アマシキさんの言うことにゃ、まだあなたを選ばない。

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今、2度目の夢。 彼女はあの時と変わらず、色彩にまみれて白い空間にペンキを打ち続けていた。 ゆっくりと近づく僕に気づかないように、夢中で様々な缶に筆を浸しては、弧を描いて色が舞う。 まるで色彩と遊んでいるような彼女に、声をかけた僕の声は弾んでいた。 「天識(あましき)さん」 「知弦(ちづる)くん、だ」 振り返った彼女の肌色は変わらない。 大きい瞳も、綺麗な黒髪も。 その心を掴んで離さない優しい笑顔も。 「久しぶりだね」 「あら、そう?  描いていると時間を忘れちゃうの。もうそんなに経った?」 「うん、結構経った」 そっかー、という彼女はあまり自覚がないようだ。 夢の中だからだろう、僕はさほど気にならなかった。 それよりもずっとずっと気になったのは。 「綺麗な絵だけど、足りないね」 「え?足りない?」 青、黄色、黒、緑に紫。 あの頃変わらない美しい色彩、不思議な世界。 でも、足りない。 「『赤』が足りない」 「………」 そうだ、それだ! 彼女の明るい返事を期待したのに、返ってきたのは無言で眉間に皺を寄せる顔だった。 「違う?」 「ううん、違くない。確かに足りないと思ってた」 そうだろう!僕は大げさな声を出して両手を広げる。 彼女の先を歩いて色とりどりの缶に近づき、中身を覗き込んだ。 これだけたくさんにあるのに、『赤』がない。 「赤、ないね」 「うん、使い切っちゃったの」 「それは…困ったな…」 僕は頭を抱えた。 せっかくまたこの夢を見れたのに、あの絵を見れないのは本当にもったいないと思った。 美しい色彩の世界を、時間を、もう一度味わってみたかったのに。 僕は振り返って彼女を見た。 「僕の『赤』をあげよっか」 「…あなたの?赤?」 「そうだよ。前は君の『赤』だったけど、今はないんだろ?」 「…うん、ない」 「じゃあ、次は僕の『赤』を使うといいよ」 天識さんは筆を持ったまま黙ってしまった。 その表情は何も表現されておらず、感情が読めない僕は動揺する。 「僕のではだめなの?」 「……うん、だめ」 彼女は弱弱しく首を横に振った。 ぽたり、とその動きに耐えきれなかった黄色が彼女の手の先から地面に落ちた。 「あなたの『赤』は、まだだめ」 「どうしてもだめ?」 「だめ」 「うーん、困ったな」 どうしてもあの絵を見たかったのに。 そう言おうとした途端、突然意識が遠のいていくのを感じた。 「待ってくれ、まだ見てない。君の絵を…まだ…」 「うーん、そうだなあ」 僕の声を聞いていないのか。 気にしない素振りで、彼女は言った。 「君の『赤』は年季が足りないかな。  もっともっと深い『赤』にならなきゃ。私の絵に使うにはまだまだ、だよ」 「そ…んな……」 「だから今回は、お、あ、ず、け、  ふふ」 手足が消えていくような感覚。 意識は容赦なく僕自身を奪っていく。 伸ばす手も見えなくなって、意識が完全に消える直前。 彼女の声だけは、しっかりと耳に届いた。 「君の『赤』を選ぶ日を、楽しみにしてるから」 「…………た、…あ……た、  あなた!!」 「ん、ん……?」 消毒液の匂いが僕の鼻を突いた。 なんとなく瞼をあげて見れば、ぼやけた視界に、良く知った人の顔。 「ああ、あなた!  看護師さん!目が覚めました!!先生はどちらへ!?」 「落ち着いてください、奥さん、今呼びに行ってますから」 身体が重すぎて動かない。 だが自分に繋がる無数の管には、赤色が見えた。 「あなた、私がわかる?ここがどこだかわかる??」 「…理恵、ここは……病院……?」 ぎゅうぎゅうと右手を掴まれる感覚がして、視線を向けた。 人差し指を機械に挟まれたしわくちゃの手は、同じような手に握られている。 ああ、 僕はやっと、気がついた。 ジワリと目じりに溜まっていく水の感覚は何十年ぶりだろう。 きっと、最後はあの日だ。そうに違いない。 「…君は、こんな老いぼれの『赤』でも駄目なのか…」 偶然とはいえ、同じ事故に遭ったじゃないか。 仲間になった記念にでも、使ってくれたらよかったのに。 「まだこの老体に鞭を打って生きろとは、まったく…」 でも、いつか本当にその瞬間が訪れた時くらいには。 幼子のように泣きじゃくる妻の頭に触れながら、僕はそう思った。 ―――アマシキさんの言うことにゃ、まだあなたを選ばない。  Fin
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