29人が本棚に入れています
本棚に追加
おれが首を振ると、十兵衛さまは力なく笑いながら語ってくださった。
「おぬしは6才の頃、焼き討ちされた延暦寺から逃げてきたな。
…あの寺を焼いたのは、わしだ。わしは信長さまより、“延暦寺にいる者を皆殺しにしろ”との命を受けていたのだ。
おぬしが延暦寺から逃げてきたと知った時、殺さなければならぬと思うた。だが殺せなかった」
十兵衛さまの瞳は、深い憂いに満ちていた。
「わしはこのような幼き子供の命までも奪っていたのかと、自分が恐ろしくてならなかった」
だからわしは、おぬしに光雨と名づけたのだ。十兵衛さまはそう告げた。
「自分の諱を与えるのは、自分の分身のごとき大事な存在にだけ。だから普通は、自分の子にしか諱を与えぬ。
…おぬしを我が子のように大切にして、せめてもの罪滅ぼしをしたいと、そう思うたのだ」
十兵衛さまは遠い目をして、続けた。
「いつしかおぬしは間諜として、領民たちの本音を届けてくれるようになったな。
…おぬしが笑顔でいる時、領民たちも笑顔で過ごしている。おぬしが歎き悲しんでいるとき、領民たちもまた歎き悲しんでいるのだ。
光雨の幸せは、領民たちの幸せと同義。…わしはそう思うようになった」
血に濡れたおれの体を抱き、十兵衛さまは言う。
「光雨が笑顔であるように。
それだけを願い、これまで働いてきたのだ。
だから、おぬしは死んではならぬ。
ここから逃げ、生き抜いてくれ」
今まで十兵衛さまが行った、様々な政策。
あれは全て、おれのためであったのか。
おれの名前に、それほどの意味を込めてくださっていたなんて。
「十兵衛さま…!」
十兵衛さまと邂逅すると、いつも雨が降る。
まるで五月雨のように涙があふれ、止まらなくなった。十兵衛さまにすがりつき、おれは声をあげて慟哭した。
最初のコメントを投稿しよう!