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第二稿 恋愛ほど無駄なものはない
トントン、と真里は原稿揃えた後、専用の紙袋に入れた。
「先生今週も原稿ありがとうございました」
「ああ」
野崎は今の時代では少数派になりつつある、紙とインクで絵を描くアナログ方式のため、真里は毎週原稿を家まで取りに行かなければならない。今週も締め切り日にきちんと原稿を仕上げていた。
「これが来週のネームだ、まだざっくりだが」
「ありがとうございます、拝見します」
打ち合わせはいつも広いリビングで行う。グレーの1人がけと2人がけソファーがローテーブルを囲んでいて、床には短く起毛した白いラグが敷かれている。
真里が野崎の担当になってから2か月ほどが過ぎ、少しずつだが彼の事を理解し始めた。野崎は漫画以外の事には本当に興味が無いのか、無頓着だ。ご飯を食べない、お風呂に入らない、髭もお洒落と言うよりは無作為に伸ばしたままだ。どうやら締め切り後にお風呂に入り、髭を剃っているようだ。真里が訪問すると、決まって同じ白いTシャツにスウェットのズボンで、家のどこかで寝ている(ベッドではない)。今日は玄関前の庭で寝ていた。真里は倒れたのかと思い、慌てて野崎を起こしたが、次話のために苔の観察をしていて眠ってしまったと答えた。野崎は口が悪いが、真里とは相性が良いようでとても話しやすかった。初めて会った時は怖い目つきと話し方で恐怖しか感じなかったが、実は無愛想なだけだと最近理解した。真里は、世間の流行に疎い野崎に話作りの参考になればと思い、今流行っていることなど、小ネタを仕入れては一方的に話すようにしていた。野崎は時々嫌味な相槌を打ちながらも最後まで聞いてくれる。
「先生、トゥンカロンって知っていますか?」
真里はネームを読みながら、野崎に話しかけた。
「トゥ?何だそれ?またお前のうんちく話か」
「そうですよ、今女の子達に流行っているお菓子です。マカロンの間にクリームやフルーツや、チョコレートを入れて可愛くデコレーションされたものなんです。SNSで写真映えしますし、私もこの間の休みにカフェで食べてきました」
スマホの写真を見せると、野崎の目が細くなり、明らかに嫌そうな表情を見せる。
「そんなどぎつい色が食いたいとは、今時の子は頭がおかしくなったんじゃないか」
隠居したおじいさんの様な言い方に、真里はくすっと笑った。
「最近は自然の着色料を使用していて、体に良い物が多いんですよ。このピンクはフランボワーズの色ですし、緑は抹茶です」
「ふーん」
「先生は、お休みの日は何をやられていますか?」
「休みなどないし、いらない」
「そう…ですか…」
そういうと思いました。
真里は心の中で呟く。
「お前は休みの日にこういう所を巡っているのか?」
珍しく野崎から質問され、真里は驚きとともに嬉しさで目を輝かせた。
「いつもではありませんが…ちなみに先週はデートでした」
「恋人か」
「はい、付き合ってもうすぐ3年になります。でも彼は一年前から大阪に転勤に行っていて、今は遠距離恋愛ですね」
「ふーん、浮気されないといいな」
うぅ…相変わらず感じ悪いな…でもここは聞き流そう…
「だ、大丈夫ですよ、毎日連絡を取り合っている程仲良しですから」
「そうか」
「先生はお付き合いしている方、いらっしゃいますか?」
「いないし、いらない。恋愛ほど無駄なものはない。そんなものくだらないことに時間を費やすくらいなら…」
「漫画を描く、ですよね」
「よくわかってるじゃないか」
「ですが、恋という感情があるからこそ私たちの心は豊かであり、代々子孫も…」
「ふん、そんなの繁殖しか頭にない暇人どもに任せておけばいい。お前もそんなものに現を抜かさないで、何か他の事をした方がよっぽど有意義だと思うがね」
一つ言うと、嫌味付きで何倍にも返ってくる。真里は、さすがに顔にムッとした表情を見せた。
先生はもしかして…恋愛にトラウマでもあるのかな?
「今、俺の恋愛遍歴について想いを巡らせただろう」
「うっ…」
「お前の予想はハズレだ。人並みに女性と付き合ったことはあるし、別に嫌な思い出もない。ただ、決まって最後は『こんな人だと思わなかった』『もっと構って欲しかった』と言われて終わったがな…俺には何かが欠けているらしい」
野崎はどこか遠くを見つめながらふふっと笑う。
自覚はあるんだ…真里は心の中で呟いた。
「良いんだよ、俺は漫画を愛してる。だから、他は何もいらない」
野崎の表情が急に穏やかに変化したのを真里は見逃さなかった。
この人は本当に漫画が大好きなんだ。だから全てを捧げて打ち込んでいるんだ…
真里は手に持っていたネームを机に置いた。
「あの、先生」
「ん?」
「一点申し上げてもよろしいでしょうか」
「なんだ」
「主人公レオがここで怒るシーンですが、これは彼ではなくて、ヒロインのリリーに言わせてはどうでしょうか」
「何故だ?」
「それは、第2巻第11話に登場する、リリーの過去と関係あるからです。リリーはこの事をトラウマに感じているからこそ、レオよりも思い入れが強いと思うんです。私なら辛くて怒りを我慢できないと思います」
「そうすると、主人公の見せ場がなくなるじゃないか」
「なので、一旦リリーにはバトルで負けてもらうのはどうですか?そこにレオが助け舟を出す。リリーはきっといつもより動揺しているはずですし、そこを丁寧に描けば、読者からの共感が得られると思います」
「うーん…」
しまった、つい熱くなって色々と言ってしまった…
野崎が漫画にどれだけの気持ちを注いているかわかった。だからこそ、顔色を伺いながら何も言わないというのは逆に失礼だと真里は思った。しかし、新人ごときが出過ぎた真似をしたかもしれない。真里はちらっと野崎の機嫌を伺った。てっきり不機嫌になっているかと思ったが、野崎はしかめていた眉を解き、ニヤッと笑った。
「良いんじゃないか?お前の案で行こう」
「え?…はい、ありがとうございます!」
「礼を言うのはこっちだ、早速描き直すから、できたらファックスする」
野崎はソファから立ち上がりながら、真里の頭をポンと撫でた。大きく、硬い手の感触にどきっとする。彼氏とはまた違う大人の手に、色気を感じた。真里は顔が真っ赤になっているのを野崎に気づかれたくなくて俯いた。
*
プルル、プルル…
「はい」
「あー野崎君?五十嵐です」
「編集長から電話なんて珍しいですね」
「そうか?まあ、昔は担当としてよく一緒に話してたけど、今は色々忙しいんだ。あの頃が懐かしい…」
「早く要件をお願いします」
「ははっ、野崎君らしいな。今年『マジカル☆ジャーニー』の第9弾の映画も決まったことだし、秋に開催する関係者パーティで挨拶して欲しいんだ」
「お断りします」
「そう言うと思ったよ」
「原稿が立て込んでいるので、それだけならもう切ります」
「ああ、ところで小田くんはどうだ?」
「小田ですか?」
「少しは役に立っているか?」
「…」
野崎は何かを言いかけたが、ゆっくりと口を閉じた。
最初はただの小娘かと思っていた。しかしーー
ーーヒロインのリリーを含めた女性のキャラクターの感情はふわふわとした感じで描かれているように思うんです。
彼女の指摘は、まさに俺と五十嵐編さんも『マジカル☆ジャーニー』に足りないと思っている所だった。少年漫画を愛する読者としてでは無く、編集としての視点だからこそ言える事なのかもしれない。かつ、今日の意見は、俺の本を隅々まで読んでいたからこそ言えた事だ…一見、漫画とは関係の無い無駄話ばかりしているのに、裏では相当この作品を読み込んているのだろう。
「ふふっ…」
「野崎くん、どうした?」
「いいえ、小田はよくやっていますよ」
「…そうか」
まさか野崎君がそんな事を言うとはな…
編集長は一瞬目を開いて驚いたが、その後優しい笑みを見せた。野崎は編集担当が誰であろうと特に興味が無い為、あまり人を褒めたりしない。しかし真里に対して初めて感想を言ったのだ。
「編集長、どうしました?」
編集長が電話を切った後、近くを通りかかった佐々木が声をかけた。
「俺の計画が着々と…ふふふ…」
「??」
少年誌に女性編集を迎える事に悩んだが、結果良かったのかもしれない。野崎君が少しずつ彼女に心を開いているようだ…もし彼が『女心』を学んで、それがさらに良い作品に繋がると、売り上げUP、昇給昇進だ!
「ふふふ…」
「編集長…怖いですよ…」
佐々木は少し後退りした。
つづく
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