【1:春野日向は憂いを見せる】

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【1:春野日向は憂いを見せる】

 俺が町でたまたま彼女を見かけたのは、高校一年生から二年生になる春休みのことだった。  その日、俺は繁華街に買い物に出かけて、夕方、自宅に向かっていつもの道を歩いていた。  最寄りの駅から普通の通りを通らずに、小さな川の土手沿いの狭い歩行者専用の遊歩道を歩いて帰る。  そこから細い歩行者専用の橋を渡って、しばらく住宅街の道を歩くと俺の自宅に至る。  それがいつもの帰り道。  人通りが少ないし、遊歩道の植樹やらキラキラ光る川の水面を眺めながら歩けるから、このルートがお気に入りなんだ。  その橋の手前まで来た所で、橋の中ほどに、同い年くらいの一人の女の子が佇んでるのを見かけた。  橋の欄干に両肘を預けて、夕焼け空をじっと眺めている。  元々人通りが少ない場所なので、そこに人がいるだけでも「おっ?」と気になるのだけれど、それがあまりにも美しい少女だったもので、俺は思わず足を止めた。  川沿いの遊歩道から橋を見上げると、少女は俺にはまったく気づかぬ様子で、ただ一心不乱に茜色に染まる空を見つめている。 「あ……あれは……」  夕焼けに照らされ、赤く染まっているのは、確かに見覚えのある顔だ。  高校一年生の時に同じクラスだった春野(はるの) 日向(ひなた)。  同じ学年で……いや学校で一番の美少女で、『学園のアイドル』と皆から呼ばれる我が校の有名人。  学園のアイドルどころか、将来は本物のアイドルを目指しているという話を聞いたことがある。  そしてほとんどの人が「だろうねぇ。彼女ならば充分実現可能だよ」と評するほど、彼女の美しさは学校でも際立っている。  長いまつ毛で綺麗な二重の目に、通った鼻筋。  流れるようなあごのラインで、こぢんまりとした小さな顔。  風にサラサラとたなびく美しい栗色の髪。  夕陽に照らされたその顔は、この世のものとは思えないほど、幻想的とさえ言える美しさを纏っている。  俺は思わず息を飲んで、春野 日向の姿に見入ってしまった。  俺は学校では、仲のいい数人とは話すけど、誰とでも親しくするのは苦手……というか面倒くさい。  陰キャとまでは思わないけど、愛想を振りまくなんて柄じゃない。  一方の彼女は誰にでも愛想が良くて、しかも成績トップ、スポーツ万能、歌もピアノも抜群に上手くて、超人気者。  あまりに高嶺の花感が強すぎて、同じクラスにいるのに住んでる世界が違う気がしてならない。  だから一年間まともに話したこともないのだけれど、それでもその美しい容姿は、もちろん頭に焼き付いている。  だけど──  今俺が目にしている彼女の美しさは、今まで何度も見たことがある彼女そのものではある。  しかしその表情に、俺の胸にはなんとも言えない違和感が溢れた。  眉をしかめ、口をキュッと真一文字に結んだ物憂げな顔。  ほんのり苦悩さえ浮かんでるようにも見える。  学校で見かける彼女は、人と接する時にはいつも、周りを明るくさせるような笑顔を絶やしたことはない。  一人でいる時や真剣に授業を受けている時でさえ、清楚で優しい微笑みを浮かべたような、落ち着いた柔和な顔つきをしている。  こんなに苦しそうな……というか、悩んでいる感じは、クラスを共にした一年間で見たことがない。 「もしかして……」  ──あいつ、川に投身するつもりじゃないだろうか。  そんなことがふと頭をよぎって、俺が橋に向かって走り出そうとしたその時──  春野はクルッと身体の向きを変えて、橋の向こう側へと、しっかりとした足取りで歩いて行った。  どうやら自殺とかではなかったようで、ホッとした。  まあ、よくよく考えたら、あれほど色んな才能に恵まれた人が自殺なんてする理由は見当たらないし、そこまで悲壮な顔をしていたわけでもなかった、と思えてきた。  でも学校で見かける彼女は、本当に『アイドル』の名にふさわしくて、いつも笑顔を絶やさないのに……  俺はしばらく立ちすくんだまま、春野 日向について思考を巡らせていたけれど、ふと我に返った。 「あっ、やっべぇ。早く帰らないと、母さんにどやされてしまう!」  俺は自分の母親が主催する料理教室で、三ヶ月ほど前、高一の冬休みから講師として週一回アルバイトをしている。  今日はそのバイトに入る日で、夕方五時からの『体験コース』に間に合うように帰宅すると、母に約束して出かけたのだった。  今日のは超初心者向けで、正式に料理教室に入る前に体験をしてもらうコースだ。  体験をした上で、気に入れば正式に教室に通ってもらうことになる。  ふとスマホを見ると、もう開始20分前だ。  急いで帰らないといけない。  まあ春野のことは、考えても仕方がない。  あいつと俺は住む世界が違うんだ。  どうせ彼女と話す機会もないし、いわばテレビのアイドルをたまたま街中で見かけたようなものだ。  そのアイドルが例え悩みを抱えているとしても、一般ピープルの俺が心配しても仕方がないってことなんだよな。  ──そう考えて、俺は帰宅の途を急いだ。  自宅に着いて、玄関扉を開けて中に入る。  そして二階にある自分の部屋で、料理教室講師用の服に着替えた。  コックコートと呼ばれる洋食の料理人のような上下白の服を着て、髪型を整える。  普段は面倒くさいから、髪はいつもボサボサで、前髪も目が見えないくらい伸ばしている。  だけど料理教室の講師は清潔感が大切だと母に言われ、講師をする時だけは整髪剤できっちりと髪を整え、前髪も上げるようにしている。  準備を終えて、一階に降りた。  そして料理教室用の部屋に向かう。  母親の料理教室は、一戸建ての自宅の一部を改造した部屋で開催している。  ちょうど自分の部屋の真下が教室になっていて、道路から生徒さんが入る玄関扉があるのだけど、自宅からも直接教室に入れるように扉がついている。  俺はその扉の手前で、ひとつ深呼吸をした。  料理をするのは好きだし、その好きな料理を人様に教えるのも嫌いではない。  だけど生徒さんはほとんどが女性で、その中に一人ポツンと男子がいる構図ってのは、居心地が悪いことこの上ない。  女性はお喋りが好きな人が多いし、うまく話題を合わせるなんて、俺には無理だ。  講師バイトをやり始めて三ヶ月経っても、それは全然変わらない。  だから気を落ち着けるために深呼吸をして、そして料理教室の扉を開く。 「こらー、祐也(ゆうや)! 遅いぞー!」  エプロン姿の母が、俺の姿を見るなり眉間に皺を寄せて睨んできた。  手に持ったクリップボードをぶんぶん振っている。 「ごめんごめん」  母の目はそんなにマジじゃないから、本気で怒ってるのではなさそうだ。  教室内を見回すと、いつもの光景が広がっている。  大手の料理教室とは違って、多くても一度に5~6人の生徒さんが受講するだけの、こぢんまりとした部屋だ。  前の方には講師用のキッチン台。  その上方の天井には、生徒側から講師の手元がよく見えるように、斜めに大型のミラーが取り付けてある。  部屋の中央には生徒さんが調理をするための、長方形の大型調理台が備え付けられている。  洗い物をするシンクが二つ付いているタイプだ。  その調理台の横に、クリップボードとシャーペンを手にした母が立っていて、その周りを囲むように、今日の生徒さんであろう女性が四人固まって立つ後ろ姿が目に入った。  ──今日の生徒さんは四人か。  母が俺に向かって声を出したものだから、生徒さん達は一斉に俺の方を振り向いた。  その中に──  なんと春野 日向の姿があった。
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