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紘川純2
「じゃあ、そういうスケジュールでいきますか?」
「そうだね」
僕は、部室で武田さんと今後のスケジュールについて話していた。僕が所属しているのは映画研究会。部員は、僕と武田さんの二人だけ。部を成立させるのに必要な最低人数を満たしていないから、正確には部ではなく同好会だ。だから部室といっても、視聴覚室の一角を勝手に部室として使わせてもらっている。
映画研究会は、今年入学した武田さんが作った。彼女は、子どもの頃から女優になるのが夢だったみたいで、自主製作映画が作れるような本格的な部を創部したかったらしい。けれど、奮闘むなしく部員は一人として集まらなかった。この春に、幕末の思想家として有名な吉田松陰にゆかりのあるこの街に引っ越してきた僕は、もともと映画が好きだったから、孤軍奮闘している彼女を見てすごく興味を持った。意を決して入部すると伝えたときは、彼女は、こちらが恐縮するくらい喜んでくれた。別に彼女のためじゃなくて、自分がやりたいから入っただけなのにな。
「そういえば、この前、純先輩、校門のところで春日にめっちゃ絞られてませんでした?」
「この前? ああ……」
あのハンチング帽にマスクの少女、国見あり紗に会った日だ。あの日、僕は、彼女の意味不明の言葉に「また考えておくよ」なんていう何の約束にもならない言葉を残して、その場から逃げるように立ち去った。それでも学校には遅刻して、校門のところで待っていた生活指導の春日先生に、こっぴどく叱られたんだった。あれは本当にひどい目に遭った。でも、何であんなところに女優の国見あり紗がいたんだろう。しかも一般人の僕によく訳の分からないことを言って。新手のドッキリか何かだったのかな。だとしたら、あれは失敗で放送されることはないな。
「連休明けで寝坊でもしたんですか?」
「いや、寝坊はしなかったんだけどさ、来る途中に変な人に捕まっちゃって」
「変な人?」
「うん、何かハンチング帽を深くかぶって、顔を隠すような大きなマスクをした……」
「それ、あからさまに怪しいですね」
「だよね。それでさぁ、その人が実は……。ん? どうしたの?」
僕は、机を挟んだ向かいで僕の話を聞いていた武田さんの視線が、なぜか僕の後方に移ったので不思議に思った。
「その人って、もしかして、あんな感じの人ですか?」
僕は、武田さんが指差した僕の背後を振り返った。
「え?」
そこには、この前と同じようにハンチング帽を深くかぶり大きなマスクをした女生徒が立っていた。女生徒だと分かったのは、その少女がうちの高校の制服を着ていたからだ。顔はよく見えないけれど、僕には、それが誰なのかすぐに分かった。
「考えてくれた?」
その女生徒は、制服のポケットに両手を突っ込んだまま、僕たちが座っているほうへゆっくりと歩いてきた。どうして彼女が学校に?
「純先輩、お知り合いですか?」
「いや、知り合いっていうか……」
「知り合いでしょ。この前、一緒に子猫を助けた仲じゃない」
「子猫?」
武田さんが首を傾げる。
「そう、子猫。木の上に登って降りられなくなった子猫を一緒に助けたの」
そう言って彼女は、当たり前のように僕の隣の席に座り、ハンチング帽を脱ぎ、マスクを取った。その瞬間、武田さんの顔は、絵に描いたような驚きの表情に変わった。国見あり紗を指さし、大きく口を開けている。
「あ、あ、あ」
武田さんの反応は、至極まっとうなものだと思う。冷静を装ってはいるけれど、内心では僕も心臓が止まりそうなくらい驚いている。
「どうしてここにいるんだよ」
「そりゃ、ここは学校なんだから、当然いてもおかしくないでしょ」
「当然て……君は、ここの生徒じゃないだろ」
「失礼ね。私は、れっきとしたここの生徒なんだけど。まあ、通信のほうだけどね」
「国見あり紗だ」
武田さんが、ようやく喉につっかえていた心の中の思いを声にした。
「私も芸能人だから、呼び捨てにされるのは慣れてるんだけど、一応『さん』とか付けてくれるとうれしいな」
「あ、ごめんなさい」
「ううん、いいよ、全然。あなたは、紘川くんの後輩?」
「はい、一年の武田茉優です」
「武田さん、よろしくね」
「はい」
武田さんは、まだ驚きが収まらない様子だ。しかし、どうして国見あり紗は、ここに現れたんだろう。どうして僕がここの生徒だって分かったんだろう。しかも彼女は、現れたときに「考えてくれた?」ってそう言った。それって、この前言ってたことだと思う。あれってドッキリとかじゃなかったんだ。でもそれなら、なおのこと何であんなことを言ったのかが分からない。
「あの、国見さんは、本当にここの生徒なんですか?」
武田さんが、恐る恐る尋ねる。
「そうだよ。まあ、この連休明けからだけどね」
「転校してきたってことですか?」
「転校って言うのかな? 通信なんだけど。でも、そういう感じ」
僕は、今、この学校に通信制があったことを初めて知った。
「え? え? でも、どうして?」
「仕事があるから全日制はちょっと厳しくてね」
「でも、東京にも通信制の学校ならたくさんあるんじゃないですか?」
「うーん、そうなんだけどね。何だか東京に疲れちゃって……」
実力派若手女優と言われている彼女が発したその言葉は、辺りに言いようもない静寂をもたらした。それが本当のことなのか、それとも演技なのか。彼女が発する言葉は、ひどくリアリティがあるようにも感じたし、そうじゃないようにも聞こえた。彼女の表情は、それだけで憂いを含み、テレビの画面やスクリーンを通してみる彼女とは、また違った儚いものを感じさせるのだった。そんな空気を振り払うように声を出す。
「どうしてここに?」
「この前の返事が聞きたくて」
「それって何ですか?」
「ああ、私、紘川くんに交際を申し込んでるの」
「え?」
武田さんがまた驚きの表情になる。元々よく表情の動く子だけれど、今日は顔の筋肉が大忙しだ。
「それは、その……」
だから、どうして有名人の国見あり紗が出会ったばかりの僕に交際を申し込んだのか、その理由がよく分からないんだ。しかも、この前の感じだと、以前から僕のことを知っていたふうだったし。
「純先輩、私、今、いっぺんにたくさんの情報が入ってきて、完全にキャパオーバーでパンクしそうになってます」
だろうね。安心して、僕もだから。
「通信課程なのに、何で制服を着てるの?」
「ここに来るには、そのほうが目立たないからでしょ」
いや、ハンチング帽とマスクで十分目立っていると思う。
「えーと……」
「まあ、返事は今じゃなくてもいいわ。ゆっくり考えてみてよ。それで二人で何の話をしていたの?」
「自主製作映画の今後のスケジュールについて話し合ってたんだよ」
人間ていうのは、自分の想像の範囲を超えた状況に陥ると、逆に冷静になることができたりもする生き物だ。例えば、別の人間が、その驚愕の部分を担ってくれている場合なんかは特に。今の場合は、武田さんがこの部分を担ってくれている。しかし、僕は、何をご丁寧に状況説明しているんだろう。
「へー、そうなんだ。私も出たいな、その映画」
「いや、そんなの無理でしょ」
「どうして?」
「だって、君はプロだし」
「プロが出ちゃいけないルールでもあるの?」
「それはないけど」
「じゃあ、いいじゃない」
「事務所だって許してくれないでしょ」
「部活なんだから、私の自由でしょ」
「君は、うちの部員じゃないし」
「じゃあ、部員になる」
「ほんとですか!」
武田さんの目が、驚きから歓喜の眼差しに変わっていた。女優になることが夢の武田さんにとって、実力派若手女優のトップに君臨する国見あり紗は、太陽のように眩しく見えているに違いない。
「でも……」
「やりましたね、純先輩。あり紗さんが出てくれるんだったら、きっと最高の映画が撮れますよ」
いつの間にか武田さんは、「国見さん」ではなく「あり紗さん」と呼ぶようになっていた。
「そうかもしれないけど」
「あり紗さんは、ぜひ主演を演じてください」
「主演は武田さんがやるはずじゃ」
「いいんです! あり紗さんが出てくれるのに、主演をやらなくて何をやるっていうんですか? それにあり紗さんが出たら、どんな脇役だって主役を食っちゃいますよ」
確かに国見あり紗なら、どんな脇役を演じたとしても主役を軽く食ってしまうだろう。アマチュアが演じる主役ならなおのことだ。
Trrrrrrrr。
「あ、ごめん」
国見あり紗は、ポケットに手を突っ込み、不意に鳴ったスマホの画面を確認してから電話に出た。
「はい、あり紗です。……はい……はい、分かりました」
国見あり紗は、短い通話を終えると、スマホをまたポケットにしまい込んだ。
「ごめん、桐野さんからだった」
「桐野さんて?」
「あ、そっか。ごめん、マネージャーから。もう行かなきゃいけないみたいなんだ。来たばっかりなのに。ほんとごめんね。絶対にまた来るから」
彼女は立ち上がり、現れたときと同じようにマスクをし、ハンチング帽を深くかぶった。そこでいったん動きが止まり、何かを少し考えているような表情になったかと思うと、おもむろにポケットからメモ帳を出して何かを書き始めた。今どき、メモ帳を持っている女子高生なんて珍しいな。書き終わった後で、それを乱暴に破って僕に差し出す。
「それ、私の連絡先だから。登録しておいて」
そう言い残すと、彼女は、今度こそ本当に視聴覚室から出ていった。国見あり紗が去ったこの部屋には、今、起きたことが本当なのか夢なのか分からないふわふわした空気が漂っていた。たぶん武田さんも僕と同じ空気を感じているんじゃないだろうか。むしろ僕よりも、もっとふわふわしているかもしれない。僕は、この前、一度彼女に会っていて、多少の免疫ができていたから。
武田さんは、不意に立ち上がると、国見あり紗と同じように部屋を出ていこうとした。
「どこに行くの?」
「トイレです。いちいち言わせないでください」
言葉では僕を責めたけれど、武田さんの表情は、それとは裏腹に、とてもにこやかなものだった。国見あり紗に会えたのが、そんなにうれしかったのか。
「どうして彼女はこの学校にやって来たんだろう?」
「さあね。何か探し物でもあったんじゃないかな」
どこからともなく現れたカムパネルラが僕の言葉に答えた。
「探し物って?」
「それは僕には分からないよ」
カムパネルラは、それだけを言うと、またどこかへ行ってしまった。
いつの頃からか僕の前に現れるようになったこの少年の名はカムパネルラという。名前はないみたいだったので、呼ぶのに不便だから僕が名付けた。僕は、宮沢賢治が大好きだったから、彼の残した作品に登場する人物の中から彼の名前を付けた。「銀河鉄道の夜」に登場する主人公ジョバンニの親友の名前。
カムパネルラは、いつも不意に現れて不意に去っていく。なぜか僕が一人でいるときにしか現れない不思議な少年だった。そして、彼の姿は、どうやら僕以外の人間には見えていないらしい。
僕は、武田さんもカムパネルラもいなくなった視聴覚室で、一人、国見あり紗のことをぼんやりと考えていた。
彼女は、『本当の幸い』でも探しに来たんだろうか?
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