恋と命とカラオケと

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恋と命とカラオケと

数日前、友人と川のほとりで飲んでいた時のことである。 湧水から流れてくるそれはそれは透き通るほど透明な川は、その浅さも相まって川底の景色をよく写していた。 「こんなところで男二人か、しけるなぁ」 そう言ってそいつは9%のレモンサワーロング缶を煽っていた。 某しゃぶしゃぶ食べ放題チェーン店で安いからという安易な理由だけで昼間から飲み放題を注文し、散々飲んだ挙句こんな隣町の唯一の観光名所でこんな治安の低下しそうなことしているのだから救えたものではないなぁ、と思いつつ私も新しく登場したほろ酔いパイン味を飲む。 「しょうがないだろ、お前は彼女いないし、俺も別れたばっかりだし」 「だったら俺ら二人とも彼女いないでいいじゃねえか」 「はぁマジそれなまあでも出会いもないし別になんでもいいじゃねえか」 諦めの言葉を口にしながら飲むほろ酔いは、3%なのに酷く強いアルコールの味がした。 しかしそれは「隣にいるのが女性だったらよかったのに」という恨みに似た気持ち故ではなく、飲み過ぎからくる体の拒絶反応と、意識を現実へと引き戻す、海底に寝っ転がった蟹の死骸のせいだった。 「あ、カニだ」 茶色い地面にキラキラと輝く裏返った白い蟹の腹は、その場には酷く不釣り合いだった。だから遠目から見て、私は気づくことができたのだと思う。そして私は、それを拾い上げたいという衝動にかき立てられたのだ。 徐に座っていた川辺から降りて、浅瀬をじゃぶじゃぶ歩く。冷たい水が梅雨前のジメジメした空気を打ち払い、足裏を伝う砂利と川藻の感覚が、とても心地よかった。 「ほら、やっぱりかにだ、沢蟹だ」 命亡き亡骸の足を拾い上げ、友人に見えるように中でブラブラと振る。 そうして「死者」との接近の中で、思うのだ。 自然は、常に私たちを不思議な「縁」へと導いていくように思われてならない、と。 「いいじゃん、ライターであぶって酒のつまみにでもしようぜ」 ヘラヘラと笑いながらなおも9%の酒を体にぶち込むそいつを見て、小学生からの付き合いだったこれも、今は当たり前として捉えてしまっているが、不思議な縁だったのではないかと思ってしまうのだ。 『このかにおっきいね、食べたら美味しそう』 ふと、手に持っている蟹が、いつか言われた言葉を想起させた。 一年前の今頃だったか、それとも今年の初めだったか、20歳をすぎるとそういう記憶は曖昧になってきて、「人間の本当の寿命は30歳であり、それが我々のDNAに刻み込まれた本来の設定である」という節を信じずにはいられないくらいに老というものを受け入れてしまうものであるが、兎にも角にも、その言葉はその時に僕の隣に立ち、「深海の生き物コーナー」を共に覗き込んでいた女性に言われた言葉だった。 彼女と僕は対照的で、水族館なんて何時間でもいれる僕とは違って、生き物が嫌いでそういう類の娯楽施設が大嫌いだったのだが、この時はどうしても水族館デートがしてみたくて、頭を下げて頼んだものである。 そういえばこの川にも、昔彼女と来たっけ。 そんなことをふと思い出しながら、僕はかつて蟹「だったもの」を放り投げた。放物線を描いてあいつの座っているところにそいつが着地したのを見届けてから、僕は対岸の川辺の方を振り向いた。 水族館に行った次の日にお正月のおみくじを引きにこの川の近くの大社に手を繋いで二人で行ったっけか。 そこにどんな思いがかつてあり、そして今それを思い出して切なくなっていようと、その事実が変わることはなく、どれだけ月日が流れてあの時の解釈を変えようとしても結局心の安らぐ答えなんて出なくて、過去が現実と混ざり合った時の気持ちというのはそこから抜け出せないのではないかという永遠の不安と絶望を突きつけてくる。 あの時感じた一瞬の冷たい微風がどれほど心を救い、そして今同じような、しかし季節が変わって暖かくなった風がどれほど心を蝕んでいるか、僕は陸の上で呑気に酒を飲んでいる彼に打ち明けたかったが、なんだか白けるような気がして、やめた。 「そういえばお前どうやって彼女と別れたの?」 唐突な疑問に、一体どの彼女だったかを聞こうとして、それはあまりにも彼女らに失礼なような気がしたので、喉元まで出かかったものを唾と共に飲み込む。 「ああ、梨夏?梨夏はね、ラインで『友達に戻ろう』って言っていかれたは」 「マジかよ、明音より断然可愛かったのに、そんなにまだあいつのことが好きだったの?」 陸に上がった蟹の死骸を突きながら、私はどう答えようか迷っていた。「好き」か、と聞かれるとよく分からない。それは付き合う前も、付き合っていた時も、別れた時も、そしてその後何年かの人生において、僕の後ろを付き纏っていた質問でもあったからだ。 水族館嫌いだったのも知っているし、おみくじで中吉だったのも知っている。彼女の好きな曲や嫌いな人物、夢中になっていた本や嫌いな野菜だって知っている。 それでもその問いに未だ答えられずにいるのは、未だに彼女が何を考えているのかが分からなくて、別れた悲しみを埋めようと別の女の子と付き合ったけれど結局その感情が紛れることなどなく、そうして時々連絡をしても彼女の心が僕にないことをその度に実感して、しかし彼女は嬉々として自分の話をよくしてくるものだから、彼女という人間が本当に分からないくて困っているのだ。 「うーんどうだろうな、分からん、としか言いようがないわ」 「なんだそりゃ、はっきりしないやつだな」 「うるせえよ童貞、そこの蟹で卒業でもしてろよ」 「お前やば湧水のとこに沈めるよ?」 笑って、そうしてお互いに缶を口に持っていく。 結局、この状況において僕の悩みなどどうでもいいのかもしれない。 酒を飲んでいるのが楽しくて、川が美しくて、目の前で笑う友が好きで、蟹が死んでいても可愛くて、風が心地良くて、それで、それで、それで...。 「この後カラオケでもいくか」 「あーいいね、俺ポイズン歌うから、言いたいこともいえないこんな世の中で言うから」 「ウケる、じゃあ俺はまさよしでも歌って路地裏の窓とか桜木町で探すとするか」 残り少ない酒を胃に収め、片付けの準備をする。 蟹は、元いた場所にいるべきだと思ったから、指の腹で少し撫でで、それから振りかぶって空高く投げた。
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