしたから覚悟してろとか、捨て台詞を残していったからな。さすがにもう、話し合いで解決するっていうのは無理だろう。現に、さっきあいつは俺を挑発してきた。俺は、自然と雨野を追っていた。
俺が追いかけてきていることに気付いたのか、雨野は、一度振り返って俺を確認すると、急に走り出した。差していたビニール傘を放り投げ、土砂降りの雨のなかを逃げていく。
逃がすか!
俺は、おまえにはいろいろと頭にきてるんだ。俺もビニール傘を投げ捨てると、全速力で雨野を追った。すれ違う通行人が何事かと驚いた顔で見てくるが、そんなのは知ったことじゃない。
雨野は、思っていたよりも走るのが速かった。だが、現役のサッカー部をなめるなよ。俺は、一層スピードを上げた。雨野に追いついたのは、ちょうど街区を二つほど行ったところだった。パーカーの後ろ側を掴むと、雨野は、濡れたアスファルトの上にもんどりうって倒れた。はずみで俺も倒れそうになったが、掴んだパーカーは離さなかった。
「雨野!」
俺は、フードをめくり上げた。隠れていた金髪があらわになった。だが、そこに現れた顔を見た瞬間、俺は、自分の目を疑った。
その男は、雨野ではなかった。
黒いフードをかぶり、マスクで顔を隠していた金髪のこの男は、雨野ではなかったのだ。
どういうことだ?
こいつが雨野じゃないなら、どうして俺を見て笑った?
どうして俺を挑発した?
どうして走って逃げた?
「おまえは……」
「何すんだよ、いてーじゃねーか」
「おまえ、誰だ? どうして俺を見て逃げた?」
「おまえが追いかけてきたからだよ」
「だって、その前におまえ、俺を見て笑ったろ」
「さあ」
その男は、俺に首根っこを掴まれているこの状況で、明らかにニヤニヤしていた。俺は、嫌な予感と訳の分からない不安の出所を確認するため、容赦なくそいつを殴った。
「答えろ! おまえは誰だ!」
「いってぇ。いいのかよ、おまえ。暴行事件なんか起こして。大会中じゃねーのかよ」
「だったら何だ!」
俺は、相手の言葉には一切耳を傾けず、続けてもう一発殴った。どうしてこいつは、俺が大会中だということを知っている?
「おまえ、こんなことして、分かって」
俺は、質問に答えずに、まだ何か脅迫めいたことを言おうとしている男の言葉を拳でさえぎった。続けて何度も何度も殴った。不安が俺を掻き立てる。何発目かで、男はようやく観念した。男の顔からは、鼻血が流れ出していた。
「待ってくれ、分かった。話すから、話すから、もう殴らないでくれ」
「早く言え」
懇願する男の胸ぐらを掴み、俺は、男の言葉を待った。いつでも追加の拳は準備できている。
「俺は、雨野に雇われただけだ。今日のお昼前、おまえを見て笑ってから逃げろって。たぶん追いかけてくるだろうが、相手は大会中のサッカー部員だから絶対手は出せないって。そうするだけでいいって十万渡されたんだ」
「何で雨野は、そんなことをおまえに……」
そこまで口にして、俺は、目の前のこの男が雨野に金で雇われた囮なんだと分かった。どうしてそんなことを? 俺を雛川から引き離すためだ。そこまでして、あいつがしようとしていること。そんなのは決まっている。
雛川が危ない!
俺は、すぐさま立ち上がると、ナポレオンに向かって走り出した。ポケットからスマホを取り出し、雛川を呼び出す。
Trrrrrrr。
駄目だ、出ない。だが、雛川は、今、葉介と一緒にいるはずだ。葉介がいるなら、雨野もそんなにおいそれとは雛川に手は出せないだろう。俺は、走りながら葉介を呼び出してみた。
Trrrrrrr。
駄目だ。葉介も出ない。一体何が起きている?
ナポレオン前の通りまでやって来た。ここから見える店内に二人の姿はない。一応、通りを渡って飲食ビルの二階にある店内に入ってみたが、やはり二人の姿はなかった。くそっ、どこにいるんだ。
俺は、階段を駆け下りると、路地裏のほうに行ってみた。駅からここまで来るのに、二人の姿は見なかった。だが、あの囮の男を追いかけたせいで、俺が通って来たルートは、直線ルートからは少しそれてしまっていた。俺は、反対側の街区のほうに向かって走り出した。雨は一層強くなってきていた。
三つ目の交差点を直進したとき、路地裏側から男が走り出てきた。ぶつかりそうになったが、反射的に何とか体をかわす。しかし、その男は、ぶつかりそうになったことへの謝罪の言葉もなく、何か言葉にならない意味不明の声を発しながら走っていった。その男もまた、俺と同様に、この土砂降りの中で傘も差していなかった。明らかに様子がおかしい。そして、俺は、その走り去る後ろ姿に見覚えがあった。今のは間違いなく葉介だ。
「葉介!」
俺は、呼び止めようと名前を叫んだが、葉介は止まらなかった。この土砂降りの雨で聞こえなかったのか、それとも何か他に理由があるのか。明らかに、今の葉介はおかしかった。普通じゃなかった。俺の心の中に巣くった嫌な予感と訳の分からない不安が増していく。
俺は、葉介を追うことをあきらめて、葉介が飛び出してきた路地裏に入っていった。人っ子一人歩いていないその路地裏に、もう一つ細い路地が交差している。角を曲がって、その細い路地に足を踏み入れた。俺が、そこで見たもの……。
何だこれは?
そこには、二人の人間がいた。一人は、雛川。そして、もう一人は……雨野か? 髪の色が黒かったから、すぐには分からなかった。雛川は路上に倒れていて、黒髪の雨野もまた、路上に座り込んでいた。倒れている雛川の周りを染めている赤黒いもの。何だ、あれは?
血?
その大量の血は、土砂降りの雨に降られ、路上を滲ませていた。その光景を見た瞬間、俺の頭の中の何かがショートした。
「雨野!」
座り込んでいる雨野に向かって吠えたのは覚えている。だが、その後、いったい俺自身がどうなったのかは覚えていない。土砂降りの雨と赤黒く染まった路上。倒れている雛川。断片的にストップモーションのように繰り返されるそれらの光景。
「裕貴!」
俺は、俺の名前を呼ぶ声で自分を取り戻した。それは、葉介の声だった。戻ってきたのか、今ごろになって。葉介は、まるで恐ろしいものでも見るかのように俺を見てぼそりと言った。
「裕貴、おまえ、殺したのか?」
は?
何を言っているんだ、葉介。
「救急車を呼んでくれよ」
「裕貴、おまえ……」
「早く救急車を呼べ!」
俺は、葉介に向かって叫んでいた。
慌てて葉介が通りのほうへ走っていく。
殺す?
誰を?
正気を取り戻した俺の右手には、一振りのナイフが握られていた。
何でナイフが?
そのナイフには、赤い血が滴っていて、目の前にはシャツを赤く染めた雨野が横たわっていた。
何だこれ?
顔を上げると、俺の顔に容赦なく雨が降り注いだ。遠くから誰かの悲鳴が聞こえてくる。救急車のサイレンも聞こえるような気がする。ふと通りの向こう側に視線をやると、ビルの壁に備え付けられた大型ビジョンが見えた。その画面に「伊瀬監督の新作、遂に情報解禁!」というテロップが見える。そのテロップには、こう書かれていた。
『タイトルは「海の彼方に見えるもの」、主演女優に抜擢されたのは、無名の新人女優、国見あり紗!』
そして、画面いっぱいに、その無名の新人女優の顔が映しだされた。それは、なぜか、今、俺の目の前で血を流して倒れている雛川の顔だった。
世界は、相も変わらず、土砂降りの雨の中だった。
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