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紘川純10
僕は、国見あり紗のマンションで彼女と向かい合って座っていた。隣の部屋で見つけた不思議な写真のことを尋ねると、彼女は、少し困ったような顔をして寂しそうに笑った。もちろん、勝手に写真を見たのは悪いことだと分かっている。それについては言い訳のしようもない。けれど、あの不思議な写真は、それ以上に、彼女にとって僕に見られたくなかったもののように思える。やっぱり、存在するはずのない合成写真なのかな。彼女は、説明するからと言って、僕を最初の部屋に促した。そして今、僕たちは、小さなテーブルを挟んで対峙している。
「最初に言っておくけど、少し長くなるよ」
「うん、構わないよ」
「それから、たぶん君は、私の話を聞いても信じられないと思う。ううん、たぶんじゃない。絶対に。だから国見あり紗は何を言ってるんだろうって少し不思議に思うかもしれない。でも、今から私が君に話すことは、全部本当の話だから」
国見あり紗は、何故か最初にそうやって断りを入れた。いったい何を言うつもりなんだろう。自分でそんな前振りをするなんて、よほど込み入った内容なんだろうか。それとも、例の実力派若手女優の本領とやらをここでも発揮し、僕を驚かせるつもりなんだろうか。
「私は、ここへ引っ越してくる前、東京の高校に通ってたの。そして、その高校には、仲のいい男友だちが二人いた。二人ともサッカー部で、私はサッカー部のマネージャー。勘のいい君なら、もう予想がついているだろうけれど、そのうちの一人は君なんだ。この写真に写っているように」
僕は、彼女の話を聞きながら、もう一度、机の上に置かれた不思議な写真、僕と国見あり紗が写っている写真を見た。
「切り取られてる側にも、君じゃないほうの、もう一人が写っていたんだけどね」
僕は、どうして反対側を切り取ったのか聞いてみたかったけれど、彼女の話を途中で止めるのは気が引けたからやめておいた。長い話になるって彼女も言っていたし、ちゃんと最後まで聞いてから尋ねてみよう。国見あり紗は、何も言わずに頷いた僕を見て、また続きを話し始めた。
「私たち三人は、本当に仲が良かったの。私が二人と知り合ったのは、高校に入学してからだけど、二人は、中学からの同級生だった。もちろん、二人ともサッカー部。君ともう一人の彼は、本当に毎日、バカ話をしてたよ。よくも毎日、そんなくだらない話ばかりできるなぁって思ってた。まあ、私もそれに加わるわけなんだけど。
私たちの高校のサッカー部は、都内でもそこそこ強豪だったし、部員は全員と言っていいくらい、中学でもサッカー部に所属していた経験者。私でも名前を聞いたことのある人たちがほとんどだった。私、中学でもサッカー部のマネージャーやってたから。だから、そんな中でレギュラーになるのも大変だったの。でも、君たち二人は、時には励まし合い、時にはバカ話をしながら、あ、こっちは通常運転だね。高校三年の夏、最後の大会に出られるように、レギュラーを目指してたの。私は、そんな君たちの関係がすごくいいなって思ってた」
スポーツなんて、まるでやったことのない僕がサッカー部? それは幾ら何でも設定に無理があるような気がするんだけれど。でも、体育の授業は嫌いじゃない。それから高校三年の夏って。僕も国見あり紗も高校三年の夏はこれからやって来るんじゃないか。彼女にしては、本当に設定が甘いな。もしかして、今、話しながら考えてたりするのかな。
「最後の大会が近づいたある日、私は、街でスカウトされたの。初めは怪しいって思った。もう一人の彼なんて、AVに違いないとか言ってたからね。まあ、普通そう思うよね。でも、私は、どうしても自分を変えたくて、ダメもとで電話してみたの。そしたら、ちょうどそこに伊瀬監督がいて、一度、事務所に来てみろって。俺の眼鏡に適ったら、今度の新作の主演にしてやるって。伊瀬監督は、君も知っているとおり、映画は天才だけど、それ以外は評判の悪い人だったから、そのとき、どこまで本気だったのかは分からないけど」
確かに、伊瀬監督の映画以外の評判はよろしくない。それは今もそうだし、この前、僕に怒鳴ってきたような素行からしても、十分すぎるほど納得できる話だ。作品と作品を作る人間は、必ずしもイコールではない。宮沢賢治のように、自分の生き様が作品世界に表されている人間もいるし、本人に会うとがっかりするくらい、作品とは違い過ぎている人間もいる。
「でも、どうやら私は、伊瀬監督の眼鏡に適うことができたみたいなの。ううん、こんな言い方をしちゃいけないよね。女優としての今の私があるのは、伊瀬監督のおかげなんだから。そう、伊瀬監督が私を見つけてくれたの。こんなにたくさんの人がいる世界の中から。茉優ちゃんを見つけたように。
でもね、伊瀬監督が言ってた新作の主演に決まると、私の周りは急激に何もかも変わってしまって。一番は、忙しくてあまり学校に行けなくなったこと。私は、休みがちになって、学校のみんなには本当に心配をかけたと思う。君も心配して、一度、電話をくれたんだよ。まあ、それはきっと別のことが原因だと思うんだけど。伊瀬監督の新作は、完全秘密裏に進行していたから、何も言うわけにはいかなかったんだよね」
ああ、これは武田さんのときもそうだったから、リアリティのある設定だ。虚構の中にたまに真実を交えて話すと、現実味が増すというふうに聞いたことがある。この辺、うまいな。さすが実力派若手女優。
「そんなときに、遂にサッカー部のレギュラー発表があってね。君は選ばれたけど、もう一人の彼は、残念ながら選ばれなかった。私は、それまで築いてきた私たち三人の関係が変わってしまうんじゃないかって、すごく不安になった。そして、その不安は的中した。でも、変なんだよ。レギュラーに選ばれなかったもう一人の彼が君を遠ざけるなら分かるんだけど、その日を境に離れていったのは君のほうだった。
私は、何とかそれまでどおりの三人に戻りたいと思って、どうすればいいのかを一生懸命考えたんだけど、その頃の私には、本当に時間がなくて。何もできない自分が本当に歯がゆかった。
映画の撮影が終わって、ようやく私には、ある程度自由にできる時間ができたの。私は迷わず部活の後で二人を誘った。昔みたいに一緒に帰ろうって。それを君がどういうふうに思ったのかは分からない。でも、私は、君が何て言おうと絶対一緒に帰るつもりだった。そしてたくさんバカ話をするんだって。そのとき撮った写真がこの写真なんだよ」
国見あり紗は、なかなか複雑な設定をよどみなく話し続けている。こんな複雑な設定、さっきは、今、話しながら考えているのかと思ったけれど、とても昨日今日思いついたようには思えない。いつからこんなことを考えていたんだろう。いや、最初に断りを入れていたように、この話は本当の話で、いや……。
「そして、事件は起こったんだ」
「事件?」
「そう、君が今の君になった原因となる事件が」
国見あり紗は、確かに、この不思議な写真が、いつ撮られたかの説明はしたけれど、この写真と僕の因果関係についてはまだ触れていない。まだ、この先に何かがあるというのだろうか。
「私はね、中学時代の元カレからずっとストーカー行為を受けてたんだ。一年以上も。一度ちゃんと話をしたんだけど、納得してくれなくて。いつだったか、君には話したことがあるんだ。だから、映画の撮影が忙しくて、私が学校を休みがちになったとき、君は心配して電話をくれたの。ストーカーのせいで休んでいるんじゃないかって。今、思うと、そのことを君に話したのは、心のどこかで君に助けてほしかったのかもしれないね。あの頃、私が、もっと自分の気持ちに素直になっていればよかったのかもしれない。そうしたら、あんな事件は起きなかったのかもしれない」
元カレからのストーカー行為。何だか話がきな臭くなってきた。でも、それが僕とどういう関係があるんだろう。
「大会初戦の日、私は、何とか撮影を早めに上がらせてもらってサッカー部の試合に間に合ったの。試合は勝った。もう一人の彼はスタンドからの応援だったけど、もう、君たちの間に変なわだかまりみたいなものは、なくなっていたような気がする。それよりも試合に勝ったことのうれしさが大きくて。私は、またいつ忙しくなって二人に会えなくなるかもしれないから、次の日に祝勝会をしようって提案したの」
「え? 初戦に勝った段階で?」
「ははは、あの頃の君も同じことを言ってたよ。確かにそうだよね。私たちの高校は、優勝を目指してたのに、初戦勝利で祝勝会って。でも、君たち二人は心よくかどうかは分からないけど、了承してくれたよ」
「ふーん、そうなんだ」
「約束した次の日は、朝から土砂降りの雨でね。私は、朝、目が覚めてカーテンを開けた瞬間、絶対に君たち二人のうちのどちらかが雨男なんだって、合流したら文句の一つも言ってやろうと息巻いてたよ。そして準備を済ませて出かけたんだ。
少し早めに最寄り駅に着いた私は、改札を出たところで、もう一人の彼に会った。そのまま店まで一緒に行こうかってことになって、二人で雨の中を歩いた。その時に彼は、急に私に好きだって告白してくれた。私は、何となく彼の気持ちを分かってたんだけど、私には別に好きな人がいたから彼の気持ちには応えられなかった。私は、これでまた三人の関係が壊れてしまうんじゃないかって怖くなった。そんなときに、さっき言ってた元カレが現れたんだ。
それまでずっと金髪だったのに、髪の毛を黒に染め直して。それがどういう意味なのかは分からなかった。一瞬、真面目になるってことなのかもって思ったけど、そうじゃないってすぐに分かった。実は、大会初戦の日に、元カレが通ってた高校も同じ会場で試合をしてたから、応援に来ていた元カレと鉢合わせしたの。そこで、ちょっとしたいざこざがあって、君ももう一人の彼もそこにいたんだけど、私は、はっきりと、もうあなたとは関係ないって言いきったのね。それが気に入らなかったみたいで。雨野は、あ、元カレは雨野って言うんだけど、彼は、現れたときから私に憎しみの目を向けていた。
雨野は、私に『もう一度やり直さないか』って言ったんだけど、当然、私は断った。それが雨野の最後通告だったみたいで、彼は、私の返事を聞くとポケットからナイフを取り出したの。それまで私をかばってくれていたもう一人の彼は、ナイフを見た瞬間、逃げ出しちゃって。でも、彼を責める気はないの。誰だってナイフを持った人間が目の前に現れたら逃げると思うもの。私も逃げようと思ったけど、体が動かなかった。怖かったのかもしれない。意外と私も女の子なんだなって気付かされたよ。
そして雨野は私を刺した。ねえ、刺されたことってある? ないよね。ものすごく痛いんだよ。だんだんお腹が熱くなってきてさ。今だからこうして言えるけど。もちろんこの話って君にしか言わないけどね。君には見せたでしょ、私のお腹の傷」
僕は、彼女の言葉にうなずいた。
「雨野は、一度刺した私をまた刺そうとした。私は、何とかそれを避けて、逃げようとしたんだけど、雨野に捕まって揉み合いになった。土砂降りで路面が濡れていたから、私たちは揉み合ったまま滑って転んだ。そのとき、何かものすごく嫌な感触がしたの。私は、本当にお腹がどうしようもなく痛かったんだけど、その感触が何か嫌で雨野を見たの。そしたら雨野の胸にはナイフが刺さってた。そこで私は気を失った」
すごい展開になってきた。自分のお腹の傷まで。確かに、僕は、国見あり紗のお腹の傷を見た。そのせいで武田さんには誤解をされたままになっているけれど。でも、そのことを生涯誰にも言う気はない。あれは、そういう傷だ。
「で、目が覚めたら病院のベッドの上。私は、丸二日間も昏睡状態だったらしい。雨野は……死んでた。事件の聴取がしたいって警察の人が来ようとしてたらしいけど、病院の先生がまだ無理だって突っぱねてくれてたみたい。結局、私は、そのまま半年間入院してた。だから、今も高校三年生ってわけ。どうしても高校は卒業しておきたかったから。
その事件は、それほどニュースにはならなかった。当時、私は、まだデビュー前だったし、事務所が全力で守ってくれたから。人一人が死んでるのにって思うでしょ? でも、後になって知ったの。雨野を殺害した容疑で私じゃない人間が逮捕されたってことを」
僕は、まっすぐに彼女の顔を見て次の言葉を待った。そうしなくちゃいけない気がした。彼女は、ゆっくりと次の言葉を言った。それは、僕が予想していたとおりの言葉だった。
「君が逮捕されていたんだよ」
どうして僕が?
話の流れ的にそうなんだろうとは思ったけれど、ちょっと突然過ぎる。それに、最初からそうだったんだけれど、彼女が仲が良かったという僕に、僕自身はまるで心当たりがない。そんな話、忘れるわけがないし、そもそも、僕が逮捕されたんなら、どうして僕は今、ここにいるんだ?
「犯罪者更生プログラムって知ってる?」
「ああ、少し前に話題になっていたよね。倫理的に問題があるとかで、デモとかも結構やってた気がするし」
「君は、犯罪者として、そのプログラムを受けているんだ」
国見あり紗にそう言われても、全く自覚がない。そもそも、それはどんなプログラムだったっけ? 麻薬中毒者が受ける更生プログラムみたいなものだっけ?
「犯罪者更生プログラムは、犯罪者の再犯を防ぐために導入された制度なんだけど、私もそれがどういうものか全然知らなかった。知ろうともしなかった。高校生の私たちに、そんなに関係のあることのような気がしなくて。私も詳しく調べてみて初めて知ったんだけど、犯罪者更生プログラムっていうのは、犯罪者の人格を、人格形成に大きな影響を及ぼすと言われている周りの環境ごと全て変えてしまうシステムなんだよ。犯罪行為を行うに至った要因を全て排除するために。それは、人格更生なんかじゃない。私は、人格の改造だと思う。完全に別人になってしまうんだから。当時、高校三年生だった君が、今も高校三年生なのは、そのプログラムに半年以上の期間を費やしたからなんだよ。
私は、君がプログラムを適用されたと知ってから、一生懸命になって君の行方を捜した。本来、犯罪者更生プログラムっていうのは、以前の環境を完全に排除する仕組みだから、それまで関わりのあった誰にもプログラム適用の事実は知らされないんだよ。死亡扱いになるらしい。当然、本人にも自覚はない。別の人間になってしまうんだからね。でも、私は、どうしても君を見つけ出したかった。そのために桐野さんには、結構危ないこともしてもらった。
私は、どうしても君にごめんねとありがとうを言いたかったんだ。それで君が許してくれるなんて思ってないよ。それに、私がそう言ったところで、君は、私の言っていることを、まるで信じられないだろうから。でも、私は、どうしても……。だって、君は、雨野を殺してなんかいない。優しい君は、私をかばってくれたんだ。そのせいで、私の代わりに犯罪者更生プログラムを受けたんだ。雨野を殺したのは、この私なのに」
これで全部話がつながった。だが、僕には、まるで実感がない。というか、すごく興味深い話だったけれど、全く現実味を感じられない。確かに、国見あり紗は、この話をする前に僕に断りを入れた。そして、彼女の断りどおり、僕は、この話を受け入れられずにいる。だって、僕は、生まれたときから紘川純だし、実は、別の人間だったなんて言われても……。
国見あり紗のことだって、これだけ言われても、まるで思い出さない。そういうプログラムだと言われたら、何の反論もできないけれど。それにしたって、何か少しでも僕が僕じゃなかった自分の頃のことを思い出してもいいような気がするじゃないか。それとも、どこかに以前の僕の欠片は残っているのかな。自分で気が付かないだけで。ああ、これももちろん、今の話が全部本当だったとしたらだけれど。
「君が私を思い出してくれなくてもいい。私が君を覚えているから」
国見あり紗は、そう言って僕を抱きしめると一筋の涙を流した。僕は、突然のことに、どうしていいのか分からなかったけれど、ただ、彼女のその涙を見た瞬間、ああ、恐らく、この話は全部本当のことなんだって思ったんだ。全く何の根拠もないんだけれど。でも、やっぱり僕には、どうしても現実感がなくて……。
たぶん、それはどうしようもないことなんだと思う。万に一つでも僕が以前のことを思い出すような可能性があるんなら、そもそも、国が犯罪者更生プログラムなんてものの適用を現実のものにはしていないはずだからだ。そんな奇跡みたいな話は、物語の中だけで起きることなんだ。
それから、これは、本当に妙な話かもしれないけれど、もしも以前の僕という存在が本当にいたとして、その生が、どこかの誰かのためになったんだとしたら、それはもう、すごく本当の幸いじゃないのかなって思うんだ。
「そうだね」
カムパネルラは、僕を抱きしめている国見あり紗の後ろでそう言った。
「もう行ってしまうのかい?」
「うん。僕は、そろそろ行かなきゃいけないから」
「もう会えないのかい?」
「うん。僕には、もう、君の側にいる理由がなくなってしまったから」
「寂しくなるね」
そう言う僕に、カムパネルラはお別れの言葉を告げた。
「さよなら」
「うん、さよなら」
背を向けて行ってしまったカムパネルラを見送りながら、僕は、目の前で僕を抱きしめてくれている国見あり紗を、恐らく僕を覚えてくれているだろうたった一人の人を、優しく抱きしめた。そうすることで、彼女の温もりが伝わってきて、僕は、本当にどうしようもない気持ちになった。こうすることが正しいことなのかどうかは僕には分からなかった。でも、そんな僕に、国見あり紗は、泣き顔のままで言ったんだ。
「ありがとう、間宮くん。ごめんね、間宮くん」
僕は、その彼女の言葉を聞いて、以前の僕の名前が間宮だということを知った。そうだ。今度、その間宮という男について、一体どんなやつだったのか彼女に詳しく教えてもらおう。そう思った。教えてくれるかな。
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