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 会計を終えて、伊織さんが店のドアを開けてくれる。ちょっと面倒くさいこと話過ぎてしまったかな、と思って、後半はお互いの最近あった些細なエピソード交換に終始していた。洋子がじゃあまた、と言おうとしたところで、先に口を開いたのは伊織さんだった。 「今日の洋子ちゃんニュースサイトの話聞いて、最初に思ったこと言っていい?」 「どうぞ」  多分今日初めて正面から目が合って、洋子はドキリとする。マスクをした伊織さんは、いつもより余計に目力が強くなっている気がする。 「指がね、滑って押せちゃったんじゃないかと思ったの」 「ゆび」 「そう」  後の言葉が続かない洋子を置き去りにして、スマートフォンで見るとあのサイト、グッドよりバッドのボタンの方が指の近いところにあるしさぁ、と伊織さんは揚々と話し続ける。洋子がいつまでも返事をしないで呆けた顔をしていることに気づくと、少し恥ずかしそうにして続けた。 「覚えておいてよ、こんな考え方もあるって」  洋子が伊織さんと出会った頃、伊織さんは洋子の家の近所にある美容院の、一介の美容師に過ぎなかった。それがチーフに昇格し店長になり、今は独立して自分のお店を持つようになっていた。だから通い始めた時よりも美容院の場所は遠くなっているし、指名料だってかかる。  それでも洋子は伊織さんに髪を切ってもらう。  そして洋子は今、無償に嬉しかった。  それは伊織さんが話してくれた考え方のことなのか、単純に伊織さんがきちんと洋子の面倒な話をきちんと聞いてくれていたことなのか、それとも細かく注文せずとも良い感じに髪の毛を切ってくれたところなのか。理由はきっと全部だった。 「いつもご指名ありがとうございます」  マスクをしていてもわかる、伊織さんの全力の笑顔が洋子に向けられる。 「また来ます」  次に会う時は、互いにどうなっているのだろう。伊織さんのお店は営業できているだろうか。自分は仕事を続けられているのだろうか。洋子にはわからない。ただ1つ、洋子の髪がまた残念な感じになっていることだけは確実だった。  洋子は駅に向かって歩きだす。そして伊織さんを訪ねる前よりも圧倒的に露わになった自身のうなじにそっと触れ、マスクによって誰に見られることもない口元を一人綻ばせた。
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