前説

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前説

パンを咥えた女子高生とぶつかった男子高校生がこの世界に何人いるのだろう。 幼稚園からの幼なじみにある日突然恋心を覚え、その混じり気のない愛を貫き通してゴールインまで至った社会人男性がどれくらいいるのだろう。 同窓会で再会した初恋の女の子と酔った勢いで一夜を過ごすとともに童貞を卒業し、そこから恋人関係になった男がどれほどいるのだろうか。 そんな漫画チックな、ドラマチックな、オリジナル成人向け同人誌チックな展開が現実世界で起きた男子がどれほどいるものなのだろうか。 根拠はないが、はっきりと言える。 0だ。 そんな運命的な出来事はそうそう起こらないし、学生時代に冴えない陰キャだった奴は大人になっても陰キャのままだし、大人になってから寄せられる女性からの好意には大抵裏があると疑ってしまって楽しむことができない。 これだけ聞くと、僕らの人生は創作やフィクションに圧倒されてしまうし、そうしてそれをどうせ叶わない夢として容認してしまうほど僕らの現実世界は「つまらなさ」に満ちているように思われてしまうのは、本当にいた仕方ないことだと思う。 だがどうだろう。僕らが住んでいる世界は、本当にそんなに「つまらなさ」に満ちているのだろうか。 かの有名なイギリスの劇作家バイロンは、生前こんな言葉を残している。 「事実は小説より奇なり」 確かに僕らを主人公とした世界には面白いことは起きないのかもしれない。毎日仕事に出かけ、スマホでゲームをしながら通勤して、特に何もすることもない週末を、ネットを駆使して潰す。 でもそんな僕らの「世界」の外側では、「異常」と呼んでも差し支えない数々のドラマが生まれていはいないだろうか。 バイト先の人妻と関係を持って裁判沙汰になった。 奥さんがいるにもかかわらずタイに行き、そこであろうことかニューハーフと情熱的な夜を過ごした挙句「そっち」に目覚めてしまった。 地元の風俗店に行ったら昔好きだった女の子がナンバーワン嬢になっていた。 これらは何を隠そう僕の友人たちに起こった話である。もちろん彼らがカズレーザーや手越のように過激かつ魅力的かといわれるとそんなことはないと否定せざるおえない。しかしそんな学生時代にも社会人にも大してパッとしなかった連中にすら、「生きている」だけでこんな面白いことが起こってしまうのだ(もちろん彼らにとっては面白くないだろうが、聞いている分には面白いので彼らには申し訳ないが笑ってしまうものである)。 そうして僕は彼らの話を聞きながら思うのだ。僕らは実はフィクションを「理想化」し過ぎているのではないか、と。映画や漫画を「架空」と定義し、現実世界と切り離して比較する。だから僕らの人生をそういうアクションやドラマが豊富に詰まった、いや、詰めざるおえなかった限定的な空間(映画なら2時間、漫画なら数百ページ)と比べてしまうと、些かつまらないものに思えてくるのではないか、と。 だけど、もし僕らの人生にきっちり「クライマックス」があって、それがゆっくり流れていく日常によって霞んでしまっていて、僕らがそれを見落としてしまっているだけなのだとしたら。 僕たちの時は常にストーリーの盛り上がりに満ちてはいない。寝ている時、一人でテレビを見ている時、散歩をしてどうでもいいことを考えている時、授業の合間机に寝そべって目を瞑っている時、犬のフンを拾ってビニール袋に入れている時、そんなものは、僕らの人生が一つ大きなフィルムならば、監督がバンバンカットしてしまうようなシーンばかりだ。 でも僕たちはそれができない。カットすることも、編集することも、この「余暇」と呼ばれる時間を破棄することもできないのだ。 いや、できないのではない。しなくていいのだ、そんなこと。 僕らはそうやって、誰のためにでもなく(それは自分という存在を含めてなのだが)理由もなく、誰に言い訳するでもなく誰と喋るわけでもない、緩やかで孤独で、しかしなんの感情も揺さぶられないような時間を生きている。そしてそれは社会のしがらみやプレッシャー、「自分」という人間の自我からさえも離されていて、責任なんてどこにもなくて、しかし「死んでいる」こととはまた違っていて、そういう難しいことすら考えなくたっていい時間なのだ。 「書を捨てよ、街へ出よう」と、寺山修司は言っていたが、僕たちは大事なことしか書かれていない、誰かに読んで欲しくて全てがクライマックスへと繋がるように仕組まれた「本」を捨てて、自分の人生になんの役に立つかもわからない、いや、そもそも自分の人生とつながっているかどうかすらも分からない「街」に繰り出さなくてはいけないような気がする。 この作品は、そんな「街」のどうでもいい様子を私の目線から淡々と描いた作品である。 思ったこと、感じたこと、そしてそのたびに思い出す「彼女」のこと。 恋愛が、誰か一人の女性への愛を描くものだとしたら、それは愚かなことであると言わざるおえない。たくさんの人との縁の中で、僕たちは恋をしているのだから。 これが恋愛小説と呼べるかは少し怪しいが、でも、いや、だからこそ、男子諸君、我々は情熱的なドラマを求めることをやめ、日常生活に目を向けるべきだ。それは悟りを開けだとか諦めろとかそういうことではなく、ただ単純に「恋愛」を楽しむために。そしてその先に、僕たちは必ず求めている「愛」を探し当てることができるだろう。 女性諸君には申し訳ないが、今回は男性だけで楽しませていただく。だがもし君の心が「男」という魂の名前を理解しているのであれば、身体的性別など構わない、ぜひ一読してほしいものである。 さて、前説はこれくらいにして、そろそろ本題に入ろう。クライマックスの影に隠れてしまった「無意味」に思える日常にこそ、本当の楽しさがある。 そして、恋愛もその域を超えることはないのだ。 本を捨てて、街に繰り出そうじゃないか。
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