第3話

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第3話

やっと仕事が終わった昼下がり。 僕は手にケーキ箱を持ち、彼の家に向かっていた。今週はいつもより仕事が多くて、終わらせるのに時間がかかってしまった。四日ぶりに彼に会える。彼にキスできる。それだけで、仕事の疲れは消え、身体中に力がみなぎっていた。 森を抜けると、一気に視界が広がる。広々とした牧草地には、牛が闊歩し、その先の森の近くに一軒家が建っていた。二階建ての木製の住居。彼の家だ。 森から彼の家までは、なだらかな丘になっていて、蛇のような道がくねくねと蛇行しながら、続いている。僕はその道をゆっくりと進む。彼の家に近づくにつれ、牧草地が畑に変わる。食べごろの野菜は収穫され、青い野菜たちが太陽の光を浴びて、ぴかぴかと輝いていた。 さらに、畑を抜けると、家の周りに植えられたクチナシの甘い香りが、ふわっと香ってきた。今は丁度花が開花していて、白く儚げな花弁が緑の低木に、ぽつぽつと花開いている。僕が通り過ぎると、さらに香りが強くなった。 彼は日がな一日、畑の手入れや家畜の世話をして暮らしている。まるで、隠居老人のような生活。彼はこの生活を千年近く繰り返している。 僕なら嫌になって逃げ出したくなるところだが、彼はこの穏やかな日々が気に入っていると言っていた。 玄関に立ち、一度深呼吸して、ドアノブに手をかける。彼に会えるのは、とても嬉しい。でも、彼がどんな表情を浮かべて僕を迎えるか、少しだけ不安だった。また、「戻って来ると思わなかった」というような顔で迎えられたら、どうしよう… 一抹の不安を抱えたまま、ドアノブを引く。 「ただいま。」 少し大きな声で言う。薄暗い玄関。しばらく待ってみたが、誰の迎えもない。僕はちょっとがっかりしながら、扉をバタンと閉めた。やっぱり迎えに来てくれなかった… はあとため息をつき、暗い廊下を抜けて、リビングの扉を開く。 「ただいま。帰ったよ。」 「あら、おかえり。」 思いがけず、高い声が返って来た。ぎょっとして、声の主を見る。そこには、金髪をシニヨンでまとめた若い女性が、ソファに座って、僕にひらひらと手を振っていた。 あまりの驚きに、危うくケーキ箱を落としかける。 「…エルベ! なんでここに…」 僕が聞くと、エルベは手を振るのを止め、 「なんでって。ここに通っているのは、あなただけじゃないんですけど。何? ベオさんをスタアク家で独り占めしようって腹積もりなの?」 僕を睨んだ。僕は慌てて首を横に振って、 「そうじゃないよ。ただ単にいると思ってなかったから、驚いただけ。」 「ふーん、そう。まあ、いいわ。それより、いつまで立ってるの? 座ったら?」 まるで、自分の家のような物言いに、少し苛立つ。しかし、エルベは僕よりも五つも上だし、何より彼女はレイト家の跡取りだ。余計な揉め事を起こす方が面倒くさい。 僕はケーキ箱をキッチンに置き、テーブルを挟んで反対側のソファに腰かけた。僕の知る限り、エルベは化粧をほとんどせず、いつもズボンを履いている印象があった。しかし、今日は薄くだが化粧をし、タイトなスカートを履いている。さらに、耳にはピアスが輝いていた。 エルベは淹れたてらしい紅茶を飲みながら、僕をじろじろと遠慮会釈なく眺めた。 「ニズ、ちょっと見ない内にまた身長が伸びたんじゃない? それに顔つきも、大分大人びたわね。」 「…うん、まあね。エルベと会うの、二年ぶりだし、それは変わるよ。」 「それはそうね。…仕事は順調?」 まるで、久しぶりに会った親戚のような会話。まあ、僕とエルベは、親戚のようなものだから、間違いではない。僕たちスタアク家とエルベたちレイト家は、ベオの存在を知っている家であり、ベオの生活を守っている番人でもある。そういう関係もあって、僕とエルベは幼い頃から面識があった。 それでも、共通の話題はほとんどなく、すぐに話が終わる。気まずい雰囲気が流れた。僕は話題を必死に探し、 「えっと…、そう言えば、ベオはいないの?」 と聞く。すると、エルベが怪訝そうに眉をひそめ、 「…ベオ…? あなた、いつからベオさんのこと呼び捨てにするようになったわけ?」 「え、いや、その…」 ついドキマギしてしまう。エルベの眉間の皺がさらに深くなる。これはまずい。どうにかして話題を変えなければと口を開いた瞬間、リビングの扉が開き、 「ごめん、待たせたね。」 彼が入ってきた。手に古びた分厚い本を持っている。 エルベは待ってました!というように、彼の方を見て、 「ベオさん、いつからニズに呼び捨てさせてたんですか? ずるい! 私もベオって呼びたいです!」 「え、ああ…。別にかまわないよ。」 「やったー!」 嬉しそうに顔をほころばせた。彼は少し困ったようにエルベを見て、それから、僕に目配せした。まるで、「ごめんね」とでも言うように、目を伏せる。 僕は「いいよ」と言うように、少しだけ微笑んで見せた。僕だけの呼び名じゃなくなったのは、正直寂しい。でも、僕の落ち度だ。何より呼び名だけが、彼と僕を繋いでいるわけじゃない。 彼は持っていた本の埃をぱんぱんと払い、 「はいこれ、レイト家の秘書、先に渡しておくね。」 エルベに本を差し出した。エルベは「ありがとうございます」と礼を言って受け取る。随分と古い本で、表紙の文字は掠れ、ところどころ破れている。 彼女は表紙を撫でながら、考え深そうにつぶやいた。 「これを読む日が来るなんて…。私も歳をとったなぁ…。あの、ベオさ…ベオはこの本の内容を知っているんですか?」 「いいや、知らないよ。それはレイト家の子だけが読めるように、まじないがかけられているから、ボクも読めないんだ。」 「そうなんですね。どんな内容なのかしら…」 大事そうに本を抱え、エルベは目を閉じた。そんなに大切なものなのかと、本の表紙をじっと眺める。僕には表紙の文字は読めない。おそらく読めないように細工がしてあるのだろう。 エルベはふうと深く息をつき、目を開いた。銀色の瞳に少しだけ涙が溜まっている。それを見て、ドキッとした。勝気なエルベが泣いている。彼女の涙を僕は初めて見た。 エルベは泣いているのを隠すように笑って、 「何だか感動しますね。私も結婚する歳になるなんて。」 と言った。僕はエルベの言葉に酷く驚いて、 「え!? 結婚するの!?」 素っ頓狂な声を出してしまう。エルベは、はあとため息をつき、 「ええ、結婚しますけど。あなた、まったく本家に顔を出さないから知らなかったかもしれないけど、あなた以外は全員知ってるわよ。」 「え…、そうなんだ。それは…おめでとう。」 「ありがとう。で、今日はその報告と、この本をとりにきたの。お分かりいただけた?」 少し棘のある言い方。僕は黙ってうなづく。 エルベがここに現れた理由が分かってすっきりした半面、彼に家に帰っていないことがばれて少し気まずい気持ちになった。 エルベは本をソファに置き、 「詳しくはゆっくり話すわ。せっかくだし、皆でお茶しましょうよ。まだ、紅茶ありますか?」 彼に聞く。彼は「あるよ」と言って、キッチンに向かった。僕も彼を手伝おうと立ち上がる。すぐ帰るかと思ったのに、この分なら泊まると言い出すぞ…と憂鬱な気分に襲われた。 本当は今すぐ彼を抱きしめて、キスしたいのに…。それをぐっと我慢して、僕はお茶を沸かした。 * 白い陶器のティーポットに紅茶を入れ、熱い湯を注ぐ。湯が泡立ち、茶が舞う。とぷとぷとたっぷり三分の二くらいまでお湯を入れ、蓋をして蒸らす。 僕はティーポットと二人分のカップを盆に載せて、キッチンを出た。既に、テーブルには僕が買ってきた木の実と糖蜜のタルトが、綺麗に三等分されて、上品な皿に一つずつ載せられていた。 本当は彼と二人で食べるつもりだったのに…。ワンホールあるのだから、少しぐらい分けてもいいじゃないかと思われそうだが、どうしても釈然としない。みみっちいと言われたら、その通りだ。でも、僕はこの菓子を、彼と二人きりで味わいたかった。 エルベは彼と向かい合って話していた。僕が来ると、話を止めて、僕を見あげた。 「良いお土産ね。糖蜜タルトなんて、久しぶり。」 「…僕も久しぶりに食べる。昔よくおじさんが買ってきてくれてたよね。」 「そうね。パパったら、子どもは甘いものが好きだって思い込んでたからね。まあ、私は好きだったからいいけど。」 クスクスと笑う。懐かしい思い出が蘇ってきた。僕は初めて、このタルトを食べた時、世界にはこんなに美味しいものがあったのかと、感動した。その気持ちを少しだけ、彼におっそわけしたかったんだ。そうだ。そうだった。自分でもその気持ちに気づいていなかった。たぶん、エルベがいなかったら思い出しもしなかっただろう。だから、彼女がいることも、少しだけ我慢することにする。 ティーポットをテーブルに置き、カップを二つ隣同士に置く。そして、僕は当たり前というように、彼の隣に腰かけた。それが、とても自然な動きだったので、エルベもさも当然と受け入れたように見えた。 紅茶の葉が開くまでの数分、僕は黙って、二人の会話に耳を傾ける。 エルベはまるで子どもみたいに声を弾ませ、 「それで、パパったら、面白いんですよ。私が彼を連れてきたら、もう泣いて泣いて…」 「へえ、アナバルがね…。結構クールな子だと思ってたけど、さすがに我が子のことになると、そうもいかないみたいだね。」 「えっ! パパってクールなイメージだったんですか?」 「ボクの知る限りではね。」 「全然そういう感じじゃないですよ! ねえ、そうよね、ニズ。」 急に話題を振られて、一瞬反応が遅れる。 「えっ、うーん…。そう? 僕から見ても、おじさんは冷静沈着な印象だけど。」 「そうなの? パパって、内弁慶なのかしら…」 「意気地がないわけじゃないから、内弁慶とは違うんじゃない?」 僕は紅茶をカップに注ぎながら、つぶやく。とても香りのよいもので、華やかな香りが広がる。赤褐色の紅茶が三分の二ほどカップを満たすと、注ぐのを止め、味を確認する。ちょっと蒸らし過ぎて、渋い。でも、甘いものにはこのくらいが丁度いいはずだ。 「はいどうぞ」と皆にサーブする。彼とエルベは「ありがとう」と礼を言って、紅茶を一口飲んだ。そして、エルベはフォークでタルトを一口大に切り、口に運ぶ。もぐもぐと咀嚼し、 「相変わらず、すっごく甘いのね。でも、美味しい。」 ニコッと笑った。その様子を、彼が微笑ましそうに眺めている。しかし、彼は紅茶は飲んでばかりで食べようとしなかった。僕は急に不安になって、 「もしかして、甘いもの苦手だった…?」 彼に聞く。すると、彼は首を横に振って、 「いいや、嫌いじゃないよ。食べるね。」 フォークを握り、小さく切って、口に運ぶ。ゆっくりと味わい、 「何だか懐かしい味がする…。そう言えば、これ皆で食べたっけ…」 独り言のようにつぶやいた。そして、僕の方を見て、 「とても美味しいよ。買ってきてくれて、ありがとう、ニズ。」 「どういたしまして。喜んでもらえたなら、良かった。」 彼の少し嬉しそうな表情を見ていたら、自然と頬が緩んでしまう。エルベの視線を感じて、慌てて表情を隠すように紅茶を飲んだ。それから、タルトを大きく切って、ぱくっと食べる。 甘い糖蜜と香ばしい木の実が、口の中でかりかりと音を立てる。やっぱり美味しい。 視線を上げると、彼とエルベが美味しそうに、顔をほころばせながら、タルトを食べていた。それを見て、誰かとこうやって一緒に食事するのも悪くないと思う。 しばらく、タルトに舌鼓を打ち、紅茶を飲みながら話していると、彼が立ち上がり、 「煙草吸ってくるね。ゆっくりしてて。」 煙草とマッチを持って部屋を出て行った。最初の頃は寂しい気持ちに襲われていたが、最近は慣れて、何とも思わなくなった。 僕は残り少なくなったカップに紅茶を注ぎ、 「エルベもおかわりいる?」 と聞く。彼女は「もらう」と言って、カップを僕の前に置いた。僕はエルベのカップにも紅茶を注ぎ、「はい」と渡す。さすがに、最後の方は渋くて、そのままだと飲めない。砂糖を二つ入れて飲んでいると、押し黙っていたエルベが急に口を開いた。 「もしかして、あなた、ベオと付き合ってるの?」 予想外の質問に、ぶほっと思いっきり紅茶をむせた。熱い紅茶がびちゃびちゃと足にかかって、「熱!」と飛び上がる。すぐに、エルベがハンカチを濡らして、紅茶のかかったズボンの上から当ててくれたので、火傷することはなかった。 エルベは僕のズボンを拭きながら、 「その動揺の仕方を見ると、図星だったみたいね。いつからなの?」 「…違うよ。付き合ってない。」 「噓言わないでよ。誤魔化せると思ってるの?」 僕を睨んだ。僕は目を伏せて、 「…本当に付き合ってないよ。嘘じゃない。」 「本当に? だって、明らかに…」 そこで、エルベは言いよどみ、言葉を探すように、ゆっくり口を開いた。 「…一線超えてるでしょ。あなたたち。」 心臓が痛いほど跳ね上がる。それでも、僕はできるだけ冷静を装って、低い声で訊ねる。 「…なんでそう思うの?」 「だって、何だか距離が近いんだもの。何というか…二人の間に流れる雰囲気みたいなものが、友達とか家族とか、そんなものじゃない気がしたの。でも、間違っていたなら、ごめんなさい。」 ぎゅっとハンカチを握りしめて謝った。僕は濡れたズボンを触り、つぶやく。 「…半分は正しいけど、半分は間違ってる。」 エルベが怪訝そうに眉をひそめた。 「どういうこと? 意味が分からない。」 「だから、まあ、その…ベオとは色々する仲だけど、付き合っているわけじゃないってこと。」 「…えっと。色々って、キスとか、ハグとか、それ以上のことってことよね?」 「…うん。」 「でも、付き合っているわけじゃないと?」 僕がこくりとうなづくと、エルベは僕の隣に座り、矢継ぎ早に質問した。 「どうして、そこまでしているのに付き合ってないの? ただ欲求不満を解消するだけの相手ってこと?」 「僕は違うよ。でも、彼は…ベオはそうなのかも。」 エルベがぎょっとした顔で僕を見た。 「まさか…。直接そう言われたの…?」 「ううん、違う。でも、そうなのかなって。それに、僕自身、ベオに僕のこと好きになってなんて言えないし。ただ僕がベオを好きでいられたら、それでいいかなって。」 僕の言葉にエルベが頭を抱えた。 「何よ、それ…。そんな一方通行な愛が、成立すると思ってるの? 絶対、その内ベオに好きになってもらいたいって思うに決まってるじゃない。」 言葉が針にのように心に刺さる。ある日の夜、僕の腕の中で眠る彼を眺めていた時に感じた、胸を締め付けるような苦しみに襲われた。 僕はぐっとシャツの胸元を掴み、 「でも…、ベオには他に好きな人がいるんだ。それを押しのけて、僕がベオの恋人になるなんて無理だよ。それに、僕はベオを必ず置いて行ってしまう…。それを考えたら、今のままでいいって思うんだ。」 絞り出すように言う。苦しそうな僕の表情を見て、エルベは同情するようにつぶやく。 「あなたも、随分苦しい道を進む人なのね…」 次は僕が怪訝な顔になった。 「あなたもってどういうこと? エルベもそうなの?」 エルベは一瞬考えるような仕草をし、それから、ぽつりぽつりと話し始めた。 「…私もね、私も実は結婚する彼とは別に好きな人が居たの。その人は…その…女性だった。」 驚いてエルベの顔を見つめる。彼女は悲しそうに顔を伏せた。 「五年くらい付き合ってたのよ、私たち。でも、パパに言ったらね、ものすごい剣幕で怒り始めて…。女性と付き合うことは絶対に認めない。さっさと別れなさいって言って、取り合ってくれなかったの。もう、どうしようもない位、説得の余地もないほど、パパは怒ってた。」 「何でそんなに怒ってたの…?」 「後からそれとなく聞いたらね、子どもを作れないことが、ダメだったみたいなの。付き合っている人が、男性なら怒らなかったって…。それを聞いたら余計悲しくて…」 エルベの瞳から、ぽろぽろと涙の雫が落ちた。僕はどうしたらいいのか分からず、慌てる。 「そんなことになっていたなんて…全然知らなかった…」 「…そうでしょうね。あなたが本家を出て行った頃の話だし。もう二年くらい前の事件だから、知ってるわけない。」 「そうだったんだ…。ごめん。」 「なんでニズが謝るのよ。それに、もういいの。彼女とはすっぱり別れたし…、それにやっとパパを安心させられるような立派な人と結婚できるしね。」 エルベは涙に濡れた顔で、無理して笑って見せた。何だか酷く悲しくて、僕も泣きそうになった。きっとまだ昔付き合っていた女性のことが好きなんだ。それなのに、それを押し殺して、別の人を好きになろうと頑張っている。 僕は何とかできないのかと、訊ねる。 「エルベはそれでいいの? 後悔はないの?」 「そうね…。後悔はある。でもね、ニズは知っていると思うけど、レイト家って子は一人のみだし、何よりしきたりがすごく多くて…。文字を読めるようになったら、毎年誕生日に本を一冊、ベオから渡されるの。それを読んでいると、レイト家の子に生まれた瞬間から、私の意志は尊重されないって分かるのよ。」 エルベが涙を拭う。そして、自分を気持ちを落ち着けるように「はあ」と息を吐いた。 「きっとパパも、おじいちゃんも、レイト家の…金髪を持って生まれた人は皆そうなんだと思う。……あんまり他の人には言ってはダメだと言われているんだけどね。どうやら、レイト家は隣国のドラコンと関わりがあるみたいなの。」 それは初耳で驚く。隣国ドラコンはよく知っている。血気盛んな人間が多く、僕たちの国とも何度も戦争を起こしている。最近もすぐ近くの小国と揉め、戦争状態になっていると聞いた。 「そうなんだ…。正直それはびっくりした。」 「でしょうね。他の人には言わないでね。」 「もちろん。でも、それがレイト家の子一人とか、しきたりと、どう関係があるの?」 僕の問いに、エルベは古びた表紙を撫でながら答える。 「それは私もまだ知らないの。パパには『結婚することになったら、ベオさんから本を渡させるから、それを読めば自ずと分かる』って言われた。だから、この本を読めば、どうしてこうもレイト家には自由がないのか、そして…どうして彼女を諦めなければいけなかったのか理由が分かるはず。…納得できる理由ならいいけどね。」 寂しそうに微笑んだ。僕は気の利いたことも言えず、「そうだね…」とだけ返事をした。 エルベは僕の方を見て、 「でも、私、ニズがちょっとだけ羨ましい。心の底から好きだって思える人と一緒にいられるなんて、とても幸福なことだって思う。でも…」 そこで、一度言葉を切った。言うか言わないか迷っているように見える。それでも、決心したように口を開いた。 「きっとあなたは物足りなくなって、ベオの愛を求めるようになる。」 「…なんで、そう思うの?」 「だって、人を愛するってことはね、相手のすべてがほしくなることなのよ。相手の身体も心も、全部欲しくなる。そういう感情を抑えるのはすごく大変だし、ほとんど不可能に近いから。」 僕は何も言い返せず、押し黙ってしまう。エルベの言い方は、真に迫って聞こえた。きっと恋人に感じていた気持ちを、そのまま言葉にしたのだろうと思う。 それに、僕も彼のすべてが欲しくなることが、度々あった。それを抑えることが難しいのも理解できる。 エルベはぽすっとソファの背に寄り掛かり、 「とにかく、ニズはまず、ベオがあなたをどう思っているか、ちゃんと聞いた方がいいと思う。さっきの話は全部、言ってしまえばあなたの妄想でしょう?」 「…まあ、そうだけど…」 「そうやって、一人で悩んでも埒が明かないし、自分の気持ちを素直に伝えてみるのも大事よ。」 まるで、幼い弟にするかのように、僕の頭をぽんぽんと優しく撫でた。僕は黙ってうなづく。 確かに、一人で悩んでも仕方のないことかもしれない。でも、「僕のこと好き?」と聞いたら、彼はきっと僕を避けるようになる。それが、怖いんだ。 扉が開く音がして、彼が部屋に戻ってきた。僕とエルベが並んで話しているのに気づき、少しだけ表情が柔らかくなる。 彼は僕たちとは反対側のソファに座り、テーブルに煙草とマッチを置きながら口を開いた。 「二人で何話してたの?」 「私の結婚相手のことを話してたんです。ほんと、ニズ何も知らないから…」 彼は「そうだったんだね」と僕をちらりと見た。後で聞くことがある、と目を細める。僕は観念してうなづいた。 少し話した後、エルベが「そろそろ帰るわ」と言って立ち上がった。僕も立ち上がって、 「うん、気をつけてね。最近、物騒だし。」 「ええ、そうね。気を付けるわ。」 エルベがニコッと笑った。すると、今まで静かだった彼が急に口火を切った。 「…また戦争でも始まったの?」 僕は驚いて彼を見つめる。不安そうに表情を曇らせている。それを見て、彼はずっと森の中で暮らしていて、ほとんど情報が入って来ないのだと悟る。 「そうだよ。隣国のドラコンと小国レベルドが小競り合いを起こしてるんだ。で、そのドラコンに雇われた傭兵たちが、なかなかのワルらしくて…」 僕は言葉を濁す。何だか彼の表情が暗い。これ以上は言わない方がいいだろうかと悩む。 しかし、それに気づかなかったのか、僕の説明を補足するように、エルベが話を続けてしまった。 「そうなんですよ。人は殺すし、女性は誘拐するし、ちょっとした社会問題になっています。パパも対策に追われていて、今はほとんど家にいないんです。でも、今のところ被害は出ていないので、安心してくださいね。」 エルベが微笑む。そして、僕をちらりと見て、「そんなところで話しを終えたら、余計不安になるでしょ!」と囁いた。その通りだと、反省する。 彼はまだ不安そうだったが、それでも「エルベが言うなら」といくらか表情が戻る。 玄関まで歩く道中、エルベが「そうそう」と振り返り、 「結婚式の日取りが決まったら、お知らせしますね。」 「結婚式か…。霧の街でするの?」 「ええ、そうです。無理にとは言いませんが、良かったらニズと二人で来てください。」 ニコリと笑った。ベオは「うん、考えておくね」と返事をする。エルベは何か言いたげだったが、それ以上は何も言わなかった。 それから、手を振りながら、エルベは帰っていった。僕と彼はエルベの後ろ姿が見えなくなるまで見送る。そして、完全に見えなくなったところで、彼がポツリとつぶやいた。 「君、家に帰ってなかったんだね。」 ドキリとして、彼を見た。彼の黒い瞳と目が合う。怒っているわけではなさそうだ。僕はポリポリと頭を掻き、 「うん…。実は…その…スタアク家には、もう随分と帰ってない。でも、父さんにはちゃんとベオと住むことは伝えてあるよ。それは嘘じゃない。」 「…そうなんだね…。ラドムとは仲が悪いの?」 「仲が悪いというか…、父さんは僕のこと見放してるから。僕が居ない方がスタアク家は円満なんだよ。だから、自分から離れたんだ。」 できるだけ、声が震えないように、さも気にしていないというように、僕は言う。彼は短く「そっか…」と言って黙ってしまった。 目を伏せて、口を一文字に結んでいる。悲しそうな表情。 僕は彼の髪を彼の耳にかける。彼は驚いたように僕を見あげた。僕は何も言わず、顔を右に傾け、その唇にキスをした。冷たくて、煙草臭いキス。拒むように閉じた歯を半ば無理やりこじ開けて、熱い舌に触れる。 彼は嫌そうに顔をしかめたが、それでも、されるがまま大人しく、僕の口付けを受け入れた。しばらく、僕たちは玄関で深くキスをした。 甘くとろけるような濃厚なキスを終えて、口を離す。彼は涎で濡れた口を、袖でゴシゴシと拭い、 「…ニズがキス魔なの、忘れてたよ…。これで満足した?」 「…全然足りないけど、ひとまずは。」 ちゅっと額にキスをする。彼は困り顔で、 「急にキスするだもの…。驚いた。」 「ごめんね。何だかベオの顔を見てたら、無性にキスしたくなったんだ。」 彼の髪を優しく撫でながら謝る。 僕は彼に悲しそうな表情を浮かべてほしくない。僕のことで、心を痛めるなんてまっぴらごめんだ。でも、彼の気分を変えるような言葉なんて思いつかなかった。だから、僕は彼にキスをする。彼が少しでも忘れられるように。 僕は彼をぎゅっと抱きしめて、 「僕はベオがいれば、それで幸せだよ。だから、何にも気にしなくていいだよ。」 耳元で囁く。彼はじっと僕を見上げ、 「…ボクは、」 何かを言いかけて、口をつぐんだ。さっと視線を逸らし、遠くを眺めるような憂いを含んだ表情を浮かべる。 何を言いかけたのか聞きたいような、聞きたくないような複雑な感情に襲われた。もし、今訊ねれば、彼は正直に思ったことを口に出すだろう。それは…… 僕は彼の手を握り、 「そろそろ家に入ろうか。」 と囁く。彼は無言でうなづき、僕の手を握り返した。細い指の感触。すべすべとした肌。短く切られた爪。 まるで、子どもの手を引くみたいに、僕は彼の手を握り締め、扉を閉めた。
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