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序奏とモノローグ
望まぬ静寂のせいか、やけに心音が耳に付く。
肥大化した音は耳障りで、それはもう不快でしかなかった。
うるさい。
そう呟いてみても、言葉とは裏腹に鼓動は駆け足になる。
恐ろしいほどの加速。汗が垂れ始めた時には、
英雄ポロネーズが弾ける程度の速さを記録していた。
平常心でいたい。落ち着きたい。そう思うことが、このような事態を引き起こしていることをわかってはいたけれど、だからといってどうでもよい、などと思考を捨てる事もできない。人間とは、本当不器用な生き物だな、と苦笑する。
こういう時、いつもどうしているんだっけ。
自分の記憶をたどってみたものの、解決への糸口を見出すこともできず、途方に暮れる。
前言撤回。もうこれはどうしようもない。
一生ついてまわるものだ。なら、諦めたほうが楽ではないだろうか。と、開き直って見せるも、それでもなお、脈は右肩上がりだった。
脳みそに言い聞かせてみても、それがハッタリだとまともに処理されてしまっている。
悔しいくらいに、心と体は私自身に正直者であった。
この思いを抱えたまま、やるしかないのだろう。やるしか、道は残されていないのだ。
ある種の使命感を抱いて、私は弱弱しく一歩踏み出した。
ずっと目線を下げていたからか、気づかなかった世界がそこには広がっていた。
眩い光に、一瞬視界を奪われる。思わず瞼を閉じる。閉じた瞼の裏にも、光は届くようだった。
それから、割れんばかりの拍手。
ぼやけた視界が光に慣れる頃、視界に映り込んできたのは親の顔より見慣れたであろう黒塗りの鍵盤楽器だった。それから、少し右に目線をずらすと拍手をする人々。
ああ、もう逃げられない。
退路は塞がれてしまった。
私は、心の中で平常心と呟きながら歩を進める。
先ほどより、幾分か力のある一歩だと思う。
ピアノの前に立ち、頭を下げる。すると、先ほどよりも一回り大きな拍手の嵐が起こり思わず気圧されそうになる。苦手だ。とても。
この空気に慣れるのは、おそらく私が少女などという枠から外れた時。
いや、もしかしたら一生訪れないかもしれない。文字通り、一生。
ある指揮者は、本番前に薬を飲むという。また、ある演奏者は、演奏前に一杯の酒をあおるという。一種のルーティンなのだろう。
いつぞやの私にもそういった習慣があったのだが、いつのまにか全てなくなってしまった。
恐らく向いていなかったのだろう。
良く言えばルーティンがないことがルーティン。ポジティブに考えすぎだろうけど。
そうこうしているうちに、私は高さ調節の部位に手を伸ばしていた。完全なる無意識である。
体は勝手に次の行動に移るよう出来ていた。
私のべスポジは、上から数えて5番目。
鈍い音とともに、座椅子の高さが変わる。腰かけてみても、なんら不快感はない。
うん。いつもの調子だ。
この間3分。
気が遠くなるような180秒間を過ごし、私はついに覚悟を決めた。
今、私の世界に登場人物は二人だけ。
光に照って、キラキラと輝くピアノ。磨き上げられたボディ。指紋ひとつない鍵盤。彼の出身はスタインウェイ。どおりで高貴な佇まいをしている。
スタインウェイの他にも楽器は多数あったけれど、私は今日という日に彼を選ばなくてはならない、そんな気がしたのだ。...いわば直感というやつ。
ああ、ゾクゾクする。
私はこうして、彼ら・楽器と向き合うたびに値踏みされているような感覚に陥る。
こんな小娘が私を弾く?そんな小さな手と、貧相な指で音を響かせられるのか?こんな小娘が私を選んだのか?へぇ。お手並み拝見だね。と、声なき声が、私には聞こえるのだ。
だから私も声なき声を発する。
どうか、私に力をお貸しください。
すると不思議なことに、ピアノからの声はパタリと止む。
私はそれを、身体を預けてくれているのだ、と勝手に解釈している。
拍手の余韻も一切なくなった頃には、生ぬるい空気と静寂だけが残る。
私とピアノの、二人きりの空間が広がる。
その瞬間、分かるのだ。
先程、彼を選んだ理由を直感と言ったけど、それは大いに間違っている。
この一瞬。言い様の無い不思議な感覚の為に、私は彼を選んだのだ。
間違ってなど、いなかった。
思えば、腹立たしい程に高鳴っていた鼓動はおさまっていた。まるで私はもう、この世のものではなくなったかのように、どうしようもなく静かだった。
待ちわびた静寂が、ただ、そこにあった。
誰も息をするな。私と彼の世界に踏み込むな。
少々荒い言葉を頭の中で唱える。
ありがたいことに、今日の観客はどうやら空気が読めるらしい。
私はそっと鍵盤に指を置いた。
これから演奏する楽曲のイメージを頭に浮かべてみる。
風景、匂い、私の拙い言語能力では到底説明できないものだ。また、色も決まった名前はない。あくまで、私の世界にあるモノ。
でも、それで良いと思っている。対話において言葉は内容を的確に伝える素晴らしいツールだけど、でもそれは、別になくてはならないものではない。音楽に限って言えば。
もちろん、言葉で表すことが可能なら、それ以上に便利なことはないけれど、大体説明できてしまうなら芸術なんて生まれない筈だ。
私と彼の間には、音があればそれで良い。
よろしくお願いします。
私の指は、踊りだした。
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