第二十二稿 今日泊まってく?

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第二十二稿 今日泊まってく?

 あれから2週間経っても野崎からの連絡は無い。何度も電話をしようとしたが、仕事が忙しいだろうか、迷惑でないだろうかと悩み続けていると、あっという間に時間だけが過ぎていった。手軽にメールができれば良いが、野崎が嫌う為、電話しか手段がない。スマホの画面を見ながらため息をつく。  私達、両思いになれたんだよね…? ーーこれが好きという感情なのかは経験をした事がないからわからない。  まだ私の片想いって事なのかな…  そう思うと、自分からの連絡は迷惑なのでは無いかという結論に至る。  形ばかりの恋人になった翌日の夕方、野崎が原稿を仕上げたと寝不足の星野が喜んでいた。 「星野くん、間に合って良かったね」  佐々木も目の下にクマを作っている。 「僕があんなに慌ててたのに、誰かと会ってたんですよ」 「え!?」  真里はビクッとした。 ーーーーー 「せんせーい!!!どこにいってたんですか?」  目に涙を浮かばせながら星野が駆け寄る。野崎の帰りをずっと外で待っていたようだ。タクシーの中で星野に電話をかけたが、涙で何を言っているのかわからず、途中で電話を切っていた。 「散歩だ」 「そんなわけないでしょう!原稿は?」 「今から描く」 「え、今からですか?間に合わない…」 「小僧、俺を誰だと思ってる。明日までには必ず仕上げる」 「さすが、漫画の化身ですね」 「さぁな」 「先生、口に赤いのがついてますよ。あれ?もしかして…」 「!!別にこれはなんでもない」 ーーーーー 「あれは絶対女性ですってば」 「野崎先生に限ってそんな事は…」  佐々木は苦笑いをする。  先生、可愛い。  真里はふふっと笑みをこぼした。 「小田くん、ちょっといいかな」 「はい」  五十嵐に呼ばれて、真里は立ち上がった。五十嵐が会議室に向かうのがわかり、お腹の底から緊張が走った。会議室に呼ばれると言うことは、真里の処遇が決まったということだからだ。まともに仕事をしていないのに、それ以外の用事で呼ばれるはずがない。 「この前の件だけどね…」 「はい…」 「実は先日、青田くんから謝罪があったんだ」 「え?」 「小田くんに申し訳ない事をしたって」 「は、はい…」 「君を異動させる声もあるんだが、僕は小田くんにこのまま漫画編集として活躍して欲しいと思ってる。青田くんからの謝罪もあったことだし、また担当を持って活躍してほしい。しかし『トゥエンティ』の編集長が君をそろそろ返せって言っててね、そこで君の意見も聞きたいと思ったんだ」 「…」 「今すぐに答えを出さなくていい、よく考えて決めてくれ」 「はい、ありがとうございます」 *  一人でモヤモヤしていても始まらない。真里は週末、野崎の家に向かった。約2ヶ月ぶりに見る玄関に変わりがないが、仕事以外で訪れるのは初めだ。仕事という関係が切れた以上、ただの赤の他人の関係になる。は受け入れられるか不安になり、緊張が走る。 「先生、こんにちは」 「ああ」  野崎は一瞬顔をあげたが、一言だけ返事をするとまた原稿に向かった。  2週間ぶりに会った反応はそれ?  「会いたかったよ」と言ってくれるとは思ってないけれど、これじゃ作家と担当の関係と変わらないじゃない。 「先生、今日一緒に夜ご飯食べていいですか?お料理しようと材料を買ってきました」 「ああ」  今度は真里の顔も見ずに返事をする。恋人になったからといって、野崎が変わるわけではない。しかし、いつも通りの反応をされると、あの日が本当は夢だったのかと不安になってしまう。あれこれ一人で考えても無駄なのは分かっている。しかし、野崎に言うときっと「わかっていたことだろう」と面倒臭そうに言われるのだろう。  今日はハンバーグを作るため、玉ねぎの微塵切りを始めた。包丁を下ろすたびに見えない強烈なタマネギの霧が目を襲ってくる。目がどんどん痛くなり、涙が出て出てくる。しかし、しっかりと微塵切りにして、飴色になるまで焼くのがハンバーグを美味しく作るポイントなのだ。真里は妥協できなかった。 「小田、悪い原稿が佳境に入ってて…今ひと段落ついたところだ」  野崎が声をかけながらキッチンにやってきた。 「お疲れ様です…」  真里が野崎に振り向いたとき、目から大量の涙が溢れていた。 「小田!?…ど、どうした?」  野崎は驚きと戸惑いを見せた。明らかに焦ったような顔に、真里は「寂しかったから」と意地悪でも言おうかと考えていると、 「悪い…俺が何かしたなら」  野崎の指先が真里の頬を伝う涙を優しく拭う。自然な流れの中で触れられ、ドキッと肩が跳ねる。 「違うんです。玉ねぎが目に染みて…」 「そ、そうか…」  まな板にこんもり出来上がった玉ねぎの微塵切りを見て安心したかのように目つきが優しくなる。  先生は、私を気遣おうとしてくれている。少しずつ、時間をかけて気持ちを育んでいくべきだ… 「小田、夕飯まで少し時間があるから、ちょっと出かけないか」 「え?はい…」  真里は急いでご飯の支度をすませると、二人は野崎宅の石門を通って外に出た。日中はまだ暑いが秋に入ろうとしているため、夕方は涼しく散歩にはうってつけの気温だ。野崎は何も言わず、商店街に向かって歩き始めた。前を歩く彼を追って、真里は後についていく。彼の背中を見ながら、真里は思いを巡らせた。  これって…デート?  並んで歩くわけでもなく、会話があるわけでもない。客観的に見たが、それと呼べる要素が何一つ見つからない。野崎はただの散歩だと思っているのかもしれないが、真里はこのまま終わるのは嫌だと思った。前に腕を伸ばし、そっと野崎の指の間に自分の指を絡ませた。嫌がられてもいい、恋人なんだから、手を繋ぐ権利はあるはずだ。拒否されると思ったが、野崎はその手握り返した。表情を変える事なく前を見ていたが、耳は真っ赤になっていた。 「ふふ」  恋人繋ぎをしながら、野崎は真里を先導して歩く。温かい手に包まれていると、恋人になった事を実感する。  真里が連れて行かれたのは商店街の喫茶店だった。カランカランという懐かしい音が鳴るドアの向こうには、カウンターと、重厚感のあるテーブルやソファが置かれた店内が広がっている。 「いらっしゃい…涼ちゃん…」  カウンターの奥なら白髪混じりの男性が声をかけた。 「お久しぶりです、マスター」 「いやー、本当に久しぶりだね。全く顔を出さないから漫画の描きすぎで死んだかと思ったよ」  マスターはそう言ったが、カウンター近くの本棚には、最新の『週刊少年ドリーム』と、『マジカル⭐︎ジャーニー』全巻がきちんと置かれている。 「あれ?今日はお連れさんがいるなんて珍しい」 「ああ、俺の恋人です」 『恋人』という言葉に、心臓が急に音を立てる。 「初めまして、小田真里と申します」 「初めまして、涼ちゃんが昔アルバイトをしていた店のマスターです」 「先生はここで働いていたんですね」 「ああ、高校生の時な」  二人はカウンターの前に座った。 「マスター、アイスコーヒーを二つ下さい」 「はいよ」  二人が飲み物を待っていると、どこから聞きつけたのか、商店街の人達がどんどん店に入ってきた。 「涼ちゃんが恋人を連れて来てるって?」 「まさかこんな日が来るなんてねぇ」  ゆっくりと過ごす喫茶店が、いつのまにか商店街の休憩室のようにワイワイとしている。野崎は慣れているのか表情を変える事なく、声を掛けられても、いつもと同じ無愛想な返事をした。 「涼ちゃん、商店街に援助ばっかりしないで、顔を見せなさい。優ちゃんはたまに来てくれるからいいけど、涼ちゃんは全然来ないから…私らは涼ちゃんの元気な姿が見たいんだよ」 「ああ」 「みなさん、先生の事すごく気にかけていらっしゃるんですね」 「そりゃそうさ、こーんな小さい頃から見てたんだから」 「俺はそんなに小さくなかったよ」 「で、いつ結婚するんだ?」  唐突な質問に、真里はコーヒーを吹き出しそうになった。野崎に向かってズカズカと質問できるのも、これまでの関係があるからこそだ。 「いつかは」  野崎はさらっと受け流すように答えた。しかし、真里はその言葉にドキドキしていた。いつかしたいって思っている事が嬉しくて、近い未来一緒にいるのかもしれないと思うと、緊張でコーヒーの味がしない。野崎と一緒にいたいとそればかり思っていて、将来の事を考えたことが無かった。適齢期なのだから、聞かれて当然なのに。 「小田さん、あんた大丈夫かい?涼ちゃんは優しいけど、昔から無愛想で…こんなだから…きっと苦労するよ」 「いえ…」 「でも金だけはたんまりあるから、いざという時貰って逃げればいいさ、はははは」  商店街のトークについていけずに、真里はタジタジになっていた。 「先生の性格は…知っていてお付き合いさせて頂いています。まだ…手探りですが、少しずつ距離を縮められたらと思っています」 そう言いながらも段々と恥ずかしくなり、背中を丸めて小さく縮こまってしまう。 「…」  野崎はアイスコーヒーに口をつけながら、真里をチラッとみた。 「だけど、気難しいから、嫌な事があったらすぐに商店街に来るんだよ」 「は、はい…」 「あまり言わないでやってくれ」  野崎がため息をつきながらも、真里に助け舟を出した。  辺りがすっかり暗くなってから家に戻ってきた。帰りもしっかりと手をつないで歩いたため、真里は胸がいっぱい幸せな気分だ。口角が緩んだまま、玄関に入った。 「ちょっと散歩のつもりが遅くなったな」 「はい、でもとても楽しかったです。すぐに夕飯にしますね」 「小田」 「はい」 「俺に遠慮するな」 「え?」 「俺は…こんなだから、言いたい事があるときは言って欲しい。その…恋人なんだから」 「では…2週間も連絡が無いのは…寂しいです」 「したければ、お前からすればいいだろう」 「だって、先生は私の事好きかわからないんですよね?迷惑じゃないですか」 「お前からの連絡は迷惑では無い。俺も…なるべく…連絡する」 「はい」 「他にはあるか?」 「好きな時に手を繋いで、キスをしてもいいですか?」 「ああ、構わん」 「たまには先生からしてって言ってもいいですか?」 「あ、ああ…努力はする」 「ありがとうございます」 「俺からもいいか?」 「はい」 「『先生』はやめないか?俺はお前の先生じゃない」 「はい…では、涼さん…?それとも、涼ちゃんの方が良いですか?」 「頼むからやめてくれ」 「ふふふ」  真里は笑いながら冷蔵庫からハンバーグのタネを取り出した。 「なあ、明日も休みか?」 「はい」 「じゃあ、今日泊まって行く?」  野崎は真里の背後から手を伸ばし、横腹を触った。触れた箇所が急に熱くなり、全身にビリビリと電気が走る。 「いいん…ですか?」 「ああ」 「では…お言葉に甘えて、そうしようかな」  真里は恥ずかしそうに俯いた。まさか野崎と朝まで一緒にいられる日が今日来るなど思ってもいなかった。かつ、野崎本人からの申し出が嬉しくてたまらない。真里は野崎の顔を見上げると、野崎も少し恥ずかしそうに頰を赤らめている。野崎なりに、真里と距離を縮めようとしているのが伝わってきた。  夕飯をすませると、真里は洗い物を始めた。今日泊まる緊張から、美味しくできたハンバーグの味がほとんど感じられなかった。 「俺はもう少し仕事をしてくる。風呂場はあそこだ、好きに使え」 「あ、あの、部屋着をお借りできますか?急な泊まりなので何も持ってきていなくて…」 「ああ、部屋に置いてある」 「ありがとうございます」  いつも野崎が着ている、白とグレーのルームウェアを借りた。野崎は背が高く、真里がズボンを履くと、丈が長過ぎて長袴のようになってまう。結局Tシャツだけを借りてお風呂から出てきた。 「涼さん、お先にありがとうございます」 「あ、ああ、俺もあと少し仕事してからシャワー浴びてくる」  野崎はTシャツ一枚の真里の姿に目線をかすかに泳がせた。綺麗にセットされた髪とパンツスタイルが多かった為、ラフな真里の姿は新鮮だった。 「では、先に寝室に行っていますね」  真里は二階の寝室に向かい、ベッドに入った。薄布団を膝にかけると、ふわっと野崎の香りが漂ってくる。いい香りに誘われ、つい鼻を近づけてくんくんと嗅いでしまう。全身を野崎に包まれている様な感覚に、真里はハッと我に戻った。  今日泊まりって、そういう事だよね?  泊まらないかと誘われた時から分かってはいたが、もうすぐ野崎がここにやってくると思うと、急にドキドキしてきた。優也と別れた以来の為、そういう行為は久しぶりだ。野崎がどんな反応を見せるのか、想像もつかない。気を紛らわせる為に手元に置いていたスマホに手をかけたとき、野崎が部屋に入ってきた。お風呂上がりで髭を剃っていて、整った顔がはっきりと見えていた。部屋の電気を消すと、テーブルランプのオレンジ色の光だけが、辺りを照らす。薄暗い光が野崎の身体を照らし、段々と顔まで映し出す。 「ズボンは大き過ぎたのか?」 「はい、先生は足が長いですね、私が履くとズルズル引きずってしまうほどです」 「先生、じゃない…」 真里の頬に触れながら、唇に目線を落とした。真里はぴくっと反応すると、目をきゅっと閉じた。 「緊張しているのか?お前が嫌なら無理強いはしない」 野崎は真里の頬から手を離そうとした時、真里は野崎に勢いよく抱きついた。野崎が一瞬後ろに倒れそうになりながらも、両腕で真里を抱きかかえる。 「違います!私は先生と…涼さんとしたいです…」 野崎を掴んでいる手に力が入る。  今恥ずかしい事を言っているのはわかっている。でも、先生には、ちゃんと言わないと届かない。 「俺は漫画に夢中になると他には何も考えられなくなる。お前の事を気づかない内に傷つけて、寂しい思いをさせてしまうだろう。だが、それでもそばにいて欲しいと思っている」  野崎の言葉に、真里は目頭が熱くなった。野崎も同じようにちゃんと気持ちを伝えようにしてくれている。真里は、腕を緩めて、野崎の顔を見た。 「もうそんなこと慣れっこです。ですが、たまにはこうやって私の事だけを見て、愛してくださいませんか?」 「え…」  野崎がきょとんとした目で真里を見た。だが目線を外す事はなく、両目をしっかりと見つめている。 「あ、すみません、重いですよね…」 「いや、可愛いと思ったんだ」  野崎の手が、真里の後頭部を掴み、唇が重なる。そしてそれがだんだん深くなり、真里を快楽の海に引き摺り込んでいく。 「真里…」 「涼…さん」  涼の唇と指の動きが真里の欲望を引き出す。好きな人に触れられている事実に悦びを感じるたびに、彼の通った部分が敏感に反応する。 「恥ずかしいです…」 「だがちゃんとしないと、お前が辛いだけだ」  長く、曲がった指が中に入ってくる感触に思わず吐息が漏れ出てくる。  先生がこの瞬間だけ私だけを見ている、私の名を何度も呼んでくれる。  激しいのに、全身を優しく包まれてる様な心地良い感覚… *  太陽の光を顔に浴びながら、真里はゆっくりと目を開けた。乱れた布団とシーツに包まれた気持ち良さに再び目を閉じようとしたが、ハッと我に帰り、慌てて身体を起こした。広いベッドに野崎の姿は無い。しかし、身体の中心に残る異物感が、彼がそこにいた確かな証拠だ。  一晩、一緒に過ごしたんだ…  真里は服を着てから下に降りた。 「涼さん、おはようございます」 「おはよう」 「すみません、寝坊してしまいました」 「気にするな、昨日は無理させたからな」 「朝ごはん…もうお昼ですね、食べますか?」 「ああ」  真里はダイニングに向かうと、テーブルの上に、破られた紙封筒と一緒に一冊の本が置いてあった。  うん?これは…  真里は手に取ると、それは『青春を感じろ!』の新刊だった。 「何で青田先生の本がここに…」  ビニールに包まれた本には帯が付いており、白文字で大きく書かれたキャッチコピーが目に入った。 『『マジカル⭐︎ジャーニー』野崎涼先生絶賛!「才能がある」と認めた青田陸先生の最新巻!』 「な、何?これ」 「五十嵐さんが勝手にやった。全く、抜け目のないやつだ」  後ろから野崎が返事をした。お腹が空いてダイニングにやってきたようだ。 「涼さん、青田先生にそんなこと言ったんですか?」 「まぁな」 「へぇ」  野崎が誰かを褒めるのは意外だと思いながらも、嬉しかった。 「お前は結局どうするんだ?今後」 「まだ編集長に返事はしていませんが、ファッション誌に戻ろうと思っています」 「そうか、漫画編集の才能あると思ったが」 「ありがとうございます。ですが、せっかく違うジャンルの編集を経験したので、それを活かしてファッション誌で何か新しいことに挑戦できないかと思ったんです」 「そういう事なら俺も応援する」  野崎はそう言いながら真里に近づき、軽いキスをした。 「真里」 「はい」 「何かあったら、ここに来い。俺はいつでもここにいる」 「はい!」  真里は野崎に思い切り抱きついた。野崎もそれに応えて、真里をぎゅっと抱きしめた。 冬の訪れを感じさせる、肌寒い気候には心地よい温かさだった。 了
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