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誰にでも、生きるために仕舞いこんだものがある。隠したことも忘れて、あなたはやがて日々に倦む。そして秋晴れの気持ちの良い日に、隠された部屋の扉に手を伸ばす。
◆
真希は有楽町線の、ドアに一番近い座席に腰掛けて携帯端末をいじっていた。
有給を取った日、思い立って代官山のハリウッドランチマーケットに向かっている。お洒落だった元彼と学生時代によく通った思い出の洋服店だ。
今日は一番楽な服装にした。踝まである青いチェックのシャツワンピースを着て、髪は雑にポニーテール。靴は黒のスニーカーだ。
口の悪い上司に「妊婦かよ」と言われそうだが、奴はいま会社だ。
地下鉄は東池袋駅に止まり、乗って来た中年男性が真希の隣のドア脇に立った。
男性の右腕にケロイドがある。
液体をぶちまけたような十字型の疵痕は15センチほど。右頬にも5センチの棒状のケロイド。
熱湯だろうか、それとも薬品か。いずれにせよ、危険な液体が飛び散る事故があったと思われた。
男性は四十代後半から五十代前半くらい。薄いブルーの半袖シャツにライトグレーのウールパンツ。紺のくたびれたビジネスバッグを肩掛けにして壁に寄り掛かっている。疲れ切ったサラリーマンそのものだ。
電車が池袋駅に着いたので、携帯端末を帆布バッグに突っ込んで席を立つ。ケロイドの男性も降りる。
池袋は、立教大学出身の真希には馴染みの場所だ。真希の青春はこの場所で始まり、この場所で終わったのだ。
有楽町線の改札を出ようとするとアナウンスが聞こえた。
「JR線で停電が起こったという情報が入って来ました。遅延や運転見合わせの情報はまだ入って来ておりません。詳しくは、JR駅係員にお尋ね下さい」
停電……?
長年都内の電車に乗っているがなかなか聞かない状況だ。これからJR山の手線で恵比寿駅に向かう予定なので大変困る。
案の定、JR南口改札には人だかりが出来ていた。最後列から漏れ聞いた所によると、山の手線はしばらく動きそうにない。
さてどうしようか。今日は代官山はやめて池袋で買い物でもしようか。
そう考えていると、東口方面へ颯爽と歩く背の高い青い服の女性が目に付いた。
その青は彩度が高く、輝くようで、平日午前のまばらな人並みの中、ひとり浮き上がって見える。
ブラウスは全体的にルーズで輪郭が風に翻るようになっていて、その上、右袖は七分で左袖はない——つまりノースリーブだ。
その剥き出しの左肩にケロイドがある。肩の頂点に何かが飛び散ったような十字状に、二の腕に5センチくらいの棒状に。真希には、有楽町線で見た男性のケロイドそっくりに見えた。
男性のケロイドと似ているのは偶然にしても、どうしてわざわざケロイドが見える——目立つと言ってもいい——服を着ているのだろう。
大きな歩幅で背を立てて歩く様子はいかにも気が強そうだし、あえてケロイドを晒すことで自信を演出しているのか。
確かに効果はありそうだ。否、その選択はむしろ弱さと言えるのではないか。それとも頓着しない人なのか。
その時、真希は思い出した。副都心線は渋谷から東横線に乗り入れる。つまり代官山へ行くはずだ。真希の学生時代とは違い、今は池袋から一本で行けるのだ。
真希は女性と反対方向、西口へ向かって歩き出した。
副都心線のホームは遠くて深かった。その長い下りエスカレーターに乗っていると頭がぼんやりしてくる。
ここは地下何メートルくらいだろう。構内は明るく清潔だけど、壁一枚向こうには大質量の土が詰まっていて、ミミズやらヤスデやら土中の蟲がうようよしている。何かが起これば、そういう原初のものが崩れかかってきて、目やら口やら鼻から入り込んで悲惨な死を迎えるのだ。そういう場所へ降りて行くのに、この場所はなんとも緊張感が足りない。否——。
「ふ」と、一息漏らして自嘲する。
下らない。本当に、なんて下らない思い巡らしなのだろう。馬鹿みたいを通りこして情けなくなってくる。
ホームに入ってくる時、副都心線は有楽町線よりお行儀が良く見えた。副都心線は、新しく越して来た洗練された隣人だった。
渋谷駅を過ぎてすぐに電車は地上へ上がった。背の低い灰色の古いビルと民家ばかりが並ぶ風景は昔と変わらない。
歩道橋をいくつもくぐり抜けて、電車は代官山駅に着いた。
代官山駅もまた十年前と変わらない。ホームも駅舎も、代官山アドレスに向かうガラスの歩道橋もそのままだ。
真希は、代官山アドレスの中庭を歩き代官山交番前交差点へ向かった。
通りはプライドの高そうな女性で込み合っている。時刻は12時半でランチタイムだ。あちこちにあるオープンテラスのレストランに列が出来ている。
平日にテラスレストランで食事する綺麗な女性たち。小さな階段の上で撮影するモデル。行き交う高級車や洒落たバイク。真希はひとり、うんうんと頷いた。
代官山アドレスの敷地から道路へ出る手前に、視覚障害者の若い少年と少女がいた。サポートと思われる中年の男性と若い女性、それから年輩の女性が一緒にいる。視覚障害者の少年は杖を構えて、次々と人が過ぎ行く歩道に正対している。
すれ違いざまに、少年の耳元でサポートの男性が囁くのが聞こえた。
「急がないようにして。行きたいと思ったら、ゆっくり前に出て」
その男性のうなじ、シャツの陰にケロイドが見える。
否、ただの影かもしれない。
気になったが、立ち止まってのぞき込むわけにもいかない。
交差点を右折すると、ついにハリウッドランチマーケットの赤い庇と濃茶の壁が見えた。
店構えは当時のまま。店先に白いバンが路上駐車している。
店が近づいて来ると、あのお香の匂いがしてきた。
この独特の香りこそが、ハリウッドランチマーケットの正体だ。服を買って帰ると、洗濯するまで匂いは落ちない。あの暴力的なお洒落感が部屋までついてくる。
頭の天辺から足の先までこだわり抜き、けれどフッションには無頓着だと言いたげにルーズな着こなしを誇り、生来の感覚だけでお洒落なのだと、生まれながらの才能なのだと言いたげな店員たち。荒っぽい木製の棚に雑然と並んだ、普通の数倍もするTシャツやスウェット。そしてあのお香の匂い。
そこを当たり前の顔をして歩く別れた彼氏と、頑張っているあの頃の真希。
そんなものが一気にイメージされて、真希は目眩がした。秋晴れの空がぎらぎらと眩しい。
「ああ……」
知らず嘆息した真希の目の前で、白いバンのスライドドアが開いた。中から濃いスーツを着た短髪の男たちが現れ、まっすぐに向かってくる。
男たちは真希に逃げる間を与えず、大きな袋を真希の頭に被せた。袋の上から手が口を塞ぐ。二の腕を、握りつぶされそうなほどの力で掴まれて、強引に歩かされる。
——なぜ、どうして?
胸が冷え、耳鳴りがする。
振り回される拳。
骨のなる音。
鼻の奥のつんとした痛みと血の味。
喉の奥に突き込まれる。
息ができない。
酩酊感、下半身の痛み。
薬缶にお湯が沸いている。
「あ、すみません」という声がして、真希は一気に現実に帰った。
振り向くと、さっきの視覚障害者の少年が立っていた。
杖が真希の足首に触っている。少年はゆっくり会釈して、真希を回り込んで坂を上って行った。
真希の頭に袋はない。男たちもいない。白いバンは黙然と路上に止まっている。
真希はシャツワンピースのボタンの間に指を入れて自分の胸を触った。
左の乳房に15センチほどの十字型の、胸の真ん中に5センチの棒状のケロイドがある。
ぐっしょりと汗をかいているのを自覚しながら、真希はハリウッドランチマーケットの店内を覗いた。
友人から聞いた通り、別れた彼氏が店員として働いていた。日焼けした顔が真希の方へ振り向く。
目が合う前に、真希は決然とアスファルトを蹴った。
——戻ることはない。
だからと言って、あの場所に戻ることはないのだ。
代官山駅への坂道を、足を踏みしめて登っていく。
さっきの少年が、小さな冒険を終えて無事に帰還し、少女と笑い合っている。
了
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