私と魚群と浜辺の蟹と

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私と魚群と浜辺の蟹と

海、と言うのは本当に姿形を変えて僕の目の前に現れると思う。 幼稚園生の時、小田原(いや、真鶴か?)にあるミツ石と言う伊勢の夫婦岩のような観光スポットの近くの岩場で、虹色の海藻達と戯れながら必死になってヤドカリを捕まえていた。 あの頃は海の冷たさも人生を海に例える不器用さも持ち合わせていなかったものだから、海が「遊び場」であり、公園の砂場や家のプラレールで作った線路と僕には何ら変わりはしなかった。 小学生になり、今度は湯河原の浜辺でスイカ割りをした。初めて挑戦したボディボードは少し難しかったが自転車を乗っている時のように練習すれば簡単に乗れて楽しかった。 この時も海は「楽しい」ものであることに変わりはなく、唯一怖いことと言えば映画やドラマでよく見るサメくらいなものだった。クラゲすら、危ないから近づくなとは言われていたけど、それでもあのフワフワ海中を漂っているだけの白い布が生き物にはどうしても見えなくて、もっと近くで、もっと近くでと新しく買った安いシュノーケルゴーグルを駆使して観察しようとしていたものである。 小学校低学年は、海は「泳ぐ」ものから「戦う」場所になった。陸上の生物を代表して、僕は一本の棒で海の生物達と格闘を広げる。ある時はアジを、ある時はサバを、またある時はカツオを戦ったものだが、いつも僕を悩ませたのは吊り上げるのが困難な黒鯛でもスズキでもなく、どんな餌でも体の大きさに似合わない大きな口で飲み込んでしまう「ネンブツダイ(イシモチ)」という雑魚であった。どんな場所で釣りをしても釣れてしまうものだが本当に腹立たしくて、「海面から見える魚なんて釣れないよ」と釣り人達はいうけれど、こいつだけはなぜか別で、そのくせルアーとかのフェイクには絶対に引っかからないものだから、雑魚のくせに贅沢なやつだと齢10歳にして思ったものである。 小学校高学年になったら、海は、そんな「戦う」場所から「弔う」場所になった。死んだ爺ちゃんは釣りが大好きで、「人は死んだら骸になるだけなんだから墓なんていらない、遺骨は海にでも撒いておいてくれ」と、戦争を体験したからこそ口にできる言葉を生前残していたが、その遺言通り、僕らは爺ちゃんの骨を海にまいた。 思えば爺ちゃんの存在には、海が必ずついてきたような気がする。最後の地に下関を選んだのも海が好きだったからで、自分の娘(僕の母親)が船乗りになったのをいいことに一緒に勤務地について行って、かといって一緒に暮らすわけでもなく自分は自分で好きなようにやりたいと言って釣り道具と自転車を買い揃えて、毎日毎日飽きることなく釣りに出かけていたような人だった。 そんな爺ちゃんの命日には海に行き、近所のスーパーで買ったテキトーな花を海に投げる。でもばあちゃんはそんな遠くまで投げる力がないから、いつも波に押し戻されて戻ってきてしまう。だから僕はその戻ってきた花をもう一度手にとって、かつて夢見たプロ野球選手の夢と共に右手でそれを遠くへ投げる。きっとそれもまた波に押し戻されてしまうのだろうけど、それでも爺ちゃんへの思いは、ばあちゃんと同じくらいに届いてくれたと思う。 中学に上がると、海は校舎の窓から眺める退屈を紛らわせる風景になった。山の中にあった学校から眺める海は小さく見えたが、それでもその海が地球の七割を覆い尽くし、マリアナ海溝に至っては海底1万メートル以上ある上に、僕らは半分も水中の生物を知らないという説があるくらいなのだから、そこにまだ見ぬ「ロマン」を感じずにはいられなかった。尾崎豊ではないが、「退屈な授業が、俺たちの全て」ではないと感じられたのは、あの窮屈で暑くて、それでもどこか輝いていた若き魂が、海という外側の世界と接続することによって勉学や恋愛といった地球規模に照らし合わせればちっぽけな悩みを吹き飛ばしてくれていたからだと思う。海は、その冷たさや塩辛さを感じなくても、常に僕と共にあるような気がした。 ところで私の父母は二人とも船乗りである。正確には母は元船乗りだが、それでもそのせいで家には海に関連したものが多くあった。錨のマークの書かれた布団のシーツ、救命浮き輪の模様が入ったカーペット、船が旗で行う合図一覧が書かれたポスター、母が昔かぶっていた航海士のキャップ、父の古い制服、魚の図鑑。生まれた時からこうして海に否が応でも繋がれていた私にとってそれが人生の一部になることは何ら不自然なことではなかったし、大地を「ガイア(母なる大地)」と呼ぶことに抵抗を感じ、全てが生命の起源とされる海を「生命の母」と信じていることに夢中になっていたのも当たり前だった。 高校生の私にとって、海は「青春」の場所だった。友人や恋人達と熱海の人の少ない海へ行き、浮き輪の争奪戦、ビーチバレー、どれほど遠くまで行けるかの競争をしたのは心の底から楽しかったが、この時の私にとって「海」は媒介者に過ぎず、その楽しさや幸福は、彼ら彼女らと共にいた事が大きな原因だったと思う。海中に小魚がいれば彼らを呼んで一緒に眺め、砂浜で蟹を見つければそれに続いて誰が一番早く見つけられるか競争し、そうしてその日の終わりに近くの会場でやっていた夏祭りの花火を「綺麗だね」などと口々に感想を言いながらそれぞれ買ったラムネを飲んだことは一人では到底なしえないものばかりで、海は確かに僕たちの「場」となってくれたけれど、それでも幼少期に感じた直接的な触れ合いは限定されてしまっていた。 それが悪いことか、と言われれば決してそんなことはない。海が、僕の前に「新しい姿」となって現れたに過ぎないのだから。いや、むしろ海が僕らと共にあったからこそ我々はその輝かしい「青春」を謳歌することできたのだと思う。海の性質はきっとその十数年でさほど変わってはいないのだろう。温暖化の影響で海がだんだんと汚れているというけれど、それほどもそれが「塩水」であることには変わりはなく、そこに数え切れないほどの生命が未だ住んでいる事実を否定することなどできない。けれども僕らの成長が、海の新しい側面をその都度あらわにしているのだとしたらどうだろう。変わったのは僕でも海でもなく、僕と海の「関係性」ということにならないだろうか。 だから大学に進学して、そこが「海」のない内陸地だと知った時、私は空虚さを感じずには入れなかった。幼少期から常にそばにあって、どんな時でも私の意識を掴んで離さなかった「海」が、僕から引き剥がされてしまったような気分だった。 もちろんだからと言って僕がカフカや太宰治のように人生に絶望したかと言われるとそんなことはない。友人と遊びに行くのも、女の子を好きになるのも、小難しい哲学の議論を授業でするのも楽しかったし、海が僕の全てであるかといわれると、海洋大学生でも何でもない僕にとってそんなことは全くなかったのである。 でもそれはまるでカツ丼の上にのっている三つ葉がない時のあの寂しさによく似ている気がする。 海はがなくても僕たちは生きていける。でもそれはただ「生存できる」という話であってそれ以上でもそれ以下でもない。 僕らはそんなつまらない時代に生まれたわけじゃないのだろう。 だから実家に帰って久しぶりに海を見た時、僕はなぜだが生き返ったような気がした。 それは死からの脱却というよりも、「生」の回復に近いものだった気がする。 そして大人になった今、僕は防波堤から一人海を眺める。 でも今度は僕が夢見た大海ではなく、そのすぐ真下である。 小さな小魚が群れを作ってせっせと泳いでる。生き物がいるという「証」が好きで、僕はよく魚群を眺めるのだが、水族館という生き物の存在が「約束」されている場所よりも、僕はこの自然の一部分にて、名前も知らない魚達を見るのが大好きなのだ。 「あ、あそこに魚の群れがいる」 「いいじゃん、さっき散々魚見たでしょ?」 と今年の正月江ノ島に行った時隣に並んで歩いていた女の子に言われたものだが、「人工」から「自然」へと意識が移った瞬間が何故だか人間であることを忘れられるような気がして、そうして僕という存在「海」と再び接続する契機になったように思われる。 そんな魚と僕とを隔てる空間はしかし、火星と地球よりも遠い気がした。 僕たちは水の中で生きていくことはできないし、ああいうふうに常に群れをなして生きていくこともできない。敵に襲われる心配もないけれど、それでも僕たちはパートナーを「選ばない」という選択肢すら与えられてしまって、誰かと一緒にいたいのだけれどそんな人はどこにももういなくて、気づけば僕らは魚から浜辺を一匹こそこそと歩く「かに」になってしまったようである。 もちろん、蟹の生き方が悪いかと言われればそんなことはない。しかし僕たちはカニでもなければ魚でもなく、彼らのように生きることができない以上、「海」と接続されているオカの生き物である我々は、一体どのようにして生きていけばいいのだろう。 一体僕たちは、何を頼りに生きていけばいいのだろうか。 航海士が灯台やコンパスを用いて指針なき海を自由気ままに航海しているあの姿に、僕たちの生きる意味があるのだろうか。 その人生に対する「問い」のような不安は、僕と常に共にあり、そうして僕の魂の中に潜んでいた「海」が、知っているような気がした。
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