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「どういうことだ?」
「まあいいから見ていてくださいよ。……ほら、もうきた。チャンス到来」
チャンス?
俺はB卓のほうをみた。
母親が席をたつところだった。お化粧室だろう。
「いいですか。僕が彼氏を離席させます。ユウさんは残った二人の会話を聞いておいてくださいね」
「……俺に盗み聞きしろってことか」
佐藤が俺の抗議を無視してB卓のほうへと向かった。
そして彼氏に話しかけると、佐藤と彼氏は店の外へと出て行った。
佐藤がどうやって彼氏を連れ出したのか気になるがそれよりも俺は迷っていた。
お客様の会話を盗み聞くことはよくない。
よくないのだが……。
好奇心が勝った。
俺はB卓の隣のテーブルを必要もないのに拭きにいった。
すぐに娘と父親が会話を始めた。
「なあ、さすがにかわいそうじゃないか?」父親が消え入るような声で言った。
「そんなことないよ。ああでもしないと、ね」
娘が遊び終わったおもちゃをみるような目をしながら答える。
かわいそう? 誰のことだ。
「いい人じゃないか。なんで俺がこんな演技しなきゃいけないんだ」
「だってこうでもしないと別れられないんだもん」
「……お前が振ればいいだろう」
「だめだよ、社内で私の悪評が広がるでしょ。まだ家族の反対でやむなく別れたっていうストーリーの方がいいもん。ドラマチックだし」
「だからってこんなことまでして……。俺はもう限界だよ。これ以上あの男の子の苦い顔を見たくないよ」
「じゃああの二人が戻ってきたら私がトイレにいくからそしたらもう店でよ、お父さん」
「…………ああ、わかったよ。そうしよう」
……なるほど、そういうことか。
俺はひとり納得してレジ前に戻るとちょうど佐藤と彼氏が店内に入ってくるところだった。
佐藤が彼氏に頭を下げ彼氏はそのまま席のほうへ向かう。
俺は佐藤に娘と父親の会話を教えてやった。
「やっぱりそうでしたか。お母さんが賛成しだしたら娘が不機嫌になったと聞いてもしかしてと思いましたが」
「よくわかったな、あの娘が本当は別れたがっているなんて。……それにしてもどうやって彼氏を外に連れだしたんだ?」
「ああ、お客様の車に傷のようなものがついていますけど確認してもらえますか、って駐車場に。大嘘だったんですけど見間違えでしたとか何とか言ってごまかしました」
「お前……。お客様で遊ぶなと言っただろう」
「こうでもしないと真相がわからなかったもんですから」
佐藤は茶髪を掻いた。
まあたしかに娘と父親を二人きりにしないとわからなかっただろう。推論だけで謎がわかるほど現実は甘くないってことだ。
「――いやあでもあの彼氏は本当にかわいそうですね。わざわざ結婚の挨拶にきたのにそもそも彼女のほうに嫌われていたなんて。二年前の浮気のことをわざとバラして父親に結婚を反対してもらう作戦だったんですね」
「知らない方がいい事実ってやつだな」
「僕は将来あんな女にひっかからないようにせいぜい気をつけますよ。ユウさんの奥さんみたいな人がいいんですけど」と、佐藤はレジの後ろの壁掛け時計をみた。「――ああ、もう三時なんであがりますね。暇つぶしができてよかったです」
いやお前は働きに来ているんだからな、と言おうとしてやめた。
俺は適当に頷いて佐藤がスタッフルームに行くのを見送った。
肩が重い。
人間の嫌な部分をみるとなんだか疲れる。
なにも彼氏と別れるために家族を引っ張り出さなくていいだろうに。
……だが、それよりも俺はまだ引っかかっていた。
ひとつ。
なぜ母親はあんなにも不自然なほどはやく結婚に賛成したのだろうか。
ふたつ。
なぜ急に彼氏は母親が席に着いた途端に逃げ腰になったのだろうか。
かわいそうな彼氏に同情しつつ俺の疑問は消えていなかった。
もっとも過去に浮気をしたのは彼氏自身なのだから自業自得かもしれないが。
……ん? 浮気。
――そうか浮気か。
もしかして、もしかして。そういうことなのか?
どこにも確証はないが。
母親が化粧室から戻ってきた。
交代に娘が宣言した通り席を立って、同じく父親もテーブルを離れる。
娘が戻ってきたらお会計となるから父親もお手洗いにいこうと思ったのだろう。
ちょうどふたりずつ入れ替わった形だ。
別に佐藤が言い出したことだし俺にとってはどうでもいいのだが、ここまでくるとやはり真相が気になる。
俺はまた聞き耳をたてなければなるまい。……嫌な予感が当たっていなければいいのだが。
そういうわけで俺は勤務中になにやっているのだろうと思いながらももう一度B卓の隣のテーブルを意味もなく拭きに行った。
そして俺は聞いた。
「ねえ、久しぶりじゃない」母親が言った。
若い男はキョロキョロと辺りを見渡す。
周りには店員の俺ひとり。
娘と父親はいない。
「……まさかお義母さんがアンタだなんて知らなかったよ」
彼氏がぶっきらぼうに答えた。彼女の母親に対しての口調ではまるでない。
二人は会話を続ける。
「二年ぶりかしら? それにしても驚いたわ。まさか娘の結婚相手があなただなんて。それにこの店。前にあなたと来たことがあったものだから」
「それよりなんで結婚に賛成するんだよ、相手は俺だぞ?」
母親は唇を気味悪く吊り上げた。
「だってあなた、二年前に私を急に振ったじゃない? 私はもっと一緒にいたかったのに」
「それが俺の結婚と何の関係がある?」
「娘とあなたが結婚すれば――私ともずっと居られるじゃない?」
彼氏が眉根を寄せる。
「……本気で言っているのか。もうアンタとは終わったんだ。それに当時俺も浮気をしていたが、アンタが人妻だなんて知らなかった。年齢だって一回りも若くサバをよんで」
「あら? 年齢はあなたも信じていたわよね。ということは見た目は若いんだからいいじゃない」
母親が耳に髪をかけて、彼氏が目を伏せた。
「そういう問題じゃない。いいか。俺はもうアンタに関わりたくない。この話はこれでおしまいだ」
「娘と別れるの?」
「そういうことになるな」
「だったら」
母親は両の手を合わせて晴れやかな顔で言った。
「――だったら、あなたはフリーじゃない。私も夫と別れるわ。どう? やり直さない?」
「……いい加減にしてくれ」
ふいにパタン、とお手洗いの方からドアの音がした。
そこで彼氏と娘の母親の会話は終わった。
四人は揃ったところで席をたち、俺は店員の仕事をまっとうするべくレジでお会計をした。
そして四人ともほぼ無言で店を出ていった。
誰も何ももう話さなかった。
俺は無人になったB卓の上の珈琲カップを眺めていた。
ジャズピアノの音が一段階大きくなった気がする。
一人ため息をついた。
「つまり本当にかわいそうなのは」
結婚に反対されていた彼氏のほうじゃなく。
娘には結婚を反対するように無茶な要求をされて。
妻には浮気されていて。
しかもその浮気相手が娘の彼氏だったという。
「つまり本当にかわいそうなのはお父さんだったってことか……」
俺もちかい将来こうなったりするのかな。
……いや、これはさすがにないだろう。
俺は今日すっかり癖になったため息をもう一度ついた。
時計をみる。
時間は十五時二十分。
残業はしなくてすみそうだ。
推理勝負をしようとか言っておいて先に帰りやがった佐藤に今度この話をしてやるかと思いつつB卓の珈琲カップをカチャカチャと下げる。
いやあのかわいそうな父親の名誉のために佐藤に教えないほうがいいかもしれない。
あいつ面白がってそこかしこに吹聴しそうだしな。
世の中いろんなお父さんがいるもんだ。
まあ、それよりも。
……まずはそうだな。
テーブルの上をすぐに片づけちまおう。
そしてあがったら子供を迎えに行く前に薬局にでも寄って胃薬でも買うか。さすがに胃が痛い。
そんなことを考えていると入れ口の鐘がふいに鳴り響く。
そうしていらっしゃいませ何名様ですかと、今日も今日とてお父さんたる俺は笑顔で次のお客様を出迎えた。
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