7人が本棚に入れています
本棚に追加
間宮裕貴4
その日、葉介と一緒に学食で昼飯を食べて教室に戻ると、俺たちの教室には人だかりができていた。
何だ? 何かあったのか?
人込みをかき分けて中に入ると、その原因が分かった。同時に一瞬だけ言葉を失う。俺たちの教室のちょうど真ん中あたり、雛川の席に、美好涼子が腕組みをして座っていた。葉介が夢中になっている例の女優だ。明らかに周りにいる生徒たちとは異なるオーラをまとっている。隠そうとしても隠し切れないオーラ。これが芸能人のオーラってやつなんだろうか。そういや彼女がうちの高校の生徒だっていううわさがあったな。まさかと思っていたが、あのうわさ、本当だったのか。でも変だ。美好涼子は、制服ではなく私服を着ている。授業を受けに来たっていう雰囲気じゃない。何やら両目を閉じて難しそうな顔をしているし。
「わわわ、裕貴、本物の涼子ちゃんなんだけど。何これ何これ?」
葉介は、ご執心の芸能人が目の前にいるのを見て、完全に舞い上がってしまっている。俺は、別にファンというわけではなかったので、自制心を保つことができた。だが、それでも実際に目の前で芸能人を見ると、多少テンションは上がってしまう。
そういえば、今朝のワイドショーで、映画界の天才、伊瀬武史監督の新作映画の制作発表が話題に取り上げられていたな。確か主演女優は未発表。そもそもヒットメーカーである伊瀬監督の新作が作られること自体が大きな話題だが、主演女優が発表されていないことで、誰が主演を務めるかの推測が飛び交っていた。その予想の大半を占めていたのが、今、目の前に座っている美好涼子だった。確かに彼女なら、伊瀬監督の過去の作品にも出演しているし、若手女優の中では、人気実力ともに申し分なく、話題性にも事欠かない。もし仮に、本当に美好涼子が新作映画の主演を務めるのなら、撮影が忙しくて、しばらく学校には来られなくなるだろう。だから出席日数を稼ぐためにやって来たのか? でもそれだと私服で来ていることに説明がつかない。いくら有名人だからといって授業を私服で受けさせるほど高校側も優遇はしないだろう。他の生徒にも示しがつかない。ていうか、そもそも普段、美好涼子を学校で見ること自体ないじゃないか。今さら出席日数も何もないだろう。
「あ、室井たちが戻ってきた」
俺たちが戻ってきたのを見て、クラスメイトが声を掛けてくる。
「室井、おまえらを待ってたんだよ」
「どうした? それより何で涼子ちゃんがうちのクラスにいんだよ」
「おまえらをご指名だ」
「え? 俺を?」
いや、俺じゃなくて俺らをだろ。葉介のやつ、完全に舞い上がっちゃってるな。でも、美好涼子が俺らに何の用事があるんだ? 葉介はどうだか知らないが、少なくとも俺は、美好涼子に会ったことなんて一度もないぞ。
「雛川に用があるみたいなんだけどさ、休みだって言ったら、じゃあ一番仲がいいやつは誰だって言うから、おまえらの名前を言ったんだ。そしたら、戻ってくるまで待つって言って」
「雛川に何の用?」
「それは俺らも知らねぇ」
有名芸能人が雛川に一体何の用だろう。そのとき、俺たちのやり取りが聞こえたのか、美好涼子が振り返ってこちらを見た。それを見て葉介が近づいていく。
「俺に何の用ですか?」
「あんたが間宮くん? それとも室井くん?」
「室井です」
「雛川麻衣って、このクラスなんでしょ?」
「そうですけど」
「彼女は、どうして今日、学校に来ていないの?」
「それは知らないっす」
「知らないの。あんた、雛川麻衣の男じゃないの?」
「え? いや、別に男ってわけじゃ」
「そっちは?」
美好涼子は、俺のほうを見て葉介にしたのと同じ問いを繰り返した。しかし、彼氏とか言うならまだ分かるけど、男って言い方は少し柄が悪いというか、失礼なんじゃないか。
「いや、俺も知らない」
「何だ、どっちも知らないの。たいして仲いいわけでもないのね」
葉介とのやり取りを見ていても失礼なやつだなと思ったが、俺は、この一言で完全にプチッと来てしまった。
「おまえ、いきなり初対面の相手に失礼なんじゃね?」
俺は、不愉快な顔を全開にして言ってやった。すると、美好涼子も不機嫌な顔を隠そうともせずに俺に言い返してきた。
「そっちこそ失礼なんじゃない。あんたにおまえ呼ばわりされる覚えはないんだけど」
「おまえ、何なんだよ。人の教室にやってきて、言いたいこと言いやがって」
「おい、裕貴」
葉介が止めようとするが、もう手遅れだ。こういうやつは、俺が一番嫌いなタイプの人間だ。それが芸能人だろうが知ったこっちゃねぇ。芸能人がそんなに偉いのかよ。
「だいたい、おまえ、この学校の生徒なのかよ」
「そうよ」
「名前と学年言ってみろよ」
「はあ? それって必要ある?」
「あるから言ってんだろ。おまえが本当にうちの学校の生徒だってんなら、クラスも名前も言えるはずだろ。言えないんなら、不法侵入って可能性もあるからな」
「ばっかじゃない。でもいいわ。教えてあげる。私はれっきとしたこの学校の生徒。クラスは、通信課程だから存在しない。私は忙しいから、あんたたちみたいに毎日意味もなく学校になんて通えないの。分かった?」
「名前は?」
「あんた、私を知らないの?」
「裕貴、ほら、美好涼子さんだよ。テレビとかでよく見るだろ」
「葉介は黙っててくれ。美好涼子くらい俺も知ってる。だが、俺がテレビで見た美好涼子は、こんないけ好かない女じゃなかったぞ」
「いけ好かなくて悪かったわね」
「名前」
俺は、追及した。
「だから、そのいけ好かない美好涼子よ」
「それは芸名だろ。俺は本名を聞いてるんだ」
「何であんたに本名を教えなきゃいけないのよ」
「言えない理由でもあるのか」
「ないわよ、別に」
「だったら言えよ」
「……吉見玲子よ」
何だ、当てずっぽうで芸名じゃなくて本名のほうを教えろって言ったら、本当に美好涼子っていう名前は芸名だったのか。
「学年は?」
「何これ? 私に対する尋問か何かなの?」
「それも言えないのか?」
「ふん、二年だけど」
まさかの後輩かよ。態度が大きいから、勝手に同学年かと思っていた。でも、だとしたら、先輩に対してこの口のきき方はかなり失礼じゃないか。サッカー部に所属している俺から言わせてもらえば、先輩にこんな口のきき方をするなんて考えられない。フルボッコにされても文句は言えないぞ。
「それで雛川に何の用だよ」
「だから、何で今日休んでいるのかを聞きに来たのよ」
「どうしておまえがそんなことを気にするんだ?」
Trrrrrrr。
そのときスマホの呼び出し音が鳴った。それは美好涼子のスマホだった。俺との話の途中だったが、彼女は、そんなことはお構いなしに電話に出た。
「何?」
「そんなの、どこだっていいでしょ」
「はあ? 今から? 無理だから」
「分かったわ。あなたの顔を立ててあげる」
「桐野、事務所に言って人を増やしてもらったほうがいいんじゃない。あなたには、私以外の子の面倒を見る時間なんてないでしょ」
「うん、分かったわ。すぐにここを出る。うん、社長によろしく」
美好涼子は、電話を切ると、ちゃらちゃらとたくさんストラップの付いたスマホをポケットにしまい込み、何も言わずにそのまま教室から出ていこうとした。
「おい、待てよ! こっちの話が終わってないだろうが」
美好涼子は、俺の言葉にゆっくりと振り返って言った。
「うるさい」
それは静かな口調だったが、明らかにさっきまでとはまた違う種類のオーラをまとった誰にも口答えを許さない言い方だった。俺は、その言葉と迫力に一瞬ひるんでしまった。彼女は、それを見透かしたかのように不敵に笑うと、教室に集まってきていた大勢の生徒たちの中を悠々と去っていった。彼女が通る方向には、自然と道ができていた。
「裕貴、そんなに怒んなくても」
「いや、そんなつもりはなかったんだけど、あまりにも失礼だったからさ」
俺は、美好涼子の最後のひと睨みで、完全に怒りを抑え込まれていた。あのとき美好涼子は、ひどく怖ろしい目をしていた。それは今まで俺が見たことのない目だった。あんな目ができるのは、彼女が女優だからなのか、それとも、俺と違って大人の世界、それも生き馬の目を射抜くような芸能界で生きているからなのか。
美好涼子がいなくなると、教室には、いつも以上にざわめきと喧騒が広がっていた。もちろん、今起きた出来事を口々に話している。
「美好涼子がうちの生徒だって話、本当だったんだね」
「でも、通信て言ってたから、普段は学校には来てないんじゃない」
「雛川さんて美好涼子の知り合いなのかな?」
「そんな感じでもなかったけどな」
「やっぱり美人だったよねぇ」
「何言ってんだよ。おまえのほうが美人だよ」
「あ、それ、逆にムカつく」
このざわめきと喧騒は、しばらく収まりそうにないな。みんな、午後からの授業は、完全に上の空になるだろう。でも本当に、美好涼子は、雛川に何の用事だったんだろう。雛川の交友関係を全部把握しているわけじゃないが、どう考えたって面識があるとは思えない。明日、雛川が出てきたら、直接聞いてみるか。俺が言わなくても、今日のことは自然と耳に入るだろうしな。
「裕貴、雛川が休んでる理由、本当に知らなかったのか?」
「ああ、知らない。まあ、知ってても教えたかどうかは分からないけどな」
「そっか」
「何だよ、葉介は知ってたのか?」
「いや、俺も知らない」
何でわざわざそんなことを聞いてくるんだろう。変なやつだな。いつもの葉介らしくない。明日には、何もかも全部はっきりするさ。雛川が学校に出てきたら。だが、次の日も、その次の日も、雛川が学校に現れることはなかった。
最初のコメントを投稿しよう!