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紘川純3
再び国見あり紗が僕たちの前に現れたのは、彼女が僕たちの自主製作映画に出演すると決めたあの日から五日後のことだった。毎日、テレビで見るような有名人なのに、本当に僕みたいな素人が撮る映画に参加している時間なんてあるんだろうか。僕がストーリーを考えたこの作品は、一応、コンクールに応募する予定だ。ちゃんとスケジュールどおりに撮影はできるだろうか。撮ってしまった後で、やっぱり自分が出演するのは事務所的にまずいなんてことにはならないだろうか。不安は尽きない。
そんな僕の心配をよそに、国見あり紗は、武田さんとファッションの話題で盛り上がっている。今年の夏は、ブルーが流行りだとか何とか。今でも僕は、あの国見あり紗が僕たちと同じ高校の生徒で、映画研究会に入部して、僕たちの自主製作映画に出演するということが信じられずにいる。何ていうか、まるで現実感がないんだ。
「そう言えばさあ、二人は、私の出てる映画、観てくれた?」
「もちろんですよ。何回も観て泣きました」
「ほんとに? 泣いてくれたなんてうれしいな。紘川くんは?」
「僕も観たよ」
「そっか、じゃあ、紘川くんには、私の裸も見られてるんだ」
国見あり紗のデビュー作「海の彼方に見えるもの」は、興行不振が叫ばれて久しい日本の映画界において、異例の大ヒット作品だった。もちろん僕も劇場に何度も足を運んだし、何度目でも客足が減ったと感じることはなかった。それは、映画界の天才と呼ばれている伊瀬武史監督が三年ぶりにメガホンを取ったことや、当時は全く無名だった国見あり紗の、フルヌードも辞さない体当たりの演技が高く評価された結果だった。
それでも公開当初は、彼女のフルヌードの部分ばかりがクローズアップされて、演技について論じているメディアは少なかった。だが、映画がヒットし、ロングラン上映されるようになると、国見あり紗の演技を絶賛する評論家が増えてきた。彼女の、容姿を含んだ若さとは裏腹の、どことなく儚げな表情やしゃべり方、少女の内面に潜む女の部分、そのギャップは天性の女優であるというふうに各方面で絶賛された。事実、その年の新人賞は、彼女が独占したと言っても過言ではなかった。
そんなものすごい女優が、今、僕の目の前にいる。しかし、僕には、どうしても目の前の彼女と、あのスクリーンの向こう側に映っていた国見あり紗が同一人物のようには思えなかった。うまく一致しないんだ。だからこそ女優なんだと言われたら、そのとおりかもしれないけれど。
「それで、どうだった?」
彼女は、少し恥ずかしそうに僕を見て言った。
「え? ああ、うん、きれいだった、と思う」
「は?」
国見あり紗は、僕の答えを聞いて怪訝そうな顔をした。
「え?」
あれ?
僕、何か変なこと言っちゃったのかな。
「ありがとう。でも私の裸の感想じゃなくて、映画がどうだったのかを聞いたつもりなんだけどな。紘川くんて、意外とエッチなんだね」
「ええ?」
「もしかして、今も私のこと、そういう目で見てるのかな?」
「いやいやいや、待って待って。今の話の流れだと、普通、そういうふうに勘違いするでしょ。武田さんも、そう思ったよね」
僕は、思いもしなかった展開に、焦って武田さんに助けを求めた。しかし、武田さんは、明らかに冷たいまなざしで僕を見ていた。
「純先輩が、そういう人だったなんてがっかりです。私、純先輩は、映画と真剣に向き合ってる人だと思ってました」
「待って、本当にそんなこと思ってないから」
「汚らわしいです」
そこまで言わなくても。ちょっと勘違いしただけじゃないか。それにあの返事は返事で、口に出して言うのも、かなりの勇気が必要だったのに。
「本当に僕は」
「もういいよ」
国見あり紗が僕の反論をさえぎった。でもその口調は穏やかで優しいものだった。
「あり紗さん、いいんですか。簡単に許すと付け上がりますよ」
「うん。でもきれいって言ってくれたからいい」
「あり紗さんがいいならいいんですけど……。良かったですね、純先輩。あり紗さんが心の広い人で。でも、もし将来、私がそういうシーンを演じたとして、純先輩が同じことを言ったら、一生許しませんからね」
「ははは、茉優ちゃんは怖いね」
何なんだ、この展開。これじゃあ、まるで僕が変態みたいじゃないか。何だか釈然としない。巧妙な罠にはめられたような気分だ。
その後、僕は、当事者である国見あり紗ではなく、武田さんから延々と文句を言われながら撮影準備を終えた。どうにかこうにか撮影を始められそうだ。国見あり紗には、データで台本を送ってある。読む時間があったかどうかは分からないけれど、相手はプロの女優だ。セリフを覚えてきてくれたかどうかなんて、聞くこと自体が失礼な話だと思う。だから、僕は、そんなことは何一つ言わずに所定の場所についた。時間が限られている国見あり紗の出演シーンを先に撮る。
「じゃあ、始めるよ。五秒前、四……アクション!」
そう言って撮影を始めた僕がカメラ越しに見たのは、さっきまで僕を責めていたかわいい女子高生ではなく、その憂いを含んだ表情だけで、実際に言葉にするよりも多くのことを語っている一人の女性だった。それはまさしく、僕がスクリーンで見た女優の国見あり紗だった。
『ねえ、君が勇気を出して初めて誘ってくれたあの日の私と今の私って、何が違うのかな』
彼女が放った最初のその一言で、僕は心を全部持っていかれた。国見あり紗が、僕の考えたセリフを口にしている。僕の考えた登場人物に命を吹き込んでいる。僕の創作が彼女の演技によって現実に変えられていく。文字だけが並んでいる白黒の世界が立体的に色づけられていく。これが女優か。これが国見あり紗か。僕は、なぜだか泣きそうになるのを必死に我慢していた。何なんだろう、この言いようのない気持ちは。
僕は、そのシーンが終わってもカメラを止めることができなかった。ただ、ひたすらにカメラ越しに映る国見あり紗を見ていた。
「純先輩、このシーン終わりですよ」
武田さんの声で我に返った僕は、かすれた声でカットと叫ぶと、カメラを止めてから、国見あり紗に背を向けて少し涙をぬぐった。そんな僕の様子を見て、武田さんが心配そうに声を掛けてきた。
「純先輩、どうかしましたか?」
「いや……何でもないよ」
僕は、視界の端に武田さんを感じながら、ようやくそれだけを答えた。映画の登場人物って、演じる人によって、その印象は全然違ったものになるんだと思う。演者がその登場人物のことを、どういうふうに理解するかによっても大きく違ってくると思う。その登場人物を作った人間の意向とは異なった人物像が浮かび上がってくることもあるだろう。だが、国見あり紗が演じたのは、僕がこの脚本を書いたときに思いを込めて創作した登場人物のイメージと全く一緒だった。いや、僕のイメージ以上だった。僕のつたない言葉では伝えきれない部分を、彼女が演技で補填し、形にしてくれた。だから僕は、カメラの向こう側にいる彼女を見て、泣いてしまったんだ。
「監督、今の感じでよかったですか?」
僕は、国見あり紗の言葉に、振り返って大きくうなずいた。何度も何度も。すると彼女はまた少し笑った。それは本当に優しい微笑みだった。
それから僕たちは、たくさんの他のシーンも撮影した。国見あり紗に時間の制約がある以上、こうして目の前にいるうちに、できるだけ多くのシーンを撮っておく必要があった。何度目かのカットの後で、国見あり紗は、またマネージャーの桐野さんから連絡を受け、名残惜しそうに僕たちの前から去っていった。去り際に何度もごめんねと言いながら。
国見あり紗が去った後で、残された僕と武田さんは、現場の片付けをしていた。本当だったら、今日撮ったシーンも、武田さんが演じるシーンだったのに、彼女は文句の一つも言わずに手伝ってくれている。彼女は女優志望だ。それにもともと映画研究会は、彼女が作ったものだ。申し訳ないという気持ちは、いやが応にも沸き起こってくる。
「本当に良かったの?」
「何がですか?」
「今日のシーンも、本当だったら」
「あ、それ以上言わないでください」
武田さんは、僕に最後まで言わせてくれなかった。だから僕は、本当に短い言葉だけを声にした。
「ごめんね」
「謝るのって反則ですよ。でも、私、純先輩のそういうところ好きです」
武田さんは笑っていた。やっぱり国見あり紗に主役を譲ったけれど、悔しいって気持ちはあるんだろうな。
「純先輩、今日、最初のシーン撮った後で少し泣いてたでしょ?」
「あれ、ばれてた?」
「ばればれですよ。私はちゃんと純先輩のこと見てるんですから。でも、純先輩が泣いてるのを見たときに、私、思ったんです。ああ、やっぱり、これで良かったんだって。だって、私じゃ純先輩を泣かせられないと思うから」
「そんなこと」
「あ、それ以上言わないでください。じゃないと、今度は私が泣いちゃいますよ」
「……ごめん」
「謝るのも反則って言ったはずですよ」
「ああ、ご……」
またごめんて言いそうになって口ごもる。
「やっぱりプロの女優さんてすごいですね」
「武田さんならなれるよ、きっと」
「それも反則です」
人は時々、夢をあきらめさせるほどの才能に出くわすことがある。それが幸せなことなのか不幸なことなのかは分からない。出くわしたタイミングにもよるだろうし、どっちが正解だなんて誰にも言えない。でも、かなう夢もあきらめてしまえば、その時点で永遠にかなうことはなくなる。きっとスクリーンの向こう側で輝いている国見あり紗のような人たちは、努力することをあきらめなかった人たちなんだと思う。
「僕は、武田さんに女優になってほしいな。だって、そうじゃないと僕の映画に出てもらえないから」
「私は絶対にあきらめませんよ。あり紗さんのような人を目の当たりにしても。さっき、私じゃ純先輩を泣かせられないって言ったのは、あくまでも今の私じゃってことですからね。そこんとこ間違えないでくださいね」
「うん」
「純先輩の映画には、ちゃんと出てあげますから。でも、ギャラは高いですよ。割り増しですから」
「何で? そこは知り合いだから割引なんじゃないの?」
「何言ってるんですか。素晴らしい映画を見て、出てる女優さんの裸のことばっかり考えているような変態に割引なんてありませんから」
「ええ? そこに戻るの?」
「重要なことですからね」
武田さんは、胸の前で人差し指を立てながらそう言った。もちろん本気で言ってないってことは分かっていた。
「いい作品にしましょうね」
「もちろん」
僕たちは、夕闇が降りた薄暗い世界で、そんなことを話しながら片付けを済ませていった。いい作品にしたい。いや、絶対にいい作品にするんだ。国見あり紗がいればできるはずだ。そう思っていた。けれど、その日以降、国見あり紗は、しばらく僕たちの前に現れなかった。
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