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紘川純5
国見あり紗は、あれからおよそ一カ月が過ぎて、ようやく僕たちの前に現れた。武田さんが出演しているシーンを撮るのも、もう限界だったから、正直、ほっとしたんだけれど、それ以上に今まで現れなかった彼女に僕は不満が募っていた。仕事だから仕方がないということは分かっている。それを分かったうえで、武田さんと入れ替えてまで彼女を主役に配役したのは僕だ。それも分かっている。だから最終的な責任は全部僕にある。それでも……。
「ごめんね。長い間来られなくて」
国見あり紗は、久し振りに現れると、開口一番謝罪の言葉を口にした。それだけで彼女を責める気持ちが薄らいでいく。もちろん、それが彼女の計算だなんて思っていない。この場合、彼女じゃなくても、普通の神経の持ち主なら、たいてい同じ行動をとったと思うからだ。
「仕方ないですよ。あり紗さんは、忙しい人なんですから」
「そんなの言い訳になんないよ。最初から分かってたことなんだから」
「そうだね。それは言い訳にはならない」
全部自分が悪いと分かっているのに、コンクールまでの残り時間が少なくなっていく焦りから、彼女に対して責めるようなことを口にしてしまう。
「ちょっと純先輩、そんな言い方をしなくても」
「茉優ちゃん、いいんだよ。紘川くんの言うとおりだから。ほんと、ごめんね、紘川くん」
国見あり紗は、僕の言葉に反論はしなかった。伏目がちになりながら、僕の言葉を肯定し、そして謝罪を繰り返した。自分でも嫌なことを言っているなと思う。本当はそんなこと言いたくないのに。でも、作品が完成しなかったら、きっとみんなが自分を責めるんだ。僕も、武田さんも、そして国見あり紗も。
そんな再会だったから、久し振りに三人が揃ったというのに、あまりいい雰囲気ではなかった。こんな調子で撮影はできるんだろうか。彼女のほうは、問題ないんだろう。仮にもプロだ。カメラが回れば女優の顔になるはずだ。でも僕のほうはどうだ? 最初に彼女を撮ったときと変わりなく、彼女を撮ることができるだろうか。武田さんとのこともそうだ。あのとき、急に伊瀬監督が現れたことで、僕も武田さんも、すっかり驚いてしまったから、話はそこで止まっている。僕は、それ以降、武田さんが何も言わないのをいいことに、そのまま沈黙を続けている。僕は、ずるい人間だ。
「あ、そういえば、ちょっと聞いてくれます、あり紗さん」
重苦しい雰囲気を察したのか、武田さんが空気を換えようと努めて明るく話しだした。
「どうしたの?」
「あり紗さんがいない間に、ここに伊瀬監督がやって来たんですよ」
「え?」
「もう私たちびっくりしちゃって。ねえ、純先輩」
「うん」
国見あり紗は、伊瀬監督の名前を聞くと、一瞬、驚いた表情になった。それはどちらかというと、あまり歓迎しているふうな表情ではなかった。
「ちょうどここで純先輩と二人で撮影してたら、純先輩の後ろから急に現れて、あんなふうに、え?」
「今日は何だか雰囲気がよくねーなぁ。ひょっとして修羅場か?」
僕の背後から声がした。それは、この前ここで聞いたのと同じ声だった。
「伊瀬監督!」
武田さんが驚きのあまり、その名前を口に出して叫んだ。
「よう、お嬢ちゃん。久し振りだな。今日もいい演技やってるか?」
「は……はい」
「それは結構なことだ」
振り返ると、僕の後ろに、この前と全く同じように伊瀬監督が立っていた。伊瀬監督は、国見あり紗を見ている。
「捜したぞ、あり紗」
「ご無沙汰してます」
国見あり紗は、立ち上がって丁寧にお辞儀をした。
「おまえが俺を避けるから、こんなところまで追っかけてきちまった」
「そんな、避けてなんていません」
「本は読んでくれたか?」
「はい、でも、私はあの作品には参加できません」
「どうしてだ?」
伊瀬監督の問いに国見あり紗は答えなかった。ただ、黙っているだけだった。
「今さら裸になるのが嫌ってわけでもないんだろ? だったら何だ? 何が気に入らない? もう一回俺と組もうじゃねーか。おまえとなら、また世間をあっと言わせられる作品が作れる」
しかし、それでもやはり国見あり紗は黙ったままだった。さすがにこのまま見ているわけにもいかなかった。
「あの、撮影中なんで遠慮してもらえませんか?」
「あ?」
伊瀬監督は、驚いた顔でしばらく僕を見ていた。僕みたいな人間が、自分に何か意見を言うはずがないと思っていたんだろう。伊瀬監督は、おもむろにタバコを取り出して火を点けた。一息吸い込み、ふーっと煙を吐き出す。
「おまえ、名前は何てんだ?」
「紘川です」
「じゃあ、紘川。一度だけ言う。いいか、よく聞いてろよ。二度と俺に意見するな。俺は誰かに意見されるのが一番きれーなんだよ。それも、おまえみたいな何にも知らないガキにな」
それは、言葉の内容とは裏腹に穏やかな口調だった。それが却って恐ろしかった。でも僕は、心を奮い立たせて再度同じことを言った。
「今は撮影中なので、ご遠慮ください」
「なあ、あり紗。おまえは俺と映画を撮るより、こんなお遊びみたいな映画を撮ってるほうがいいってのか?」
伊瀬監督は、僕を無視して国見あり紗に話しかけた。駄目だ。ここで引き下がっては。
「すいません、今は」
「二度と意見するなって言ったろうが! おまえは部外者なんだから関係ねーだろ!」
伊瀬監督は、激高して僕に激しい言葉を浴びせかけてきた。武田さんがびっくりして泣きそうになっている。だが、それでも僕はやめなかった。自分の映画をお遊びみたいと言われたことが許せなかった。それを言ったのが、たとえ映画界の天才と呼ばれている伊瀬武史でも。
「部外者なのは、あなたのほうです。今、僕は、彼女と映画を撮ってるんです。僕たちの映画に土足で踏み込んでこないでください」
自分でも驚いている。僕にこんな部分があったなんて。今まで僕は、できるだけ誰かと争ったりしない人生を送ってきた。けんかの一つもしたことがない。それは僕が平和主義者だからというわけではなくて、許されるよりも許すほうが勝ちだと考えていたからだ。でも、伊瀬監督の今の言葉だけは、どうしても許せなかった。誰かが一生懸命になっていることについて、他の誰にもバカにする権利なんてない。
「言うじゃねーか、ガキが」
「伊瀬さん」
そのとき伊瀬監督の背後から男性の声がした。そこには真っ黒のスーツを着た背の高い男が立っていた。
「桐野」
「伊瀬さん、今度、あり紗と話し合う時間をちゃんと作りますから、今日はお引き取り願えませんか? 人目もありますし」
怒りで周囲の状況が見えていなかったけれど、僕たちの周りには、いつの間にか大勢の人が集まってきていた。さっきの怒鳴り声で、何ごとが起きているのかと思ったのだろう。伊瀬監督は、国見あり紗と桐野と呼ばれた黒スーツの男を交互に見て、ふんと鼻を鳴らした。
「ここは、おまえに免じて引き下がってやるよ。知らない仲でもないしな。だが、ちゃんと時間は取ってもらうぞ。あり紗、俺は、おまえをあきらめないからな」
「ありがとうございます」
丁寧にお辞儀をする黒スーツの男を見て、伊瀬監督は、もう一度ふんと鼻を鳴らして去っていった。この前と同じように、ペタペタとゴム草履の音をさせながら。僕の横を通り過ぎるときに、たった一言だけを残して。
「映画で俺を黙らせてみせろ」
それが伊瀬監督の捨て台詞だった。
辺りに平穏が戻った後で、僕は、その黒スーツの男が国見あり紗のマネージャーだということを知らされた。前に彼女が電話で話していた桐野さんだ。
「あり紗、あんまりあの人を怒らせるなよ。映画は天才かもしれないが、それ以外はやくざみたいな人なんだから」
「はい、ありがとうございます、桐野さん。でも私は」
「分かってるよ。無理に出たくない映画に出ることはない」
「はい」
桐野さんは、くるっと僕のほうに振り返ると、僕の顔をまじまじと見て言った。
「国見あり紗のマネージャーの桐野です」
「紘川です。ありがとうございました」
僕は、たった今、助けてもらったことのお礼を言って深くお辞儀をした。
「いや、こちらこそありがとう。あり紗を守ってくれて」
「そんな、守っただなんて」
桐野さんは、しばらく僕の顔を見ていたが、すごく優しい顔で「本当にありがとう」ともう一度言った。僕は、すっかり恐縮してしまって、何て言っていいか分からなくなった。だって、僕が伊瀬監督と争ったのは、本当に国見あり紗を守りたいっていう気持ちじゃなくて、いや、そりゃあ、多少そういう気持ちもあったとは思うけれど、それよりも僕は、僕の映画をバカにされたのが許せなかっただけで……。考えるより先に言葉が出てしまっていた。つい、怒りに任せて天才映画監督にかみついてしまったというのが本当のところだ。
「桐野さん、実は、私のせいで、この撮影が押しちゃってるから、少し仕事を減らしてほしいんです」
僕が、桐野さんの言葉と態度にすっかり恐縮していると、不意に国見あり紗が驚くようなことを言った。
「え?」
僕は、思わず声を出してしまった。だって、そうだろう。プロの女優が、素人の撮る映画撮影のために仕事を減らすなんてことを普通言うだろうか。仮にもし、そういう女優がいたとして、現実にそんなことができるだろうか。国見あり紗は、どこまで本気で言っているんだろう。しかし、それに対する桐野さんの答えは、さらに僕を驚かせた。
「そうか、分かった。何とかしよう」
ちょっと待って。何でそこまでして。確かにそうしてもらえるのは、ものすごくありがたいことだけれど、そこまでして彼女が僕の映画に拘る理由が分からない。時として、理由の分からない親切や厚意は、逆に人を不安にする。その裏側に何があるのだろうと勘ぐってしまう。けれど国見あり紗は、そんな僕に向かって言ったんだ。すごく優しく、でもどことなく儚げな笑顔で。
「紘川くん、これで撮影は大丈夫だよ」
その笑顔に僕は、返す言葉も見つけられずに、ただただ彼女を見ていることしかできなかった。そのとき、武田さんが急に泣きだした。そこにいたみんなが驚いて彼女のほうを見る。
「怖かったですー」
さっきの僕と伊瀬監督のやり取りに、すっかり驚いてしまった武田さんは、安心したら、それまでずっと我慢していた感情があふれ出してきてしまったらしい。確かに、あの状況は、十五歳の少女には、ひどく怖ろしいものに映っただろう。そんな彼女を見て、国見あり紗がすぐに駆け寄って声を掛ける。
「ごめんね、茉優ちゃん。もう大丈夫だから安心して」
その言葉に武田さんは、一層声を上げて泣き出してしまう。
「ほんとに怖かったんですー。いつかあの人をぎゃふんと言わせたいですー」
僕と国見あり紗は、行動とはちぐはぐな武田さんのその言葉を聞いて、お互いに顔を見合わせて少し笑ってしまった。彼女のその言葉は、張りつめていた僕たちの心を柔らかくした。そのとき僕は思ったんだ。全く何の根拠もないけれど、もしかしたら、武田さんなら、いつか本当に伊瀬監督をぎゃふんて言わせるかもしれないなって。
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